『新・人間革命』第21巻 SGIの章 56P~
信心を始めたミラーは、創価学会のことや、会長の山本伸一のことを、ぜひ、自分の目で確かめたいと思った。ミラーが日本に到着したのは、1968年(昭和43年)の5月であった。彼は、どこへ行っても、学会員に温かく迎えられ、大歓迎された。ミラーは、男子部幹部会にも連れて行ってもらった。
伸一は、幹部会が始まると、壇上から参加者をじっと見ていた。彼の視線は、頬から顎にかけてヒゲを生やした金髪の青年に注がれていた。ミラーである。世界広宣流布に真剣勝負で臨む伸一の生命のレーダーは、デンマーク人の青年を見逃すことはなかった。
伸一は、「今日は、海外の同志も参加されています。皆さん方の代表として、念珠を差し上げたいと思います。どうぞ、前においでください」そして、ミラーに向かって手招きした。伸一は、ミラーと握手を交わしながら言った。「デンマークの人びとの幸福のために、頑張ってください!」ミラーは頷いた。彼は、自分の胸を射貫くような伸一の目の輝きから、大きな期待と真心を感じ取った。これが、大きな転機になったのである。
"この出会いが、彼を励ませる最後の機会かもしれない。生涯の崩れざる幸福の軌道を築いてほしい。広宣流布に断じて生き抜いてほしい"いつも伸一は、こう懸命に祈り念じつつメンバーに接し、励ましの言葉をかけ続けた。
その必死さが、真剣さが、相手に伝わり、魂を揺さぶるのである。励ましとは、生命の触発作業なのだ。
ミラーは、コペンハーゲン大学に入学する。大学には上岡政之が先に入学していた。上岡は当初、一年間ほどで帰国するつもりであったが、デンマークで暮らすなかで、ミラーと一緒にデンマークの広宣流布に生きる決意を固めていったのである。
やがて、上岡はデンマークのSGIの初代理事長に、ミラーは二代目の理事長となっていく。また、二人が出会った母校のアスコ―校から、2000年9月、伸一に第1号の「教育貢献賞」が贈られ、さらに、その後、同校内に、牧口常三郎、戸田城聖、山本伸一の「三代会長の木」が植樹されることになるのである。
山本伸一は、世界平和会議でスピーチを終えると、各テーブルを回って参加者をねぎらった。東南アジアのメンバーの席に来た時、シンガポールの代表である高康明に声をかけた。
「あれから14年で、シンガポールも、マレーシアも、広宣流布は大きく進みました。隔世の感があります。高さんの功績です。あなたが陰でどれほど苦労して奮闘してきたか、私はよく知っております」
高は中国名を名乗っているが、愛媛県の弓削島生まれの日本人である。船舶代理店に勤務した折、シンガポールに派遣されたのだ。日本軍による占領直後であり、日本はシンガポールを「昭南」と呼び、現地の人たちに対し、傍若無人な振る舞いを重ねた。
高は、それが腹に据えかねていた。敗戦後、高は収容所に入れられたが、出た彼を現地の人たちは温かく迎えてくれたのだ。高は、シンガポールの人たちが、"憎むべき日本人"を仲間として迎えてくれた心に、深い感動を覚えた。
高は、商用で日本に行った折、商船学校時代の教官から、信心の話を聞かされた。「この日蓮大聖人の仏法こそ、世界の人びとを救う幸福の道なんだよ」確信にあふれた話が胸に響いた。高は信心を始めた。"シンガポールの人たちに真実の仏法を伝えよう。それが最高の恩返しになるはずだ!"
