『新・人間革命』第8巻 布陣の章 P7~
<新・人間革命 8巻 開始>
<布陣の章 始まる>
創価学会の精神の光源は 初代会長牧口常三郎と第二代戸田城聖が織り成した、燦然と不滅の光を放つ、師弟の不二の道である。
「獅子の道」とは、正義に生き抜く、”師”と“弟子”の「師子の道」でもある。何ものをも恐れず、一人立つ「勇者の道」である。邪悪を打ち砕く、「勝利の道」である。また、どこまでも民衆を守り抜く、「慈悲の道」である。
この戸田の心を分かちもつ、人びとの連帯を築き、崩れざる幸福と平和の建設に立ち上がった獅子の集いが創価学会である。
山本伸一は、会長就任三周年となる、1963年(昭和38年)、5月三日の本部総会を前にして、今なすべきことは何かを考え続けていた。
この5月3日は、伸一が第一の指標と定めた、恩師戸田城聖の七回忌に向かう総仕上げの一年となる。
次の飛翔のためには、さらに、各地に本部、総支部の布陣を整え、組織の強化を図る必要があることはわかっていた。
しかし、伸一は、もっと重要な課題があることを痛感していた。それは、殉難をも恐れず、民衆の幸福と人類の平和に生涯を捧げた、牧口常三郎と戸田城聖の精神を、いかにして永遠のものにしていくかということであった。
学会のため、広宣流布のために、自分が何をするのかではなく、できあがった組織の上に乗っかり、学会に何かしてもらうことを期待する幹部が出始めていることを、彼は感じとっていた。
また、学会のなかで、より高い役職につく、ことが立身出世であるかのように勘違いし、いわゆる”偉くなる”ことに執心し、人事のたびごとに、一喜一憂している者もいた。
名聞名利の心をいだき、自分のために学会を利用しようとするようなものが幹部になれば、会員が不幸である。やがては、学会自体が蝕まれ、内部から崩壊していく要因となることは必定である。
伸一は、未来の大発展のために、この兆候の根を断ち、まず幹部の胸中に、学会精神をみなぎらせることから始めようと、密かに決意したのである。
5月3日第25回本部総会の日を迎えた。やがて、人事の発表となった。女子部長になった渡道代は、学生部長の渡五郎の妻であり、夫妻ともに、山本伸一が手塩にかけて育ててきた人材であった。
彼女は、朝鮮(当時)で生まれ終戦とともに日本に帰ってきたが、秩父の親戚の牛小屋に床を張った一間の家で家族6人で暮らす。家計を支えるため、女学校に通いながら、山から柴を運び出す仕事をする。
一家は、大宮に移転すると入学金を蓄え、道代は 早稲田大学の法学部に進学する。彼女は社会主義の運動に参加するが、世の中には、不治の病や家庭不和など、社会制度の改革だけでは、解決しようのない苦悩が 数多くあることを思うと、その運動にも限界を感じた。
そんな時、学会の話を聞き、一年間、信心に励んで、思うような結果が得られなければやめようとの考えで、大学在学中に 入会した。彼女は何かをつかもうと、真剣に信心に励んだ。そうしたなかで、民衆を苦悩から開放できるものは仏法しかないとの、強い確信をもつようになった。
一年たった時、彼女は、生涯、学会とともに生き抜く決意を固めていた。大学を卒業すると、本部職員となり聖教新聞の記者となった。自分のかかわった仕事を完璧なものにしていこうという、強い向上心があった。
彼女の発想は、斬新であった。しかし、それゆえに、婦人部や女子部の先輩達には、受け入れられないこともあった。行き詰まった道代は、山本伸一に、指導を求めに来ることがよくあった。彼は、道代の資質を女子部のためにも生かしたいと思い、時には、あえて厳しい指導もした。
「信仰というのは、人間性の錬磨であることを忘れてはいけない」
道代は、女子部のリーダーの一人として、着実に成長していった。
