小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

阿部日顕

創価学会の魂の独立記念日

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P349~ 

"破門"の知らせが流れるや、各地の会館に、万歳の声がこだました。それは、仏法の人間主義をもって世界を潤す、新しき夜明けの到来であり、その日は、創価学会の魂の独立記念日となったのである。

この1か月後には、全世界の1625万人が署名した「退座要求書」が日顕に突きつけられたのである。
大聖人は「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」と御遺言されている。ましてや法主を名乗る人物が、広布破壊の天魔の本性を明らかにした寺に、どうして参詣する必要があろうか。

しかも彼らは、大聖人が全民衆のために御図顕された大御本尊を私物化し、その仰せ通りに広宣流布を推進する創価学会を、切り崩す道具にしているのだ。

仏法破壊の輩が集う所は、いかに大御本尊がご安置されていても魔の巣窟にすぎない。
大聖人は「霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」と、明確に仰せであられる。

地涌の使命に生きる本門の勇者が集ってこそ、大聖人の仏界の御声明を御図顕された御本尊と相呼応し、そこが本門の戒壇となるのである。

大聖人は、戒壇の建立を、後世の門下の目標とし示されたが、それは、伝教大師が比叡山延暦寺に法華経沙門の戒壇を建立したという先例に従って、当時の時代状況のなかで、広宣流布の目標を表現された者とも拝察できよう。大聖人の根本目的は、どこまでも立正安国の実現にあった。

日顕宗が創価学会に「破門通告書」を出してから4年後の、1995年(平成7年)秋のことである。日顕は、日達法主の時代に、山本伸一の発願により、創価学会が建立寄進した、大客殿の解体に着手した。

地震対策を理由にしての解体であった。耐震診断を担当した大客殿の設計者と構造設計者は、診断結果を歪曲されたと厳重に抗議したが、日顕は、多くの人びとの反対を押し切り、解体を強行したのである。

伸一と学会への怨嫉のゆえか、先師の日達法主への嫉妬のゆえか、異常極まる行動であった。

さらに彼らは、1998年に入ると、"正本堂の大理石に赤サビが出た""コンクリートに含まれる海砂が鉄筋を腐食した可能性が高い"などと騒ぎだした。

そして4月5日、日顕は突如、正本堂の閉鎖を発表。その日のうちに、大御本尊を遷座したのだ。それは、夕暮れ迫るなか、小人数で人目を避けるように強行された。26年前、奉安殿から正本堂に大御本尊を遷座した、あの晴れやかな式典とは、全く異なる陰々滅々とした光景であった。

正本堂の解体工事が始まったのは、この年の6月のことである。
日顕は正本堂を絶賛していたにもかかわらず、自後相違も甚だしく、「仏法を歪曲した謗法の遺物を徹底して駆逐」すると、臆面もなく言い放っての決行であった。

取り壊しに、強い反対の声が起こった。保存を推進する建築家の集いも結成され、富士宮市や静岡県に保存の陳情書や要望書も提出された。

しかし、頭破作七分のためか、もはや日顕には、いかなる良識の諫言も通じなかった。機械を使って、鶴の羽の形をした屋根がはがされ、壁が崩されていった。

自分の目で、直接確かめようと、全国各地から正本堂を見に来た人も少なくなかった。

皆、変わり果てた正本堂の姿に息を飲んだ。彼女の目には、涙があふれていた。
しかし、しばらくすると、老婦人は決然として涙を拭った。そして、叫ぶように言った。

「日顕はうちらを騙して、大聖人の御遺命の戒壇を、本門の戒壇を、ぶち壊しよる。信心の真心を、土足で踏んづけて、粉々にしてから!人間のやるこっちゃない。天満や。第六天の魔王や!こんな悪坊主がのさばっちょると、仏法が滅んでしまう。みんなが不幸になる!うちは許さん。絶対に絶対に許さんけね!」

息子が口を開いた。「純粋な学会員を利用するだけ利用しとって、供養を搾り取り、そして、裏切りよった。それに、誰よりも広宣流布に、宗門に尽した大功労者の山本先生を切り捨て、仏意仏勅の広宣流布の団体である学会をつぶそうとした。日顕一派を打倒さんと、仏法破壊の根っこは断てん」

