小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

C作戦

破門通告の真相

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P342~

日顕は、自らの陰謀を正当化するために、伸一を"大謗法"の者に仕立てあげることに、躍起となった。そして、68年(昭和43年)の正本堂着工大法要での伸一の発言に、全く見当違いな言いがかりをつけたのである。

日顕は、--日達上人は「明らかに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇が正本堂であるということは、そのものずばりの形でおしゃってはいない」正本堂が、「本門の戒壇」という意義づけは、伸一が、勝手に行ったものである。公式発表は、1972年4月28日の「訓諭」であり、それ以前に、一信徒が正本堂の意義を確定するなど、言い過ぎである。反省し、訂正しなければならないーーと非難したのだ。

伸一の言葉は、65年2月に開かれた第一回正本堂建設委員会での日達法主の説法を受けたものだ。その席で、日達法主は、正本堂が広布の暁に本門寺の戒壇の意義をもつ建物であることを明らかにしたではないか。この説法が、正本堂がいかなる意義をもつかを示す原点となっていったのだ。

さらに何よりも、その後、日達法主が、「事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中であります
」と述べているのだ。当時、宗務院教学部長であった日顕自身が、こう記しているのである。「宗祖大聖人の御遺命である正法広布事戒壇建立は、御本懐成就より680数年を経て・・・始めてその実現の大光明を顕さんとしている。その事実こそ此の度の正本堂建立発願式であろう」

宗門関係者の言葉は、「大日蓮」の昭和42年1月号だけを見ても、枚挙にいとまがない。ところが日顕は、着工大法要で山本伸一が正本堂を「本門の戒壇」と言ったのは独断であり、以来、そのような空気が宗門を巻き込んでいったというのだ。

仮に、伸一の発言が間違っているならば、そんな大問題を、なぜ、20年以上も放置しておいたのか、ましてや日顕は、当時、宗務院教学部長である。甚だしい責任放棄ではないか。

大聖人は、「僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり」と喝破されている。僻事とは道理に合わず、事実と違うということである。日顕宗は、自ら邪教であることを証明したことになる。

さらに、日顕は全国教師指導会で、正本堂の意義について72年4月の日達法主の訓諭の発言の「意義を含む」や「たるべき」の言葉に珍妙な解釈、正当な文法解釈とは間違った解釈を披露し説法していた。

日顕の発言を知った学会員は、愕然とした。学会としても、絶対に看過するわけにはいかぬ重大な問題であった。早速、この説法の矛盾点や疑問点について、文書をもって日顕に質したのである。

回答は空しい言い訳に終始し、矛盾だらけの回答であった。厳たる歴史的事実を歪め、欺こうというのだから、嘘と詭弁で塗り固める結果になるのは当然である。学会として、48項目にわたる質問を、再び提出したが、回答はなかった。

そして、1991年(平成3年)の11月7日、遂に宗門は、一方的に、創価学会に「解散勧告書」を送付した。さらに28日には、「破門通告書」を送り、正法正義を守り抜いて広宣流布に邁進しゆく学会を"破門"にするという、仏法破壊の極悪の大罪を犯したのである。

愚昧な彼らは、これで学会は窮し、多くの学会員が宗門に付くと考えたのであろう。それは、"衣の権威に民衆は従う"という、人間蔑視も甚だしい思い上がりである。宗門は、法主を絶対化し、信徒には隷属を強い、一閻浮提総与の大御本尊をも私物化した。

さらに、ベートーベンの第9"歓喜の歌"をドイツ語で歌うことは外道礼賛であるなどと文化を否定し、世界広宣流布の道を閉ざそうとした。

しかも、日顕自ら禅寺に墓を建てるなどの大愚も犯し、法師の皮を着た畜生さながらに供養を貪り、遊興を繰り返してきたのだ。

その誤りを戒め、戦ってきたわが同志にとって、"破門"なるものは、栄えある開放であった。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

