『新・人間革命』第4巻 立正安国の章 P242~

青年を育成する側の姿勢について

青年を触発する何かを与え続けることほど、難しいことはない。
伸一は、それを可能にするには、自分が、自身の原点であり、規範である師の戸田を、永遠に見失わないことだと思った。源を離れて大河はないからだ。

また、求道と挑戦の心を忘れることなく、自己教育に徹し、常に自分を磨き、高め、成長させていく以外にないと感じていた。

そして、私心を捨て、人類の幸福のために生き抜く自らの姿を通して、青年の魂を触発していこうと、伸一は誓うのであった。

長野県の霧ケ峰高原での「水滸会」の野外研修に参加する伸一。
青年たちの質問に答える伸一。

「さて、帰命という問題ですが、現代の状況のなかでは、自分の人生の根本の目的は広宣流布であると決めて、生きて、生きて、生き抜くことが仏法に身命を奉ることになるといえるでしょう。

広宣流布を自分の人生の根本目的とするならば、学会員として、職場にあっても第一人者にならざるをえない。自分が職場の敗北者となってしまえば、仏法のすばらしさなど証明できないし、誰も信心など、するわけがないからです。」

「また、家庭にしても、和楽の家庭をつくらなければならないし、健康にも留意することになる。
 ゆえに、広宣流布を根本にした人生を歩むということは、社会の勝利者となって幸福になっていくということなんです。したがって、それは、決して、悲壮感が漂うような生き方とはなりません。」

「見方を変えて語るならば、たとえば、広宣流布のために活動する時間をどれだけもつか、ということにもなってきます。 これは極めて計量的な言い方だが、仮に一日2時間の学会活動を、60年間にわたってすれば、計算上は5年間の命を仏法に捧げたことになる。」

「ともあれ、広宣流布こそわが生涯と決めて、自らの使命を果たそうとしていく生き方自体が、仏法に帰命していることに等しいといえます」


女子部の「華陽会」の野外研修でも語る伸一。

「大聖人は、流罪という大苦難のなかでも、大歓喜を感じておられた。
 どんな環境にあっても、人生を楽しみきっていけるのが信心です。
 戸田先生は、成仏というのは、生きていること自体が、楽しくて、楽しくてしょうがないという境涯であると、よく語っておられた。」

「人間の人生には、苦労はつきものです。学生のうちは、勉強しなければならないし、会社に入れば、働かなければならない。では、結婚すれば、楽になるかといえば、家事や子育てに追われ、まるで戦争のような生活になる。」

「しかし、そのなかに、意義を見いだし、生きがいをつくり、目標を定め、はつらつと挑戦し、苦労をも楽しみながら、瞬間、瞬間を最高に有意義に、楽しみきって生きていける人が人生の達人なのです。結局、幸福とは、外にあるのではない。私たちの心のなかにある。それを教えているのが仏法です。」

裏方に徹し、黙々と陰で頑張る女子部員を見て、
「リーダーとして、誰が陰で頑張っているのか、誰が最も苦労しているのかを、常に見抜いていかなくてはならない。華やかな表舞台にばかり、目がいき、表面だけしか見ないリーダーでは、後輩がかわいそうです。そうなれば、やがて、皆が見せかけだけを考え、要領よく立ち回るように、なってしまう。」

「結局、見事な組織をつくっていくといっても、人間としての思いやりであり、心遣いがすべてだ。そこに人は心を打たれ、頑張ろうという気持ちにもなる。役職の権威でもなければ、理屈でもありません。 生きた教育とは、人と人との、自然な触れ合いのなかにあるものだ。」

「女子部は学会の花なんだから、いつも、このように楽しく、そして、常識豊かに、活動を進めていくことです。誰が見ても、明るく、さわやかでいいなと思えることが、信心のすばらしさの証明になるからだよ」

人生を開花させるための信仰である。一輪の可憐な花が、周囲を明るくし、人びとの心を和ませるように、信心に励めば励むほど、思いやりにあふれ、明朗で快活になっていってこそ、本当の信仰といえる。


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