孫も老婦人に言った。「学会は宗門と離れてよかった。"現代の身延離山"をしたことになるんやけ。信徒を平気で見下したり、"伏せ拝"とか言うて、日顕を見たら土下座するような宗教なんかおかしい!」

老婦人が、笑みを浮かべて頷いた。「仏法は、勝負だ。うちらはすべてに勝って、必ず学会の正義を証明しちゃるわ!」

一軒の民家に、学会の三色旗が堂々と掲げられ、風に翻っていた。"学会の正義は厳たリ、邪宗門と断じて戦わん"との決意を込めて、大石寺周辺でも、創価の同志は、厳然と三色旗を掲げていたのだ。

御遺命の戒壇となる正本堂を日顕は破壊した。しかし、正本堂の建立は世界的規模での仏法流布を象徴し、御本仏日蓮大聖人を荘厳したのだ。その功徳、福運は無量無辺であり、永遠に消えることはない。

一方、日顕宗は、正本堂の破壊をもって、天魔の本性をさらけ出し、邪教であることを自ら証明したのである。その罪もまた、未来永遠に消えることはない。
 

< 第16巻終了 >

太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

破門通告の真相

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P342~

日顕は、自らの陰謀を正当化するために、伸一を"大謗法"の者に仕立てあげることに、躍起となった。そして、68年(昭和43年)の正本堂着工大法要での伸一の発言に、全く見当違いな言いがかりをつけたのである。

日顕は、--日達上人は「明らかに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇が正本堂であるということは、そのものずばりの形でおしゃってはいない」正本堂が、「本門の戒壇」という意義づけは、伸一が、勝手に行ったものである。公式発表は、1972年4月28日の「訓諭」であり、それ以前に、一信徒が正本堂の意義を確定するなど、言い過ぎである。反省し、訂正しなければならないーーと非難したのだ。

伸一の言葉は、65年2月に開かれた第一回正本堂建設委員会での日達法主の説法を受けたものだ。その席で、日達法主は、正本堂が広布の暁に本門寺の戒壇の意義をもつ建物であることを明らかにしたではないか。この説法が、正本堂がいかなる意義をもつかを示す原点となっていったのだ。

さらに何よりも、その後、日達法主が、「事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中であります
」と述べているのだ。当時、宗務院教学部長であった日顕自身が、こう記しているのである。「宗祖大聖人の御遺命である正法広布事戒壇建立は、御本懐成就より680数年を経て・・・始めてその実現の大光明を顕さんとしている。その事実こそ此の度の正本堂建立発願式であろう」

宗門関係者の言葉は、「大日蓮」の昭和42年1月号だけを見ても、枚挙にいとまがない。ところが日顕は、着工大法要で山本伸一が正本堂を「本門の戒壇」と言ったのは独断であり、以来、そのような空気が宗門を巻き込んでいったというのだ。

仮に、伸一の発言が間違っているならば、そんな大問題を、なぜ、20年以上も放置しておいたのか、ましてや日顕は、当時、宗務院教学部長である。甚だしい責任放棄ではないか。

大聖人は、「僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり」と喝破されている。僻事とは道理に合わず、事実と違うということである。日顕宗は、自ら邪教であることを証明したことになる。

さらに、日顕は全国教師指導会で、正本堂の意義について72年4月の日達法主の訓諭の発言の「意義を含む」や「たるべき」の言葉に珍妙な解釈、正当な文法解釈とは間違った解釈を披露し説法していた。

日顕の発言を知った学会員は、愕然とした。学会としても、絶対に看過するわけにはいかぬ重大な問題であった。早速、この説法の矛盾点や疑問点について、文書をもって日顕に質したのである。

回答は空しい言い訳に終始し、矛盾だらけの回答であった。厳たる歴史的事実を歪め、欺こうというのだから、嘘と詭弁で塗り固める結果になるのは当然である。学会として、48項目にわたる質問を、再び提出したが、回答はなかった。

そして、1991年(平成3年)の11月7日、遂に宗門は、一方的に、創価学会に「解散勧告書」を送付した。さらに28日には、「破門通告書」を送り、正法正義を守り抜いて広宣流布に邁進しゆく学会を"破門"にするという、仏法破壊の極悪の大罪を犯したのである。

