小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

雨花台烈士陵園,南京

周恩来と鄧頴超

『新・人間革命』第28巻 革心の章 295p~

梅園新村記念館には、机やソファ、ベッド、書籍などが、当時のまま保管されていた。展示品のなかに、赤い数個の石があった。それは、雨花台で犠牲になった、殉難者たちの、血潮に染まったものであるという。

夫妻が、何度となく、激務の間を縫うようにして雨花台に足を運び、拾って持ち帰ったのだ。同志たちに、その石を見せ、尊い命を散らした先人の魂を受け継ぎ、新しい中国を築いていくように訴えてきたのである。

殉難を恐れぬ敢闘の精神と行動があってこそ、改革は、成就する。平和建設の道においても、同じだ。いくら高邁な理想を口にしても、それを成し遂げる強靭な意思と具体的な実践なくしては、平和を勝ち取ることはできない。

伸一は、峯子に言った。「北京で奥様の鄧頴超先生とお会いできるんだね。楽しみだな」彼女の生涯は、まさに、疾風怒濤であった。艱難辛苦であった。

中国医学を学んだ母親の楊振徳が、女で一つで娘を育てた。成績優秀な
鄧頴超は、わずか12歳で天津の女子師範学校の本科に進学した。そして、19年、15歳の時に、あの「5・4運動」に参加したのである。このころ、日本留学から帰国した周恩来と出会う。周恩来は、天津学生連合会の中核メンバーで「覚悟社」を結成し、「覚悟社宣言」を起草した。

そこには、「革心」と「革新」の精神を根本にして、運動を進めていくことが述べられている。社会の「革新」のためには、「革心」すなわち、心を革めることが不可欠であるーーそのとらえ方に、若き周恩来の慧眼がある。自信を見つめ、正すこと、すなわち「革心」なくしては、真の社会改革もない。

天津では、男女学生が中心となって、帝国主義国家への抗議の声が大きく広がっていった。1920年鄧頴超は女子師範学校を卒業し、北京の小学校に教師として赴任した。まだ16歳の教師の誕生である。周恩来は、フランスに留学することになる。

女性の苦しみを解決するには、社会そのものを変革するしかない。それには何が必要か。“教育の門戸を開こう、教育こそ、人民を支え、育む力である”と、彼女は結論する。天津には、百を超える平民学校がつくられたといわれる。鄧頴超は、まだ二十歳であった。しかし、既に教育者としての名声は高かった。この間、周恩来と文通を続けた。

共産主義に自らの進路を見いだした周恩来は、それを鄧頴超に手紙で知らせた。彼女も、「私はあなたたちと同じ道をともに進みたいと思います」と、伝えてきた。改革の同志は、生涯の伴侶となっていくのである。

鄧頴超は、中国の改革に生涯を捧げようと、共産主義の運動に加わる。国民党と共産党は、協力して軍閥と闘うために、国共合作に踏み切った。天津で彼女は、共産党と国民党の若き女性リーダーとなった。孫文が死去するが、彼女は、黙々と自身の定めた信念の道を突き進んでいった。

孫文亡きあと、国民党に亀裂が走る。国民党左派の中心であり、中日友好協会の会長廖承志の父親である、廖仲愷が暗殺された。鄧頴超は、廖夫人の何香凝を支え続け、夫人が推進してきた女性解放運動を大きく発展させていった。

上海で、国民党右派の蒋介石らは、反共クーデターを起こす。共産党員を次々と捕らえ、殺害していった。また、北伐の伸展にともない、国民党左派の主導で移された武漢政府に対して、蒋介石は南京に政府を樹立。国共合作にピリオドが打たれた。

共産党への弾圧は激しさを増し、周恩来には、多額の懸賞金が懸けられた。広州にいた鄧頴超の身も危険にさらされた。夫妻は、5年間にわたって地下活動を展開しなければならなかった。その間、多くの同志が殺されていった。裏切りにもあった。それでも、二人は闘争を続けた。

鄧頴超は、髪を切り、紅軍の帽子、軍服に身を固めた。食料も満足にないなかで、皆を励ましながら、働き通した。しかも、冗談を絶やさず、苦労を笑いのめすかのように、いつも周囲に、明るい笑いの輪を広げた。理想も、信念も、振る舞いに表れる。一つの微笑に、その人の思想、哲学の発光がある。

