小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

香港

阪神・淡路大震災からの復興

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 392p

17日午前5時46分ごろ、近畿地方を大地震が襲った。高速道やビル、家屋の倒壊、火災等の被害は、神戸、淡路島など、兵庫県南部を中心に、大阪、京都にまで広がり、死者約6千4百人、負傷者約4万4千人という大災害となった。阪神・淡路大震災である。

直ちに、学会本部と関西に災害対策本部が設置された。被災地では、各会館が一時的な緊急避難所となり、また、生活物資供給のための救援センターとなった。建物の崩壊などから一般道の寸断も多く、どこも、どの道も大渋滞していた。直ちにバイク隊が編成され、瓦礫の残る道を走り、救援物資が被災地各地に届けられていった。

伸一は、被災地へ向かう会長らに言った。「ーーすべては壊れても、生命に積んだ福徳は、永遠に壊されることはありません。一遍でも題目を唱えたならば、成仏できるのが大聖人の仏法です。亡くなられた同志は、今世で宿命転換し、来世も御本尊のもとに生まれ、幸せになれることは間違いありません。

また、「変毒為薬」とあるように、信心によって、毒を変じて薬にすることができる。大聖人は、『大悪起これば大前きたる』と仰せです。今は、どんなに苦しくとも、必ず幸せになれることを確信してください。いや、必ずなってください。強い心で、強い生命で、見事に再起されるよう祈り待っています」

伸一は、26日に、ハワイ大学に隣接する「東西センター」で国連創設50周年を記念し、「平和と人間のための安全保障」と題して講演した。ハワイで彼は、第13回世界青年平和文化祭や、SGI環太平洋文化・平和会議などに臨み、2月2日に、その足で関西入りした。

法要で伸一は、訴えた。「関西の一日も早い復興を祈っています。全世界が、皆さまの行動を見守っています。『世界の模範』の関西として、勇んで立っていただきたい。亡くなられた方々も、すぐに常勝の陣列に戻ってこらえる。…被災地の全ての方々に、くれぐれも、またくれぐれも、よろしくお伝えください」

山本伸一は、1995年(平成7年)10月末からアジア4カ国・地域訪れ、この折、「釈尊生誕の国」ネパールを初訪問した。彼の平和旅は、51カ国・地域となった。ネパールでは、11月1日、カトマンズ市の王宮に、ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ・デープ国王を表敬訪問した。3日、国立トリブバン大学から名誉文学博士の称号を受けた。

ネパールに続いてシンガポールを訪れた彼は、第三回アジア文化教育会議に臨み、シンガポール創価幼稚園を初訪問した。さらに、建国30周年を祝賀する第1回青年友好芸術祭に出席し、10日夕、香港に到着した。イギリス領の香港は、1997年に中国へ返還されることになっていた。

資本主義の社会で暮らしてきた人びとにとっては、社会主義の中国のもとでの生活は想像しがたいものであり、不安を覚える人たちもいた。“こういう時だからこそ、香港へ行こう!皆と会って激励しよう!”伸一はそう決めて、83年12月に香港を訪れている。

伸一が、メンバーに訴え続けたのは、いずこの地であろうが、不屈の信心ある限り、“幸福の宝土”と輝くということであった。1997年7月1日、香港は、中国に返還され、歴史的な式典が行われた。その祝賀式典のアトラクションでは、香港SGIの「金鷹体操隊」も若さあふれる演技を披露した。

1995年11月マカオを訪れ、マカオ大学で名誉社会科学博士号を受けたほか、マカオ市政庁を表敬訪問した。ポルトガル領であるマカオも、99年、中国に返還されるが、マカオのメンバーも香港の友に続き、希望のスタートを切っていくのである。

95年11月17日、アジア訪問から帰国した山本伸一は、そのまま中部・関西指導に入った。そして、23日、関西文化会館で、本部幹部会が開催された。その席上、SGI理事長の十和田光一から、「SGI憲章」が発表された。