最初に信心の体験をつかんだのは、内臓疾患で8回も手術を重ねてきた妻であった。一緒に題目を唱えると目に見えて健康になっていったのである。この体験を二人は喜々として語って歩いた。しかし、なぜ、そうなるのかを聞かれると、説明はしどろもどろになった。
功徳を実感し、語るべき体験もあるのに、意を尽くせないことがもどかしかった。高は日本から学会の書籍や聖教新聞を送ってもらい、教学などを懸命に学びながら、仏法対話を重ねていった。
1965年シンガポールがマレーシアから分離・独立すると高は、マレーシアのクアラルンプールの支部長となったのである。
太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋
信心を始めたミラーは、創価学会のことや、会長の山本伸一のことを、ぜひ、自分の目で確かめたいと思った。ミラーが日本に到着したのは、1968年(昭和43年)の5月であった。彼は、どこへ行っても、学会員に温かく迎えられ、大歓迎された。ミラーは、男子部幹部会にも連れて行ってもらった。
伸一は、幹部会が始まると、壇上から参加者をじっと見ていた。彼の視線は、頬から顎にかけてヒゲを生やした金髪の青年に注がれていた。ミラーである。世界広宣流布に真剣勝負で臨む伸一の生命のレーダーは、デンマーク人の青年を見逃すことはなかった。
伸一は、「今日は、海外の同志も参加されています。皆さん方の代表として、念珠を差し上げたいと思います。どうぞ、前においでください」そして、ミラーに向かって手招きした。伸一は、ミラーと握手を交わしながら言った。「デンマークの人びとの幸福のために、頑張ってください!」ミラーは頷いた。彼は、自分の胸を射貫くような伸一の目の輝きから、大きな期待と真心を感じ取った。これが、大きな転機になったのである。
"この出会いが、彼を励ませる最後の機会かもしれない。生涯の崩れざる幸福の軌道を築いてほしい。広宣流布に断じて生き抜いてほしい"いつも伸一は、こう懸命に祈り念じつつメンバーに接し、励ましの言葉をかけ続けた。
その必死さが、真剣さが、相手に伝わり、魂を揺さぶるのである。励ましとは、生命の触発作業なのだ。
ミラーは、コペンハーゲン大学に入学する。大学には上岡政之が先に入学していた。上岡は当初、一年間ほどで帰国するつもりであったが、デンマークで暮らすなかで、ミラーと一緒にデンマークの広宣流布に生きる決意を固めていったのである。
やがて、上岡はデンマークのSGIの初代理事長に、ミラーは二代目の理事長となっていく。また、二人が出会った母校のアスコ―校から、2000年9月、伸一に第1号の「教育貢献賞」が贈られ、さらに、その後、同校内に、牧口常三郎、戸田城聖、山本伸一の「三代会長の木」が植樹されることになるのである。
山本伸一は、世界平和会議でスピーチを終えると、各テーブルを回って参加者をねぎらった。東南アジアのメンバーの席に来た時、シンガポールの代表である高康明に声をかけた。
「あれから14年で、シンガポールも、マレーシアも、広宣流布は大きく進みました。隔世の感があります。高さんの功績です。あなたが陰でどれほど苦労して奮闘してきたか、私はよく知っております」
高は中国名を名乗っているが、愛媛県の弓削島生まれの日本人である。船舶代理店に勤務した折、シンガポールに派遣されたのだ。日本軍による占領直後であり、日本はシンガポールを「昭南」と呼び、現地の人たちに対し、傍若無人な振る舞いを重ねた。
高は、それが腹に据えかねていた。敗戦後、高は収容所に入れられたが、出た彼を現地の人たちは温かく迎えてくれたのだ。高は、シンガポールの人たちが、"憎むべき日本人"を仲間として迎えてくれた心に、深い感動を覚えた。
高は、商用で日本に行った折、商船学校時代の教官から、信心の話を聞かされた。「この日蓮大聖人の仏法こそ、世界の人びとを救う幸福の道なんだよ」確信にあふれた話が胸に響いた。高は信心を始めた。"シンガポールの人たちに真実の仏法を伝えよう。それが最高の恩返しになるはずだ!"
最初に信心の体験をつかんだのは、内臓疾患で8回も手術を重ねてきた妻であった。一緒に題目を唱えると目に見えて健康になっていったのである。この体験を二人は喜々として語って歩いた。しかし、なぜ、そうなるのかを聞かれると、説明はしどろもどろになった。
功徳を実感し、語るべき体験もあるのに、意を尽くせないことがもどかしかった。高は日本から学会の書籍や聖教新聞を送ってもらい、教学などを懸命に学びながら、仏法対話を重ねていった。
1965年シンガポールがマレーシアから分離・独立すると高は、マレーシアのクアラルンプールの支部長となったのである。
太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