『新・人間革命』第16巻 入魂の章 73P~
記念撮影では、それぞれの部に、伸一の入魂の指導が行われた。彼は、男子部には、新たな指針を示した。「人生の勝利も、広宣流布の勝利も、すべて勇気から始まる。一歩踏み出す勇気、挫けぬ勇気、自分に負けない勇気・・・。勇気こそが壁を破る。その勇気をもって、青年は、次の決意に立っていただきたい。」
「それは、『御本尊を守ろう』『創価学会を守ろう』『わが家を守ろう』『わが地域を守ろう』ということであります。御本尊は、信心の根本であり、御本尊を守る具体的な姿は、勤行に現れます。すべての勝利を祈り、御本尊に誓いを立て、御本尊根本に、日々を勝ち抜いていってください。」
「創価学会を守るのは、学会こそが、広宣流布を推進している唯一の団体だからです。学会なくしては、人類の幸福も世界の平和もない。」
「また、わが家を守るのは、そこにこそ、幸福の実像があるからです。そして、家庭こそが、偉大なる人材を育む根本の母体であるからです。」
「さらに、地域を守るのは、わが地域こそが生活の基盤であり、広宣流布の舞台であるからです。地域を離れて、どこか別のところに、広布の楽土があるわけでは絶対にない。」
それから、伸一は、コザ会館の開館式に急いだ。沖縄の婦人部の中心者である、上間球子に声をかけた。彼女は、二年前の一月に、夫の俊夫を亡くしていた。
支部の婦人部長に上間球子が推薦された時、婦人部長になれば、どうしても家を空けることも多くなり、夫の俊夫の了承を得なければならないと思った。俊夫は、「愛する妻が人びとのために働くのですから、私は妻を応援します。」と言って妻を応援した。俊夫は、心臓病で、危篤状態になったが、妻には、沖縄の地にとどまるよう要望したのだった。伸一は、彼女のためにも、夫を顕彰する木を記念植樹した。
深夜まで、沖縄の同志に贈る書籍や色紙に、揮毫していた伸一。強行スケジュールではあったが、那覇のあと、予定いなかった名護に行くことを決めた。
那覇での記念撮影後は、郷土芸能などが披露され、小規模ながら、前年出席できなかった「沖縄文化祭」となった。男子部の獅子舞の時、伸一は自ら鉢巻を締め、太鼓を叩いて、獅子舞と共演した。
名護へは、日没前に到着でき、名護会館の建設用地で記念撮影を行った。アトラクションで琴を演奏した女子部は、名嘉勝代であった。3年前に名護の浜辺で、伸一に激励されたメンバーである。
彼女は、7歳の時、ハシカにかかり、弱視になり、さらに緑内障になり、中学生の時には、視力を失ってしまった。未来は、絶望の闇であった。生きることは、死ぬことよりも辛く、苦しく感じられた。考えることといえば、“どうすれば楽に死ねるか”ということだった。
20歳になったころ、苦しさからのがれるため、琴を習いたいと母に告げた。次兄が、入会し、信心を勧められたが、人の弱みにつけ込んで勧めているように感じ、素直に話を聞けなかった。しかし、「生命論」についての学会指導に関心をもち、仏法の話に耳を傾けるようになり、母親とともに入会した。
勤行をすると、閉ざされていた自分の心が大きく広がり、今までに体験したことのない、不思議な喜びと躍動を感じた。学会活動にも参加し、いつの間にか、人びとの幸福を願い、懸命に語っている自分に気づいた。いまだかつてない、生命の燃焼を感じた。彼女は、信心によって、最上の充実感を知り、生きることの意味を実感したのである。
入会から5年後、名護で伸一と会い、激励された時は、1年前に母を亡くしたばかりで、失意の底から立ち上がれずにいた時であった。
彼女は、その時の伸一の指導を、片時も忘れることはなかった。
記念撮影では、それぞれの部に、伸一の入魂の指導が行われた。彼は、男子部には、新たな指針を示した。「人生の勝利も、広宣流布の勝利も、すべて勇気から始まる。一歩踏み出す勇気、挫けぬ勇気、自分に負けない勇気・・・。勇気こそが壁を破る。その勇気をもって、青年は、次の決意に立っていただきたい。」
「それは、『御本尊を守ろう』『創価学会を守ろう』『わが家を守ろう』『わが地域を守ろう』ということであります。御本尊は、信心の根本であり、御本尊を守る具体的な姿は、勤行に現れます。すべての勝利を祈り、御本尊に誓いを立て、御本尊根本に、日々を勝ち抜いていってください。」
「創価学会を守るのは、学会こそが、広宣流布を推進している唯一の団体だからです。学会なくしては、人類の幸福も世界の平和もない。」
「また、わが家を守るのは、そこにこそ、幸福の実像があるからです。そして、家庭こそが、偉大なる人材を育む根本の母体であるからです。」
「さらに、地域を守るのは、わが地域こそが生活の基盤であり、広宣流布の舞台であるからです。地域を離れて、どこか別のところに、広布の楽土があるわけでは絶対にない。」
それから、伸一は、コザ会館の開館式に急いだ。沖縄の婦人部の中心者である、上間球子に声をかけた。彼女は、二年前の一月に、夫の俊夫を亡くしていた。
支部の婦人部長に上間球子が推薦された時、婦人部長になれば、どうしても家を空けることも多くなり、夫の俊夫の了承を得なければならないと思った。俊夫は、「愛する妻が人びとのために働くのですから、私は妻を応援します。」と言って妻を応援した。俊夫は、心臓病で、危篤状態になったが、妻には、沖縄の地にとどまるよう要望したのだった。伸一は、彼女のためにも、夫を顕彰する木を記念植樹した。
深夜まで、沖縄の同志に贈る書籍や色紙に、揮毫していた伸一。強行スケジュールではあったが、那覇のあと、予定いなかった名護に行くことを決めた。
那覇での記念撮影後は、郷土芸能などが披露され、小規模ながら、前年出席できなかった「沖縄文化祭」となった。男子部の獅子舞の時、伸一は自ら鉢巻を締め、太鼓を叩いて、獅子舞と共演した。
名護へは、日没前に到着でき、名護会館の建設用地で記念撮影を行った。アトラクションで琴を演奏した女子部は、名嘉勝代であった。3年前に名護の浜辺で、伸一に激励されたメンバーである。
彼女は、7歳の時、ハシカにかかり、弱視になり、さらに緑内障になり、中学生の時には、視力を失ってしまった。未来は、絶望の闇であった。生きることは、死ぬことよりも辛く、苦しく感じられた。考えることといえば、“どうすれば楽に死ねるか”ということだった。
20歳になったころ、苦しさからのがれるため、琴を習いたいと母に告げた。次兄が、入会し、信心を勧められたが、人の弱みにつけ込んで勧めているように感じ、素直に話を聞けなかった。しかし、「生命論」についての学会指導に関心をもち、仏法の話に耳を傾けるようになり、母親とともに入会した。
勤行をすると、閉ざされていた自分の心が大きく広がり、今までに体験したことのない、不思議な喜びと躍動を感じた。学会活動にも参加し、いつの間にか、人びとの幸福を願い、懸命に語っている自分に気づいた。いまだかつてない、生命の燃焼を感じた。彼女は、信心によって、最上の充実感を知り、生きることの意味を実感したのである。
入会から5年後、名護で伸一と会い、激励された時は、1年前に母を亡くしたばかりで、失意の底から立ち上がれずにいた時であった。
彼女は、その時の伸一の指導を、片時も忘れることはなかった。
太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