愚昧な彼らは、これで学会は窮し、多くの学会員が宗門に付くと考えたのであろう。それは、"衣の権威に民衆は従う"という、人間蔑視も甚だしい思い上がりである。宗門は、法主を絶対化し、信徒には隷属を強い、一閻浮提総与の大御本尊をも私物化した。

さらに、ベートーベンの第9"歓喜の歌"をドイツ語で歌うことは外道礼賛であるなどと文化を否定し、世界広宣流布の道を閉ざそうとした。

しかも、日顕自ら禅寺に墓を建てるなどの大愚も犯し、法師の皮を着た畜生さながらに供養を貪り、遊興を繰り返してきたのだ。

その誤りを戒め、戦ってきたわが同志にとって、"破門"なるものは、栄えある開放であった。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

破壊者日顕による 正本堂解体

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P331~ 

10月16日は、「久遠の灯」の点火大法要が行われた。正本堂の中央ブリッジ前に設置された「久遠の灯」の灯火台に火をともす儀式である。

翌17日は、慶祝法要最後の日であり、正本堂記念品埋納大法要が営まれた。須弥壇下の埋納室に、さまざまな記念品を納める儀式である。

伸一は、その説明をしたあと、彼方を仰ぐように顔を上げると、力強い声で語った。「この部屋は、猊下の御認可を得まして、第一回は今日より700年後、第二回は三千年後、そして第三回は1万年後に開かれることになっております」気の遠くなるような、想像もつかない未来である。しかし、皆、壮大なロマンに胸が躍った。

正本堂が幾世紀を越えて、平和の殿堂として存在し続けることを、誰もが確信していたのである。

正本堂の耐久性について、構造設計担当者の恩師である東大の坪井善勝名誉教授は、こんなエピソードを紹介している。

1971年10月、日本で行われたIASS国際シェル会議に出席した折のことである。鉄骨構造の権威である、イギリスのマコースキー教授と、正本堂の技術的な問題について話し合った際、ある新聞記者が「この建物は何年ぐらいもつと考えるか」と尋ねた。すると、マコースキー教授は「1万年」と答えたというのだ。

坪井名誉教授は記している。「この建物がマコースキーの言う耐用年数を期待することは我々構造設計者の能力の限界を超えたことである。すなわちいつまでも我々の次の時代また次の時代、その次の時代・・・の人びとが大石寺正本堂を大切に守るかどうかによって耐用年数は決定する」

円融閣いっぱいに掲げられている大緞帳の「閉幕式」である。落成の式典はすべて終了した。伸一は「閉幕式」を終えると、その足で戸田城聖の墓に向かった。一刻も早く、一切が無事に終わったことを、報告したかったのである。

正本堂建立の喜びは日本列島の津々浦々に広がっていた。全国各地で正本堂落慶記念ブロック座談会が、盛大に開催されたのである。

正本堂落成慶讃大法要の一連の儀式を終えた総本山では、記念登山会が始まり、連日、登山会参加者で賑わっていた。山本伸一は、しばらくは総本山にあって、各地から集って来るメンバーの激励に、日々、全力を傾けていた。

伸一は学会員の姿を見れば駆け寄り、全精魂を込めて激励した。輸送班の青年とは、一緒にカメラに納まり、抱きかかえるようにして握手を交わした。

「広布第二章」の伸一の戦いは、正本堂を訪れる同志への、生命を揺さぶるような励ましから始まったのである。完成した正本堂は、全信徒の誇りであった。

民衆の力によって築かれた、民衆のための荘厳な正本堂を見て、日蓮大聖人の仏法への理解を深めていった各界の指導者や学識者も少なくない。

ところが、落成からまだ26年にも満たない1998年(平成10年)の6月、なんと、その正本堂の解体が始まったのである。

この暴虐の破壊者は、日蓮正宗総本山代67世の法主を名乗る阿部日顕であった。

800万信徒の赤誠を踏みにじり、大聖人御遺命の「本門寺の戒壇」たるべき大殿堂を破壊するという大暴挙である。大聖人の法門に対する大変な叛逆である。御聖訓には「謗法と申すは違背の義なり」と厳しく仰せである。

さらに、日顕は、師の日達法主にも背き、その指南をも覆したのだ。正本堂の解体は「世界の宗教上及び文化上の遺産を甚だしく傷つけること」だと、海外の識者も強く抗議した。