「SGI憲章」は、仏法を基調に平和・文化・教育に貢献することをはじめ、基本的人権や信教の自由の尊重、社会の繁栄への貢献、文化交流の推進、自然・環境保護、人格陶冶などが謳われ、10項目からなっていた。

「世界の平和」と「人類の幸福」を実現するために大切なことは、人類は運命共同体であるとの認識に立ち、共に皆が手を携えて進んでいくことである。これを阻む最大の要因となるのが、宗教にせよ、国家、民族にせよ、独善性、排他性に陥ってしまうことだ。

本来、各宗教の創始者たちの願いは、人びとの平和と幸福を実現し、苦悩を解決せんとするところにあったといえよう。その心に敬意を表していくのである。

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

東洋広布の先駆け香港

『新・人間革命』第29巻 源流の章 343p~
<源流の章 開始>

山本伸一を団長とする創価学会訪印団一行は、1979年(昭和54年)2月3日最初の訪問地である香港へと向かった。鹿児島空港から3時間余、一行の搭乗機は香港の啓徳空港に到着した。空港には、香港中文大学中国文化研究所の陳荊和所長をはじめ、香港のSGIメンバーらが出迎えてくれた。

すぐに香港会館に向かった。
会館の前の公園で伸一を待っていた林一家と公園のブランコやシーソーで遊ぶ伸一。林親子は、この時の伸一の話を忘れなかった。生活が苦しいなか懸命に働き、姉二人は大学院にまで進んだ。弟は名門香港大学を卒業し、歯科医となり、学会にあっても、香港SGIの医学部長などとして活躍していくことになる。

伸一は、各部代表者会議の参加者の中に、18年前の座談会に参加していた、懐かしい何人もの顔を見つけた。「香港は、東洋広布の先駆けであり、未来を照らす灯台です。その香港の広宣流布をますます加速させていくための決め手は何か。それは『信義』です。人間として、一人ひとりがどこまでも『信義』を貫き、信頼を勝ち得ていく。

その信頼の拡大が即広布の拡大であることを知ってください。仏法というのは、私たち自身の内にあり、私たちの振る舞いによって表されていくものなんです。すべては人間にかかっています。どうか、悠然たる大河の流れにも似た大きな境涯で、人びとを包んでいってください」

香港広布18周年を祝う記念勤行会に出席した。席上、伸一は、宿命転換について述べた。「人生にあっては、予期せぬ病気や交通事故、自然災害など、自分の意志や努力だけではどうしようもない事態に遭遇することがある。そこに、宿命という問題があるんです。

その不条理とも思える現実に直面した時、どう克服していけばよいのかーー題目です。御本尊への唱題によって、自身の胸中に具わっている、南無妙法蓮華経という仏の大生命を湧現していく以外にない。強い心をもち、生命力にあふれた自分であれば、どんな試練にさらされても、負けることはない。何があろうが、悠々と宿命の大波を乗り越えていくことができます。

私たちも、この大聖人の御境涯に連なっていくならば、『宿命に泣く人生』から『使命に生きる歓喜の人生』へと転じていくことができる。大聖人の仏法は、宿命打開、宿命転換の仏法であることを確信してください」戸田城聖の願いは、アジアの民の宿命転換であった。伸一は、香港の同志に、その先駆けとなってほしかったのである。

インドへ向かう5日の午後、伸一は、故・周志剛理事長の家を訪ねた。深い祈りを込め、皆で追善の勤行をした。平和といっても、一人との信義から始まる。

山本伸一の一行が、インド・デリーのパラム空港に到着したのは、現地時間で6日の御前零時15分のことであった。そこには、招聘元であるインド文化関係評議会のヘレン・マタイ事務局次長がサリーに身を包み、花束を手に迎えてくれた。今回の訪問では日印の平和友好の更なる流れを開くために、指導者との語らいや、大学訪問などが予定されていた。