<布陣の章 始まる>
創価学会の精神の光源は 初代会長牧口常三郎と第二代戸田城聖が織り成した、燦然と不滅の光を放つ、師弟の不二の道である。
「獅子の道」とは、正義に生き抜く、”師”と“弟子”の「師子の道」でもある。何ものをも恐れず、一人立つ「勇者の道」である。邪悪を打ち砕く、「勝利の道」である。また、どこまでも民衆を守り抜く、「慈悲の道」である。
この戸田の心を分かちもつ、人びとの連帯を築き、崩れざる幸福と平和の建設に立ち上がった獅子の集いが創価学会である。
山本伸一は、会長就任三周年となる、1963年(昭和38年)、5月三日の本部総会を前にして、今なすべきことは何かを考え続けていた。
この5月3日は、伸一が第一の指標と定めた、恩師戸田城聖の七回忌に向かう総仕上げの一年となる。
次の飛翔のためには、さらに、各地に本部、総支部の布陣を整え、組織の強化を図る必要があることはわかっていた。
しかし、伸一は、もっと重要な課題があることを痛感していた。それは、殉難をも恐れず、民衆の幸福と人類の平和に生涯を捧げた、牧口常三郎と戸田城聖の精神を、いかにして永遠のものにしていくかということであった。
学会のため、広宣流布のために、自分が何をするのかではなく、できあがった組織の上に乗っかり、学会に何かしてもらうことを期待する幹部が出始めていることを、彼は感じとっていた。
また、学会のなかで、より高い役職につく、ことが立身出世であるかのように勘違いし、いわゆる”偉くなる”ことに執心し、人事のたびごとに、一喜一憂している者もいた。
名聞名利の心をいだき、自分のために学会を利用しようとするようなものが幹部になれば、会員が不幸である。やがては、学会自体が蝕まれ、内部から崩壊していく要因となることは必定である。
伸一は、未来の大発展のために、この兆候の根を断ち、まず幹部の胸中に、学会精神をみなぎらせることから始めようと、密かに決意したのである。
5月3日第25回本部総会の日を迎えた。やがて、人事の発表となった。女子部長になった渡道代は、学生部長の渡五郎の妻であり、夫妻ともに、山本伸一が手塩にかけて育ててきた人材であった。
彼女は、朝鮮(当時)で生まれ終戦とともに日本に帰ってきたが、秩父の親戚の牛小屋に床を張った一間の家で家族6人で暮らす。家計を支えるため、女学校に通いながら、山から柴を運び出す仕事をする。
一家は、大宮に移転すると入学金を蓄え、道代は 早稲田大学の法学部に進学する。彼女は社会主義の運動に参加するが、世の中には、不治の病や家庭不和など、社会制度の改革だけでは、解決しようのない苦悩が 数多くあることを思うと、その運動にも限界を感じた。
そんな時、学会の話を聞き、一年間、信心に励んで、思うような結果が得られなければやめようとの考えで、大学在学中に 入会した。彼女は何かをつかもうと、真剣に信心に励んだ。そうしたなかで、民衆を苦悩から開放できるものは仏法しかないとの、強い確信をもつようになった。
一年たった時、彼女は、生涯、学会とともに生き抜く決意を固めていた。大学を卒業すると、本部職員となり聖教新聞の記者となった。自分のかかわった仕事を完璧なものにしていこうという、強い向上心があった。
彼女の発想は、斬新であった。しかし、それゆえに、婦人部や女子部の先輩達には、受け入れられないこともあった。行き詰まった道代は、山本伸一に、指導を求めに来ることがよくあった。彼は、道代の資質を女子部のためにも生かしたいと思い、時には、あえて厳しい指導もした。
「信仰というのは、人間性の錬磨であることを忘れてはいけない」
道代は、女子部のリーダーの一人として、着実に成長していった。
太字は 『新・人間革命』第8巻より