『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P17~

この激動の時代のなかで、必死になって、日中間の亀裂を修復しようとする人物がいた。代議士の松村健三である。松村は、新中国の実情を自分の目で確かめるとともに、自ら日中のパイプ役になろうと、中国訪問を望んでいた。周総理も、両国の未来のために、松村の訪中の意向を重要視して、彼を中国に招いた。1959年の秋のことである。松村は当時76歳であり、迎える周総理は61歳であった。

この訪中は、全行程1万5千キロにわたる40余日の緊張の旅であったが、松村は、勇んで中国の大地を踏んだ。座していたのでは、事態は開けない。行動である。会って語り合う勇気こそが、歴史を変えていくのだ。

松村は、周総理に 日中友好の力になる人物として、高碕達之介を推薦したのであった。

反中国政策を続けていた岸首相は、安保改定を強行し、世論の猛反発を買い、退陣を余儀なくされた。代わって、池田隼人が首相になり、日本は高度成長を遂げ、日中関係も改善の道をたどっていく。

周総理も日中貿易の再会に前向きな姿勢を見せ、「貿易三原則」を明らかにした。低迷していた日本の経済界は湧き立った。

池田首相から、中国のすべてをまかされていた松村健三が訪中し、周総理と会談。翌月、高碕達之介と中国側の代表廖承志と検討を重ね、「日中総合貿易に関する覚書」に調印、これは、二人のイニシャルから「LT貿易」と呼ばれ、"半官半民"的な性格をもつ、国交正常化をめざす、新たな連絡ルートの誕生となった。

日中友好の歴史が編まれていくなかで、周総理の目は、創価学会に向けられていった。松村、高碕両氏が、訪中した際に、日中の友好のためには、創価学会と交流することが大事だと強調していた。

周総理は、創価学会の調査、研究を 中国人民外交学会に指示している。外交学会は、創価学会についての調査、研究のリポートを上層部の多くの人に伝えるために、本を出版している。リポートなかには、誤解もあったが、このリポートを目にした周総理は、引き続き調査研究を続けるよう指示した。

周総理に学会のことを語った高碕氏と山本伸一が語り合ったのは1963年の9月。彼は既に78歳になっていた。35歳の伸一とは、親子以上の年の隔たりがあった。高碕は、伸一の顔をじっと見すえ、「あなたには、日中友好の力になってもらいたい!」その声には、一歩も引かぬという気概があふれていたが、また、懇請のようでもあった。

高碕は、伸一の手をぎゅっと握りしめた。"日中友好の「金の橋」を架けてみせる!"以来、それが、伸一の固い決意となった。


翌月、中国は、「中日友好協会」を発足させた。国交のない日本のために"友好協会"が設けられたことは、例外的な措置であった。

その駐日事務所の、首席代表として来日したのが、後に中日友好協会の会長を務める孫平化であった。
孫は、周総理から「なんとか創価学会との間に交流のパイプをつくり、友人をつくらなければなりません」と言われていた。

国と国の関係といっても、永続的に友好を維持していくには、民衆次元での活発な交流が重要になる。その窓口を開くには、どうしても政治の力が必要である。

公明政治連盟が公明党として新出発するにあたり、伸一は「公明党の外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい。」唯一の提案をしていた。この伸一の要請に、公明党も、懸命に応えようとしていた。

しかし、それも束の間、日中間には、再び暗雲が垂れ込めていったのである。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