国民党軍は、猛攻撃を開始し、拠点は次々と落とされていった。共産党は中央根拠地の瑞金からの撤退を決めていた。当時は、不治の病とされていた肺結核になった鄧頴超は、死を覚悟で紅軍の撤退作戦に「長征」に参加する。行程は、約1万2千5百キロメートルにわたった。しかも、戦闘を続けながらの行軍である。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

雨花台烈士陵園で献花

『新・人間革命』第28巻 革心の章 278p~

復但大学での図書贈呈式を終えた訪中団一行は、13日午後、上海から急行列車で蘇州へ向かった。車中3年5か月ぶりに訪れた上海の印象を語り合った。4年前に中国を初訪問した折、孫秘書長が、魯迅の『故郷』の一説を引いて語った言葉が忘れられなかった。

「『もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ』魯迅先生は、こう言われております。私は、友好の道というものも、そうして出来上がると思っています。たくさんの人が、一歩、また一歩と、踏み固め、行き来する、その積み重ねが、平和の大道となっていく。それは、一朝一夕では、決してできません」

今回の訪問では、随所に中国側の配慮が感じられた。このころ中国は、まだ自動車の数は少なかった。そうしたなかで、上海でも、蘇州でも、一行の移動はバスではなく、メンバー一人ないし二人に、乗用車1台が提供されたのである。

孫平化秘書長は、力を込めて語った。「山本先生をはじめ、創価学会の皆さんが、どんな思いをされて、中日友好の流れを開かれてきたか、また、それが歴史的にいかに偉大なことであったかを、私たちはよく存じ上げているからです。山本先生がおられたからこそ、中日国交正常化があり、平和友好条約の締結にいたった。その信義と恩義とを、私たちは永遠に忘れません」

9月14日、訪中団一行は、刺繍研究所を訪れ、千年の歴史をもつという、蘇州の刺繍ができあがる工程を見学した。伸一たちは、行く先々で対話の橋を架け、無錫から列車に乗り、南京へ向かった。

南京は、1937年(昭和12年)には、日中戦争で日本軍が侵攻し、大きな惨禍を刻む歴史の舞台となったのである。伸一は、「日中平和友好条約」が結ばれる今、中国を訪問し、日中戦争の最も悲惨な歴史が刻印された南京の地に立ったことに、深い意義を感じていた。

“これから、日中の平和の行進が始まる。南京を、その新出発の起点とするのだ。戦争の凄惨な歴史を刻んだ地なればこそ、平和と友好の一大拠点としていかねばならない。過去を直視し、未来建設の力としていくーーそこに、今を生きる人間の使命がある”

翌日、市内にある雨花台烈士陵園へ向かった。美しい名とは反対に、ここは、南京の国民党政府に抗して、新中国の建設に命を懸けた多くの烈士たちが、処刑された地である。陵園の責任者は、凄惨な雨花台の歴史を一行に説明した。

「中国人民にとって雨花台は、人びとの血で染まった忘れ得ぬ地なんです。しかし、これは、一部の軍国主義者たちのやったことであり、日本人民には関係ありません。また、中国は確かに多大な犠牲を払いましたが、この戦争は、日本人民にも多くの悲劇をもたらしました。

中日二千年の文化交流の歴史から見ると、両国は、平和友好条約の調印後、さらに信頼を深める努力を重ねていくならば、必ずや世々代々、友好的におつき合いしていけるものと確信しています」

伸一は、深く思った。“こうした歴史から絶対に目を背けず、今こそ、万代の日中の平和と友好の道を開くことだ。それが、この痛ましい犠牲者への追悼である。それが、その殉難に報いる道である”

訪中団一行は、殉難の記念碑に献花を行った。一行は、尊い命を散らせた烈士たちをはじめ、日中戦争で犠牲になったすべての人々の冥福を祈って、唱題した。亡くなった人を悼み、冥福を祈る心に国境はない。祈りの心は、人間を結ぶ。

烈士陵園をあとにした一行は、南京市の北西部に位置する南京長江大橋を視察した。長江とは揚子江のことであり、長江大橋は、中国東部を南北に結ぶ大動脈である。

9月16日、訪中団一行は、梅園新村記念館を訪れた。ここは、1946年5月から翌年3月まで、中国の国民党と共産党の和平交渉が行われた折、周恩来が事務所、宿舎とした場所である。

妻の鄧頴超も、ここに住み、和平の道を開こうと懸命に務めた。彼女は、この時、政治協商会議の中国共産党代表7人のうち、唯一の女性であった。

太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

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