現地の日本人メンバーの一人に、ジャワハルラル・ネルー大学の博士課程に学ぶ大河内敬一がいた。東京・新宿区の出身で26歳である。幼少期に母親と共に入会した彼は、学会の庭で育ってきた。彼は、高等部の仲間たちと、広宣流布の未来図を語り合った。そして、世界雄飛への夢が、次第に大きく膨らんでいった。

「ぼくはインドに行き、インド広布に一生を捧げたいと思っているんだ」決意の種子があってこそ、果実は実る。本物の決意には、緻密な計画と行動がともなっている。それがない決意というのは、夢物語を口にしているにすぎない。懸命な努力、真剣な祈りーーそこに困難の壁を打ち破る要諦がある。


太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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香港の広宣流布

『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 333P~

学会を「日本の軍国主義者」と決めつけ、「経済・文化分野のほかに、宗教の仮面を被って、政治活動も行っている」などと書き立てる新聞もあった。こうした報道の底流には、根強い反日感情があった。
日本に誕生した宗教ということで、創価学会に対して猜疑の目をむけていたようだ。

「『台湾の独立』の陰謀」に加担しているとか、また、山本伸一が日中国交正常化提言などを行ってきたことなどで"共産主義者を育成する団体"であるという批判もあった。

ともあれ、全く的外れの批判が、まことしやかに、なされていたのである。

だが、香港の同志は微動だにしなかった。メンバーは、"いよいよ三障四魔が競い起こった。今こそ、まことの時だ!"と、闘魂を燃え上がらせていった。

広宣流布は状況のいかんが決するのではない。同志に脈打つ使命感と確信と歓喜ある限り、前進の大道は開かれるのだ。香港での理不尽な学会への批判は、やがて鎮静化していった。

現地のマスコミ関係者は、メンバーの真実を知るようになると、日本の一部マスコミによる創価学会の報道と実像とは、大きな違いがあることに気づき始めたのである。

アインシュタインは、こう訴えている。「日常の生活のなかのあらゆる機会をつかまえて真実を表現していくことで、ゆっくりとではあっても成功を勝ちとっていくことはできる」 

香港のメンバーは、よき市民として、いかに社会に貢献していくかを、真剣に考え続けた。社会貢献の一環として、児童予後施設での慰問公演なども行った。その模様は、地元の新聞などでも報道され、大きな反響を呼んだ。

伸一は、この10年間の歩みを聞きながら、メンバーの尊き敢闘をねぎらい、最大の賛辞を贈るのであった。

「皆さんの血の滲むような努力で、最も大変な基礎工事は完了したんです。私は皆さんの、この功労を終生、わすれません。仏法のために、広宣流布のために、重ねた苦労は、流した涙は、拭った汗は、全部、自分の福運です。永遠の生命の財産になります。」

「それを本当に確信できるかどうかが、実は、一生成仏できるかどうかの決め手なんです。もし、その確信がなければ、生命の因果の法則も『冥の照覧』も信じられないことになる。それは『己心の外』に法を求めていることであり、仏法者の生き方ではありません。」

また、社会の理解と共感を勝ちとるためには、対話が大事であり、社会のリーダーと対話し、外交を展開していくうえで、最も大切なことは何かを 訴えた。

日々、伸一が実践したことは"私がいる限り、学会に対する、また、戸田先生に対する、無責任な非難や中傷は断じて許さない。誠心誠意、話し合って、誤りは正し、偏見は払拭していこう"

デマ記事に対しては、いつ、どこで、誰が行ったもので、その裏づけはいかにして取ったのかを問い詰めていくと、すぐにあいまいになった。虚偽は、真実には勝てない。

どんな相手であれ、たとえ敵であっても、必ず味方にしてみせるというのが、彼の信念であったのである。

伸一は、話を続けた。「外交を行ううえで重要なことは、まず、第一に『勇気』です。勇気をもって会い、胸襟を開いて、率直に対話する。それが外交の第一歩です。臆病な人間は、直接人と会って、対話することを避けようとするものです。次に大事なことは、どこまでも『誠実』であるということです。外交といっても、相手に"この人なら人間として信じられる"と思わせることができるかどうかです。また、『根気』『粘り強さ』が大切です」

