小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

通信員

聖教新聞記者の生き方

『新・人間革命』第18巻 獅子吼の章 58P~

「プライバシーは、当然尊重されなければならない。ただし、職員は全学会員の依古依託であり、私生活面も含め、皆の模範となる責任がある。私生活上のことでも、問題を起こしたりすれば、学会に迷惑をかけ、会員を悲しませることになる。したがって、職員の場合、プライバシーの問題だからではすまされない面がある。」

「その意味から、上司は何かの問題の目を見つけたならば、誤りを指摘して、正すべきは正していかなくてはならない。皆を不幸にしないために、悪いことは悪いと強く言い切っていくことが本当の慈悲です。」

「部長が何も言わない。それは、物わかりのいいように見えるが、その本質は臆病で、ずるいんです。責任の放棄ではないですか。」

「職員は、部長も部員も常に磨き合い、互いに成長を競い合っていく関係でなければならない。部長として、部員の成長と無事故を真剣に祈っていくことだ。その祈りがあれば、心も通じ合います」

体験を取材するうえで、大切な点を聞かれると、「それは、人間の生き方を見つめる目をもつことです。体験の原稿には、記者の信仰観、仏法観が端的に表れる。仏法への正しい理解がないと、神秘や軌跡を追い求めるような体験の書き方になったりするものだ。だから、社会部の記者には、特に深い教学、哲学が必要なんです。」

「体験談は、聖教新聞ならではのものです。体験のページを読んで、勇気と希望を得て、信心に奮い立つ人、入会する人は多い。それだけに、いかにすれば、客観的で、それでいて万人の胸を打ち、納得させることのできる体験が書けるか、みんなで検討し、工夫していくんだよ」

半ばしらけていたり、批判的な記者とも、粘り強く対話していった。編集幹部と行動を共にするようにしてきた。伸一は、彼らに、会合はもとより、執務から食事の様子まで、自分のすべてを見せるようにした。

創価学会の会長の責任と戦いが、どれほど重く、激しいものであるかを、教えておきたかった。また、山本伸一という人間の実像を知って、共に広宣流布のリーダーとして、立ち上がってほしかったのである。

1973年(昭和48年)の5月3日、聖教新聞の全国通信員大会に出席した。講演で伸一は、聖教新聞は創価学会の機関紙であることを、改めて確認した。そして、聖教新聞社の精神とは「広宣流布遂行への大情熱であり、一言すれば『強盛にして正しき信心』であります」と叫んだのである。

当然すぎることのようだが、この1点がずれてしまうことから、すべての狂いが生じるのだ。ゆえに、記者は常に自らの信心を正すべきことであることを、強く訴えたかったのである。

さらに彼は、記者に要求される資質として、冷徹な心、批判の眼、鋭利な頭脳、究明能力、記述表現力の5つをあげ、そのうえで、こう警鐘を鳴らした。「これは、いわば、声聞・縁覚の二乗の能力であり、それゆえに記者は強い信心に立ち、菩薩行すなわち広宣流布という目的観を、絶対に忘れてはならない」

次いで、聖教新聞の役割に言及していった。「その本務は、信仰を啓発し、信心を指導し、誤れる言論に戦いを挑み、一切の思想・哲学に対して指針を示し、信仰に関する一切の情報をニュース化して、提供していくことであります。」

聖教新聞の記者の生き方にも及んだ。「広宣流布のために戦う言論人は、常に、味方に対しては同情の眼を、人びとを不幸にする敵に対しては警戒の目をもっているべきであります。また、皆さん方は、弱者の味方、善良なるものの味方であるということを、絶対に忘れないでいただきたい。」

「記事というものは、いったん紙面に出てしまったならば、引っ込みがつかないものである。したがって、常に最高の言論をめざさねばならない。そのために戒めるべきは、『慢心』『油断』『怠慢』であり、この三つが記者の大敵となるのであります。」

「読者を『彼』として扱わず、親しい『あなた』として呼びかける新聞である。」

太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

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言論の闘士の模範 通信員

『新・人間革命』第14巻 大河の章 P376~

1970年(昭和45年)11月8日、全国の通信員の代表500人が参加し、聖教本社の新社屋で通信員大会が開催された。参加者の大きな共感を呼んだのは、活動報告であった。

北海道釧路で男子部総ブロック長をしている遠山正治は、6年前の入会で、通信員の活動を始めたのは4年前である。入会の契機がパン屋で目にした聖教新聞からであり、恩返しのつもりで、原稿を書いたが、何度も原稿が「ボツ」になることが続き、通信員活動から遠ざかってしまった。

しかし、学会活動で、担当した組織にいる、女手一つで3人の子どもを育てる婦人を知り、信心の素晴らしさを痛感し、この婦人に育てられた子どもの体験をなんとしても、多くの人に紹介したかった。彼は、一家を取材し、原稿を送った。数日後、自分の書いた体験記事が、北海道版に大きく掲載された。

彼は涙し、通信員の喜びと使命をかみしめた。"俺は記事がボツになったことで、自分の使命までボツにしていたのだ"遠山は決意を新たにした。道東の広大な根釧原野を走るために、中古の自動車を購入した。真冬のある夜、取材の帰り、車のエンジンが動かなくなってしまい、凍死しかねないという、九死に一生を得たこともある。

