『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 366P~
孫文は清朝打倒を計画し、失敗。イギリスに渡り、恩師のカントリーを尋ねている。孫文は清国公使館に監禁され、本国に送り返されれば処刑されてしまうことに。カントリーは弟子のためにありとあらゆる手を打ち、孫文の監禁は解かれたのである。
伸一は言った「民族を超えた、こうした師弟の心が脈打っていたからこそ香港大学の発展があったと、私は見ている」伸一の訪問によって、この日、香港大学と創価大学の友好の第一歩が踏み出されたのである。
1991年(平成3年)には、学術交流協定が結ばれる。また、96年には、教育をはじめ、文化、世界平和への伸一の貢献に対して、同大学から、名誉文学博士の称号が贈られている。
翌30日、山本伸一は香港のもう一つの名門大学として知られる、香港中文大学を訪問する。同行していた香港男子部長の梶山久雄は、香港の広宣流布に生き抜いていく決意の表明として、中国名をつけたいと思っていると話す。伸一は梶山の相談に、香港広布に生きようとする彼の真剣さを感じた。
大学に到着した伸一は、李卓敏学長と会談した。伸一は、あいさつが終わると、単刀直入に自分の信念を披歴した。彼は、日本と香港の、そして、アジアの未来のために、実りある対話をしようと懸命であった。
李学長は香港とアジアの未来に思いを馳せ、教育事業に全精魂を傾けてきた偉大な教育者であった。伸一は、「相互理解の推進のために、創価大学と香港中文大学で、教員・学生の交換をし合ってはいかがでしょうか」と提案する。
学長は頷いた。「全面的に賛成です。断じてやりましょう」伸一と李学長のこの合意は創価大学と香港中文大学の交流の起点となった。この年の秋には、創価大学として香港中文大学の教授を招聘。翌年には、両大学の間で、学術交流協定が調印されるのである。これが、44ヵ国・地域104大学に広がったっ創価大学の学術交流協定の第一号となったのだ。創立者自らが切り開いた、世界交流の道であった。
歴史的な日の意義を込め、この年の9月、日本関係の書籍を千冊寄贈されている。
伸一の平和、文化、教育への貢献に対して、1992年には香港中文大学として初の最高客員教授の称号を、2000年には、名誉社会科学博士の称号を贈っている。
孫文は清朝打倒を計画し、失敗。イギリスに渡り、恩師のカントリーを尋ねている。孫文は清国公使館に監禁され、本国に送り返されれば処刑されてしまうことに。カントリーは弟子のためにありとあらゆる手を打ち、孫文の監禁は解かれたのである。
伸一は言った「民族を超えた、こうした師弟の心が脈打っていたからこそ香港大学の発展があったと、私は見ている」伸一の訪問によって、この日、香港大学と創価大学の友好の第一歩が踏み出されたのである。
1991年(平成3年)には、学術交流協定が結ばれる。また、96年には、教育をはじめ、文化、世界平和への伸一の貢献に対して、同大学から、名誉文学博士の称号が贈られている。
翌30日、山本伸一は香港のもう一つの名門大学として知られる、香港中文大学を訪問する。同行していた香港男子部長の梶山久雄は、香港の広宣流布に生き抜いていく決意の表明として、中国名をつけたいと思っていると話す。伸一は梶山の相談に、香港広布に生きようとする彼の真剣さを感じた。
大学に到着した伸一は、李卓敏学長と会談した。伸一は、あいさつが終わると、単刀直入に自分の信念を披歴した。彼は、日本と香港の、そして、アジアの未来のために、実りある対話をしようと懸命であった。
李学長は香港とアジアの未来に思いを馳せ、教育事業に全精魂を傾けてきた偉大な教育者であった。伸一は、「相互理解の推進のために、創価大学と香港中文大学で、教員・学生の交換をし合ってはいかがでしょうか」と提案する。
学長は頷いた。「全面的に賛成です。断じてやりましょう」伸一と李学長のこの合意は創価大学と香港中文大学の交流の起点となった。この年の秋には、創価大学として香港中文大学の教授を招聘。翌年には、両大学の間で、学術交流協定が調印されるのである。これが、44ヵ国・地域104大学に広がったっ創価大学の学術交流協定の第一号となったのだ。創立者自らが切り開いた、世界交流の道であった。
歴史的な日の意義を込め、この年の9月、日本関係の書籍を千冊寄贈されている。
伸一の平和、文化、教育への貢献に対して、1992年には香港中文大学として初の最高客員教授の称号を、2000年には、名誉社会科学博士の称号を贈っている。
30日の夜には、「東南アジア仏教者文化会議」の第一回代表者会議が開催された。各国・各地域の組織が連帯し、協力し合いながら、真実の仏法を根底にアジアの平和と民衆の幸福を築いていくため、香港のメンバーが呼びかけたのである。
その趣旨に賛同して、シンガポール、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ラオス、タイ、インド、スリランカ、オーストラリア、マカオなどのメンバーが参加を表明したのだ。そして、設立準備委員会が設けられ、議長に香港の周志剛が選ばれた。
アジアでは、いまだ戦火が絶えなかった。ベトナム戦争は、アメリカの直接介入はなくなったものの、依然として戦闘状態は続いていた。また、カンボジアでもロン・ノル政権と解放勢力の争いは激化していたのである。さらに中ソの対立は、ますます深刻化しつつあった。
メンバーは、そのなかで、生命の尊厳と慈悲を説く仏法哲理を根本に、平和と人道のスクラムを組み、アジアを"幸福の園"に、変えようとの決意を胸に、喜々として集ってきたのである。
周は日本人であったが、中国人の妻と共に香港に来て、中国人として生きてきた。日中の戦争は、中国人の心に半日感情を刻み、周も日本人とわかれば、どんな危険が待ち受けているかわからず、子どもたちにも日本人であることを告げなかった。
周はその自分が、アジアに平和の光を注ぐために議長として声明文を発表していることを思うと、自らの不思議な使命に胸が熱くなるのであった。
太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