「もうひとつ大事なことは、外交を行う場合には、自分が全学会を担い立つのだという、"全権大使"の自覚がなければならない。つまり、全体観に立つことです。そうでないと、部分的なことに目を奪われ、判断を誤ってしまうこともある」

「外交といっても、そこには"師弟"の精神が脈打っていなければ、広宣流布のための渉外活動はできません」

太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

台湾広布の春

『新・人間革命』第7巻 早春の章 P274~

山本伸一を中心に、香港の組織の検討に入った。
香港支部の支部長候補の周志剛は、貿易会社を営む、温厚な感じの50歳前後の壮年であった。彼は、実は日本人で、鹿児島生まれであったが、貿易の仕事で中国の広州に来て結婚し、戦後、香港に来てからは中国名を名乗っていたと話す。

結婚後、終戦を迎えた時、日本人は中国から引き上げなければならなくなったが、周は、日本軍が中国でやってきた残酷なことを見てきて、日本を祖国とは思いたくないので、中国で、中国人として生きていくと 妻の母に言ったのだ。

中国で日本人とわかれば、捕らえられたり、反日感情から襲われる危険性もあったが、義母も 近隣の人びとも、周に信頼を寄せて、彼を守ってくれ、密告したりするものはいなかった。

広州では仕事がなく、香港にやってきて、貿易の仕事を始めたのである。彼には、仕事を通して、平和のためのパイプになりたいという思いがあった。

貿易の仕事で付き合いのあった日本人に勧められ、御本尊を受持し、1年3か月になる。手紙で教えられたとおりに勤行を始め、真面目に学会活動に励むうちに、いつの間にか、持病の胃潰瘍が治っていた。
妻も、その体験を目の当たりにし、家族も一緒に信心に励むようになっていったのだった。

翌27日、一行は 日本へ帰る便が エンジントラブルのため出発が遅れるとのことで、急きょ空席の在った台湾の台北経由の飛行機に変えることになった。トラブルにいらつく十条だったが、伸一は、「きっと何か大きな意味があるはずだよ」と話す。

そのころ台湾では、中国の江蘇省生まれで、戦時中、日本の早稲田大学にまなんだこともある支部長の朱を中心に会合が開かれていた。

彼は、戦後の日本の急速な復興に着目し、それを可能にした、民衆の活力を引き出す、思想、宗教があるはずだと考えていた。そして、学会の話を聞くうちにこの信仰こそ社会を建設する力となったのではないかと感じて、入会を決意した。

62年ごろから、警備総司令部が、創価学会への警戒を強め始め、朱も尾行されたり、出頭を求められるようになったのである。

朱は、聖教新聞で山本会長の海外訪問のスケジュールを知り、「山本先生が、台湾にも寄っていただけるように、真剣に唱題するとともに、この日の午後、台北の松山空港に集まりましょう」とメンバーに呼びかけた。「たとえ、山本先生が来られなくとも、台湾上空は通られるのだから、先生を思い、大空を仰ぎながら、広宣流布を誓おうではありませんか」

以来、朱は、“なんとしても山本先生に台湾に来ていただきたい”と懸命に唱題を重ねてきたのだ。
27日の昼、先生が空港に来て朱を呼んでいると聞き、空港に駆け付けた朱。金網のフェンス越しに握手する朱の目に涙が光った。

「私たちは、この便が、ここに降りることも知らなかった。不思議だな。唱題に引かれて来てしまったんだね。」

朱は、信教の自由も、集会の自由も認められていたが、戒厳令下では、それも厳しく制限され、人民団体としての登録が必要だが、申請しても許可が下りないと話す。当時は、まだ反日感情も強い時代であり、日本で誕生した創価学会を、当局は警戒していたのであろう。

