『新・人間革命』第29巻 清新の章 267p~



津浪ですべてを失い、漁業の再開を断念した人もいた。しかし、村川は、学会員の自分が、
集落の復興の先頭に立とうと決意し、共同での養殖作業を進め、震災の翌々年1月に
新しい漁船を購入した。彼は、地域復興の推進力となっていったのだ。


自ら歴史を創ろうとする人は、いかなる試練にもたじろぐことはない。苦境を舞台に、人生の
壮大なドラマを作り上げていく。東日本大震災では、会館への被災者受け入れは、42会館役5千人
となった。学会の災害対策本部として提供した主な支援物資は、飲料、食料品、医薬品、衣類、
寝具など、約64万2千点。動員したボランティアは、延べ2万5百人に上った。


東北の同志は立正安国の法理に照らし、「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」
との御文を噛み締め、広宣流布への決意を新たにするのであった。


山本伸一の広布旅は続いた。新しい未来を開くために。皆をねぎらい、青森へ向かった。
岩手飯岡駅を通過する時、十数人の人たちがホームで盛んに手を振っているのが見えた。
「学会員だね。寒いのに見送りに来てくれて本当に申し訳ないな。


どんな組織でもそうだが、物事を企画、立案し、指導していく幹部が、最前線で活動する
現場の人たちの気持ちや実態がわからなければ、計画は机上の空論となり、現実に即さないものに
なってしまう。そうなれば、既に官僚主義なんだ。


だから学会のリーダーは、絶えず第一線に身を置き、皆の現実と、苦闘、努力を肌で感じ、
共有していくことだ。そして、号令や命令で人を動かすのではなく、自らの率先垂範の行動と対話で、
皆を啓発していくんだよ。それが、広宣流布の指導者だ」


青森県に入り、八戸、三沢を経たあと、長いトンネルに入った。闇を抜けた時、息をのんだ。
一面の冬景色であった。伸一は、同行メンバーに呼びかけた。「みんなで詩を作ろう。
詩歌を詠むには、“発見”が必要だ。つまり、それによって、洞察力を磨いていくこともできる」
皆、慌てて詩や歌作りに取り組んだ。彼は、皆が詩歌を作ることを通して、風雪のなかで
戦い生きる同志の苦闘を、わが苦とする決意を固めてほしかったのである。


青森文化会館に着くと「さあ、ここから青森の新しい歴史の幕を開こう!」そして、
休む間もなく懇談会に臨んだ。


10年前、下北半島の大湊で行われた中等部員会に集った3,40人のメンバーが 写真と、
決意文が、伸一のもとへ郵送されてきた。伸一は、激励の本に、10年後に必ず会おうと認めて
贈った。その代表の青年たちと、当時の中等部の担当者であった婦人が訪ねてきたのである。


木森正志は、創価大学に学び、4月から東京の大手企業に就職することが決まっていた。家が
経済的に大変ななか、下北地方で初の創大生となった。土木工事等、アルバイトをしながらの
学生生活であった。だが、“伸一のもとに集う10年後”をめざして、木森は、歯を
食いしばりながら、自身への挑戦を続けてきたのだ。勝利者とは、自分に打ち勝つ、忍耐の人である。
自らの誓いを果たし抜いた人である。


メンバーは、それぞれが伸一との誓いを胸に、各地で人生の勝利劇を演じていった。始まりは、
一葉の写真である。誰かに言われたからではなく、皆が誓いを込めて、あの写真を撮り、自主的に
伸一に送った。決して、激励を期待してのことではない。既に一葉の写真を送った時から、
メンバーは、己心の伸一と共に、勝利の大海原に船出していたのだ。


師弟とは物理的な触れ合いのなかにあるのではない。心に師をいだき、その師に誓い、
それを成就しようとする、必死の精進と闘争のなかにこそある。そこに人生の開花もある。

太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
0