日顕の常軌を逸した、この蛮行の淵源には、伸一と会員を離間させ、会員を信者として奪い取ろうとする悪辣な陰謀があった。いわゆる「C作戦(Cはカットの意)」である。

1990年の年末、突然、宗門は宗規の改正を口実にして、総講頭であった伸一をはじめ、大講頭らを一方的に、事実上、解任処分にした。「C作戦」が実行に移されたのだ。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

正本堂の建立と 破壊

『新・人間革命』第10巻 新航路の章 P203~

10月度の本部幹部会で、正本堂の供養について、御礼と報告を行った山本伸一。続いて、「御供養奉呈」の目録が、日達法主に渡された。日達法主は山本伸一が、供養達成のために350万遍の題目を唱えたと聞いたが、その題目が350億円の供養になったと述べ、次のように断言した。

「今、正本堂の供養をもって、百億の須弥の人びとに功徳をほどこすことになる。」「正本堂に大御本尊を安置し、奉って、南無妙法蓮華経と信心するところに、かならず宇宙全体に、その功徳がおよぶ」と指南した。

そして、日達法主は、この供養の全額を、正本堂建立、並びに広宣流布達成の事業、設備等に使用してもらうために、山本会長に委任したいと述べ、法主から伸一に、
委任状が手渡されたのである。それは、歴史的な儀式となった。

山本伸一があいさつに立った。「本当におめでとうございます。御供養の功徳は、御書に厳然としたためられております。」

「今まで創価学会は、貧乏人の集まりであるとか、病人の集まりであるとか、さんざん誹謗され、中傷され続けてきました。しかし、この不景気のさなかに、これだけの御供養ができたことは、学会が日本一の実力をもつに至った裏付けといえます。この事実こそ、御本尊の偉大なる大功徳の証明であると、私は訴えたいのであります。」

供養の大歓喜がみなぎるなか、本部幹部会は幕を閉じた。本門の戒壇となる正本堂の建設へ、歯車は勢いよく回り始めたのである。

5年後完工式が営まれ、大歓喜のなか、慶祝行事が、連日、盛大に挙行されたのである。正本堂は、日達法主の指南にもとづき、誰もが「本門の戒壇」と信じて疑わなかった。それゆえに、美的にも優れ、人類の遺産として永遠に残る最高の建物にしようと、建築技術の粋を集め、設計、建築された。

ところが、日達法主亡きあと、第67世の法主となった阿部日顕が、正本堂の完成から18年余りが過ぎた1991年(平成3年)1月、突如、正本堂は「終極究竟の意義における事の戒壇ではない」と言い出したのである。しかも、正本堂を「本門の戒壇」としたのは、当時の学会の会長であった山本伸一の独断であったかのように言い始めたのだ。

これは、明らかに、日達法主の指南を、根底から覆す発言であり、学会員だけでなく、法華講員にとっても、寺族同心会のメンバーにとっても、詐欺に等しい裏切りであった。学会員は皆、日達法主の指南のもと、正本堂こそ、「本門の戒壇」と信じたがゆえに、食べるものも惜しんで、命を削る思いで、供養に参加したのである。

さらに、日顕は、98年4月に、突然大御本尊を正本堂から奉安殿に遷座し、なんと、正本堂の破壊を発表したのだ。

そして、老朽化などの理由をでっち上げ、遂に、6月には、800万信徒の真心を踏みにじり、正本堂の解体を開始したのである。

広宣流布の大功労の団体である創価学会への嫉妬ゆえの、所業といえよう。また、慢心と強い自己顕示欲のゆえに、先師たる日達法主の尊き事跡を、ことごとく破壊したかったのであろう。

まさに、天魔と化した、頭破作七分の狂乱の姿であり、その罪は、無間地獄を免れまい。
一方、正本堂は破壊されても、蓮祖大聖人の御遺命を実現せんとして、供養に参加した同志の信心の赤誠は、永遠の福運となって、自身を荘厳しゆくことは絶対に間違いない。
それが、仏法の厳たる因果の理法である。



10月度本部幹部会の翌々日19日には、山本伸一は、正本堂の資材買い付けと、現地会員の激励のために、さらに、文化交流の第一歩を印す決意で、
ヨーロッパに旅立ったのである。

天魔日顕 2019年9月20日 死亡

太字は 『新・人間革命』第10巻より 抜粋

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