伸一は、その話を聞くと言った。「どこまでも、定められた法律を守っていくことが大事です。しかし、個人の信仰は認められているのだから、状況が厳しいからといって、臆病になり、信心そのものが後退するようなことがあってはならない。勇気をもつことです。」

「なにがあっても、どんなに辛くとも、台湾の人びとの幸福のために、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は、30年、40年先です。最後は必ず勝ちます。」

「冬は必ず春となります。」「だが、その春は、まだ浅い。早春です。」「本格的な春はきっとくる。時代は変わります。また皆さんの祈りで変えていくんです。そして、春たけなわの日が来るまで、忍耐強く、生命の大地に深く信心の根を張り巡らせていってください。」

彼は、何があろうが、一人たりとも、退転などさせまいと、必死になって、台湾の友を励ました。
アジアの春は浅く、暗雲が低く垂れこめていることを、伸一はひしひしと感じていた。しかし、雲を突き抜ければ、空には、春の太陽が燦々と輝いている。

“友よ、飛び立て!雄々しく、使命の空高く!”伸一は、心で、こう祈り念じながら、一路、東京へ向かった。

<早春の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第7巻より

遠路

『新・人間革命』第6巻 遠路の章 P154~

インドのデリーを経由し、タイのバンコクに到着した一行。
空港に出迎えてくれた15人ほどのメンバーとともに、ホテルに行き、そのまま座談会を開き、そこでバンコク支部の結成を発表した。

1年前に植えられた広布の種子は、今、支部となって芽吹いたのである。

支部という組織のかたちをつくることは、誰にでもできる。しかし、それだけでは、意味がない。大事なことは、それを契機に、中心となるメンバーをはじめ、全員が新しい決意に立って、発心の旅立ちができるかどうかである。

「組織という形式ではなく、メンバーの胸中に、広宣流布の建設の一念を打ち立てることが最大の眼目だ。そのためには、徹底して同志を励ますことです。命を削る思いで、触発の対話をすることです。」

伸一は、青年たちに、組織といっても、根本はどこまでも人間によって決まっていくことを、教えようとしていた。人間を見失い、機構の操作に奪われてしまうところから、官僚主義が始まるからである。

翌日は、香港経由で帰国の途についた。

1年前、香港に地区を結成した時には、メンバーは10数人にすぎなかった。それが今、空港にやって来たひとだけでも、40人ほどになるのである。

2年前に香港で入会した平田君江が支部婦人部長に任命されたが、学会の組織のことを よく知らなかった。就任のあいさつを促されたが、何を言えばよいのか、わからなかった。

伸一は「こういう時は、皆さんに『何もできませんが、一生懸命に頑張りますのでよろしくお願いします』と丁重に言うものですよ」と 微笑みながら言った。

彼女は、ホッとして、言われたとおりに話し、皆にお辞儀した。
伸一は「今の言葉を忘れず、この精神でやっていくんですよ。そうすれば、大丈夫です」と言った。

彼女は、その言葉を心のなかで、復唱してみた。
ー私は経験も乏しいし、本当に何もできない。でも、一生懸命に頑張ることはできる。常に、まず自分から一生懸命に動こう。そして、“よろしくお願いします”という心で、皆に接していけば、力のない私でも、支部婦人部長の大任が果たせると、山本先生は教えてくださったのだ。

この時、まだ入会2年の平田の心に、幹部としてのあるべき姿が、明確に、刻まれたのである。

やがて、機上の人となった伸一は、この香港をはじめ、今回、歴訪した国々の平和と友の幸福を祈りながら、自分に言い聞かせた。

ーー広宣流布の道は、遠路である。遠路なればこそ、一歩一歩の地道な歩みが大事だ。
遠路なればこそ、何ものにも挫けぬ、信念と勇気の火を燃やし続けることだ。


そして、遠路なればこそ、皆で肩を組みながら、朗らかな、楽しき行進を繰り広げていかなければならない。

<遠路の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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