破壊者日顕による 正本堂解体

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P331~ 

10月16日は、「久遠の灯」の点火大法要が行われた。正本堂の中央ブリッジ前に設置された「久遠の灯」の灯火台に火をともす儀式である。

翌17日は、慶祝法要最後の日であり、正本堂記念品埋納大法要が営まれた。須弥壇下の埋納室に、さまざまな記念品を納める儀式である。

伸一は、その説明をしたあと、彼方を仰ぐように顔を上げると、力強い声で語った。「この部屋は、猊下の御認可を得まして、第一回は今日より700年後、第二回は三千年後、そして第三回は1万年後に開かれることになっております」気の遠くなるような、想像もつかない未来である。しかし、皆、壮大なロマンに胸が躍った。

正本堂が幾世紀を越えて、平和の殿堂として存在し続けることを、誰もが確信していたのである。

正本堂の耐久性について、構造設計担当者の恩師である東大の坪井善勝名誉教授は、こんなエピソードを紹介している。

1971年10月、日本で行われたIASS国際シェル会議に出席した折のことである。鉄骨構造の権威である、イギリスのマコースキー教授と、正本堂の技術的な問題について話し合った際、ある新聞記者が「この建物は何年ぐらいもつと考えるか」と尋ねた。すると、マコースキー教授は「1万年」と答えたというのだ。

坪井名誉教授は記している。「この建物がマコースキーの言う耐用年数を期待することは我々構造設計者の能力の限界を超えたことである。すなわちいつまでも我々の次の時代また次の時代、その次の時代・・・の人びとが大石寺正本堂を大切に守るかどうかによって耐用年数は決定する」

円融閣いっぱいに掲げられている大緞帳の「閉幕式」である。落成の式典はすべて終了した。伸一は「閉幕式」を終えると、その足で戸田城聖の墓に向かった。一刻も早く、一切が無事に終わったことを、報告したかったのである。

正本堂建立の喜びは日本列島の津々浦々に広がっていた。全国各地で正本堂落慶記念ブロック座談会が、盛大に開催されたのである。

正本堂落成慶讃大法要の一連の儀式を終えた総本山では、記念登山会が始まり、連日、登山会参加者で賑わっていた。山本伸一は、しばらくは総本山にあって、各地から集って来るメンバーの激励に、日々、全力を傾けていた。

伸一は学会員の姿を見れば駆け寄り、全精魂を込めて激励した。輸送班の青年とは、一緒にカメラに納まり、抱きかかえるようにして握手を交わした。

「広布第二章」の伸一の戦いは、正本堂を訪れる同志への、生命を揺さぶるような励ましから始まったのである。完成した正本堂は、全信徒の誇りであった。

民衆の力によって築かれた、民衆のための荘厳な正本堂を見て、日蓮大聖人の仏法への理解を深めていった各界の指導者や学識者も少なくない。

ところが、落成からまだ26年にも満たない1998年(平成10年)の6月、なんと、その正本堂の解体が始まったのである。

この暴虐の破壊者は、日蓮正宗総本山代67世の法主を名乗る阿部日顕であった。

800万信徒の赤誠を踏みにじり、大聖人御遺命の「本門寺の戒壇」たるべき大殿堂を破壊するという大暴挙である。大聖人の法門に対する大変な叛逆である。御聖訓には「謗法と申すは違背の義なり」と厳しく仰せである。

さらに、日顕は、師の日達法主にも背き、その指南をも覆したのだ。正本堂の解体は「世界の宗教上及び文化上の遺産を甚だしく傷つけること」だと、海外の識者も強く抗議した。

日顕の常軌を逸した、この蛮行の淵源には、伸一と会員を離間させ、会員を信者として奪い取ろうとする悪辣な陰謀があった。いわゆる「C作戦(Cはカットの意)」である。

1990年の年末、突然、宗門は宗規の改正を口実にして、総講頭であった伸一をはじめ、大講頭らを一方的に、事実上、解任処分にした。「C作戦」が実行に移されたのだ。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

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