『新・人間革命』第10巻 桂冠の章 P342~

1966年(昭和41年)「黎明の年」が明けた。学会が、最初に「黎明の年」をモットーに掲げたのは、戸田城聖が死去した翌年の、1959年であった。まだ、同志の悲しみの癒えぬなかに迎える、この新しき年を、「黎明の年」にしようと提案したのは、実質的に学会の指揮をとっていた伸一であった。

師亡きあと、弟子が立ち上がり、弟子が戦い、新しき勝利の夜明けを開かんとの決意を込めて、名づけたのである。

黎明とは出発である。そこから、新しき旭日のドラマが始まる。黎明とは希望である。ひとたび、闇を破って太陽が登れば、海も、山も、大地も、人も、すべては金色に染まる。まさに黎明は、未来の無限の可能性を象徴しているといってよい。

伸一は、今、再び迎えた「黎明の年」を、世界広布の新しき黎明を告げる年にしようと、固く心に誓っていたのであった。

そして、1月の14日には、早くも、ハワイに出発したのである。彼の今回のハワイ訪問の最大の目的は、ハワイ会館の開館式に出席することであった。

オープン準備と青年の育成のために、男子部幹部で理事の三根忠義をハワイに派遣した。三根がハワイで目にしたものは、ハワイの同志の広宣流布へのひたぶるな情熱と、あふれる求道心であった。

なかでも「パイナップル部隊」を自称する男子部員の気迫に、三根は舌を巻いた。彼らの決めた合言葉は「ゴー・フォー・ブローク!」(全力を尽せ!)である。これは第二次世界大戦中、アメリカ本土とハワイの日系人の志願兵で構成された、米軍の442部隊のスローガンであった。

ハワイの男子部は、このスローガンを平和建設のための活動の合言葉として使い、広宣流布に邁進してきたのである。彼らは、あえて、アロハシャツではなく、白い半袖のシャツにネクタイを締めるように申し合わせ、さっそうと布教に、夜の激励に奔走してきた。この”制服”は、“自分たちはハワイの行楽のムードに浸ることなく、広宣流布の闘志として戦い抜こう”という、決意の象徴であった。

メンバーはともかくよく動いた。山本会長がハワイを訪問することが伝えられると、メンバーの作業には、一段と、力がこもった。会館の庭には、バナナ、グアバ、パパイア、ココナッツなど、ハワイにできる、ほとんどの果実の木が生い茂り、美しい緑の芝生が広がっていた。

ハワイを象徴するかのような、この会館がメンバーは誇らしかった。ハワイ中の人びとに、「これが私たちの会館です」と言って胸を張りたかった。そして、隅々まで手をいれた状態で、山本会長を迎えようと思った。

今回のハワイ訪問は、各部代表120余りと僧侶ら10数人が、交流団として訪問することになった。13日にはホノルル市内の小学校を借りて、“出張御授戒”が行われ、264人の新メンバーが御授戒を受けた。夜には 交流座談会がもたれた。

14日には、盛大に開館式が挙行されたのである。伸一はハワイに会館を建設した意義から語り始めた。「平和の宝城である会館ができたということは、仏法の因果具時の原理の上から、世界の平和に向かい、一歩、また一歩と、新たな歩みが始まるものと確信いたします。」

「私の願いは、ハワイの皆様が信心強盛になり、物心ともに幸せになっていただくことであります。どうか皆さまは、その先駆けとなり、彼方の幸福を求めるのではなく、この地で、ハワイの友のために、献身していただきたい。」

「ともかく皆さまは、誰とでも仲良くし、皆から慕われながら、明るく、楽しい前進を開始していってください。そこから、広宣流布の広がりは生まれます。私は、皆様方に、いつも題目を送っておりますし、これからも、送り続けてまいりますから、しっかりと受け止めてください。」皆、自分たちの幸せを願う、伸一の温かい心に触れた思いがした。


太字は 『新・人間革命』第10巻より 抜粋