『新・人間革命』第29巻 力走の章 221p~
伸一は、任用試験の会場を提供してくれた、保育園の園長である高原嘉美の自宅も訪問した。高原は、結婚後、貧乏と家庭不和に悩みながら幼子を育て、半身不随の舅の面倒をみた。身も心も、へとへとに疲れ果て、なんの希望も感じられなかった。その時、実家の母の勧めで入会した。
義父母からは叱れ、近所からは、嘲笑され、村八分にもあった。しかし、学会の先輩が足繁く訪ねてきては、確信をもって指導してくれた。高原は、信心で、逆境を一つ一つ乗り越えていった。そのたびに確信が増した。
ある時、持っていた土地が高く売れた。それを資金にして、保育園をつくろうと思った。地域の人たちの要請であった。高原は、喜びを噛み締めながら語った。「先生!入会前には、思ってもいなかった幸せな境涯になれました」
伸一は、最前線組織のリーダーと会えることが、何よりも嬉しかった。彼は、渾身の力を込めて訴えていった。「悔いなき人生のため、悔いなき信心を」「信心即生活である。現実の社会で勝利していくために、揺るぎない生活の確立を」
そして、万感の思いを込めて呼びかけた。「皆さんが、敢然と創価の旗を掲げて勇み立ってくださるならば、地域広布の勝利は間違いありません。どうか皆さんは、『私の姿、生き方を見てください。ここに仏法の力の証明があります』と、胸を張れる一人ひとりであってください。わが兄弟、姉妹として、私に代わって地域広布の指揮を頼みます」“広布のいごっそう”“創価のはちきん”に大勝利あれ!と念じての指導であった。
夜には、第一回「高知県男子部幹部総会」に喜び勇んで臨んだ。彼は“学会の後継者として、崇高な信念の人たれ!”との願いを託し、語った。「長い広布旅の人生には、一家の問題、職場の問題、自身の性格の問題等、多くの悩みと直面するでしょう。私たちもそうでした。しかし、肝に銘じてもらいたいことは、ともかく御本尊から離れないこと、創価学会の組織から離れないことです。
しがみつくようにしてついてくる。どんなに苦しくても、いやであってもついてくるーーその人が最後の勝利者になります。
また、一人ひとりが、なんらかのかたちで社会に貢献してほしい。何かでトップになっていただきたい。それが、未来の広宣流布を決する力となっていきます。ともあれ、諸君は、既に創価学会という世界で青春を生きてきた。
自分の信念、信条として、その人生を選んだのだから、“誰がなんと言おうと、この仏法を一生涯貫き通して死んでいく、もしも、皆が倒れても、その屍を乗り越えて、広布の峰を登攀してみせる”という、決意で進んでいただきたい」黒潮躍る高知の男子部に、伸一は、広布の精神のバトンを託したのである。
四国研修道場で、20人ほどの青年たちと記念のカメラに収まった。1969年の10月四国幹部会で合唱を披露した、「香川少年少女合唱団」のメンバーである。“10年後”ーーこの言葉が皆の目標となった。それから10年目に入った今、メンバーは、互いに連絡を取り合って、喜び勇んで駆けつけてきたのだ。
徳島県の幹部総会のあいさつで伸一は、御請訓を拝して指導した。「生涯を信心に生き抜こうと心を定める“覚悟”こそが、一切の勝利の原動力であることを知っていただきたい」
四国から帰った翌14日からも、彼のスケジュールはびっしりと詰まっていた。片時の休みもなかった。“今、戦わずして、いつ戦うのだ!時は今だ!この一瞬こそが、黄金の時だ!”こう自分に言い聞かせての敢闘であった。
そして、12月26日には、関東指導に出発したのだ。彼は、大晦日まで、全力で行動を続けた。嵐吹き荒れる激動の一年であった。創価の松明を掲げ、守り抜いた力走の一年であった。新しき歴史を築いた建設の一年であった。
この一年間で訪問したのは、北は北海道から、南は九州まで10方面、一道二府25県となり、海外では第四次訪中も果たした。会談した主な識者や指導者は、国内外で20数人を数えた。また、作詞した各部や各地の学会歌は、実に30曲ほどになっていた。
激戦、激闘を重ねた、必死の舵取りの一年が終わろうとしていた。彼の胸中には、微塵の後悔もなかった。ただただ獅子の闘魂が、熱く熱くほとばしっていた。
<力走の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