原稿の執筆に取りかかり、朝になってしまったこともある。そんな時、彼を元気づけてくれたのが、聖教新聞を配る配達員さんの足音であった。"配ってくれる人がいるから、この記事を読者が読んでくれる。吹雪の日も、雨の日も、毎日毎日、新聞を配達してくれる人の苦労は、もっと、もっと、大変なものがあるはずだ。"こう思うと、疲れも吹き飛んだ。

遠山は、こう話しを結んだ。「いよいよ言論戦が、広宣流布の流れを、大きく左右する時代に入ったと思います。私は、その先駆けともいうべき通信員として、力の限り、学会の真実の姿を伝えてまいります。仏法の正義を訴え抜いてまいります。皆さん、私たちの手で日本第一の、世界最高の聖教新聞をつくり、新しい歴史の幕を開いていこうではありませんか!」

通信員は、女性の活躍も目覚ましかった。新潟支部でただ一人の通信員だった小沢悠子は、高校を卒業したばかりであった。活動を始めたものの、写真も満足にとれず、失敗してしまった。彼女は、撮影技術を徹底して学んだ。

小沢はやがて、新潟の女子部の中心者になり、多忙を極めていくが、通信員の使命を果たし抜き、"広宣流布の現場証人として、ニュースを送り続けよう"というのが、彼女の決意であった。M7.5の自身が新潟県北部を襲った時、被災地を駆け巡り、会員の激励にあたりながら、地震禍から立ち上がった学会員の様子を、いち早く記事にしたのである。

新潟の友の安否を気遣う同志は、それらの記事を見て、心から安堵するとともに、信仰をもつことのすばらしさを知るのであった。

また、通信員の使命の大きさとやりがいを小沢は、多くの女子部員に語っていった。彼女の話を聞き、新潟では、女子部員が次々と通信員を希望し、若い力が、支局の原動力となっていた。

小沢に励まされ通信員となった本田芙美代は、薬剤師の国家資格を持っていたが、持病の貧血のため、故郷の新潟に帰っていた。彼女は、やがて薬局を開き、日蓮大聖人のゆかりの佐渡で広宣流布に生きたいと願うようになっていた。彼女が最も心を砕いたのは、正確な記事を書くことであった。

佐渡の同志の活動や体験が皆の目に触れるのだと思うと、通信員の使命を果たした喜びに、胸が熱くなるのであった。そして、自分でも気づかぬうちに、いつの間にか、持病の貧血も治っていたのである。

伸一は、通信員の姿のなかに、広宣流布という平和社会を建設する、言論の闘士の模範を見ていたのである。

伸一は、自らに言い聞かせていた。"私も、皆の先頭に立って戦おう。広宣流布という言論戦の砦たる聖教新聞に、生涯、一通信員、一記者のつもりで、原稿を書いて書いて、書きまくろう。さあ、戦闘開始だ!”


<第14巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

通信員と配達員こそ新聞の生命線

『新・人間革命』第14巻 大河の章 P364~

いよいよ創刊20周年を翌年に迎えた今、堂々たる新社屋が落成したのだ。

伸一は、会長に就任してからの、この10年余りの間、いつも、聖教新聞のことが頭から離れなかった。彼の一日は、妻の峯子とともに、配達員等の無事故を懸命に祈り、インクの匂いも新しい、届いたばかりの新聞に、くまなく目を通すことから始まるのである。

戸田城聖が魂を注いでつくりあげた新聞を大発展させていくことが、自分の責任であり、義務であると、彼は決めていたのである。

広宣流布と社会の未来を思えば思うほど、伸一は、聖教新聞の使命の重大さを痛感するのであった。学会の活動や、考え方を、750万世帯に達した全国の同志に、誤りなく伝えるには、聖教新聞なくしては不可能である。

また、日蓮大聖人は、「仏は文字に依って衆生を度し給うなり」と仰せだが、仏法の哲理を、人びとに正しく伝え抜いていくうえでも、聖教新聞の担う役割は極めて大きい。

さらに、現代は、情報が氾濫しており、ともすれば、その情報の洪水に押し流されて、自らがものを考え、自身の価値観を確立できないでいることが少なくない。それだけに、情報を見極める哲学の"眼"を持つことが極めて重要になる。そのための新聞が、聖教新聞であるといってよい。落成式の翌日には、各界の来賓約千人を招いて、新社屋の落成披露祝賀会が開かれた。

伸一は、正面玄関で、2時間余りにわたって、来賓を出迎え、一人ひとりと丁重にあいさつをかわしていった。人と直接会い、誠実に言葉を交わすことから、信義と友情のドラマは幕を開ける。自分が会ったすべての人を、学会の最大の理解者にしようーーそれが、伸一の信条であり、決意であった。

現代社会のなかで最も欠落しているものは、正と邪、善と悪の分別であり、邪悪と戦う心であろう。邪悪に目をつぶる人間は、決して寛容なのではなく、臆病で無気力であるにすぎない。

不正を許す、事なかれ主義は、一時はよいように見えても、やがては、皆を不幸にしてしまう。邪悪と戦う正義の心をもって立つことこそが、本来、言論の使命といってよい。

11月8日全国通信員大会が開かれた。伸一は、幹部に「細かく張り巡らされた通信員の皆さんの取材網は、ちょうど毛細血管のようなものです。また、できあがった新聞を、毎日、読者のもとに届けてくださるのが、配達員の皆さんです。通信員と配達員の皆さんこそ、新聞の生命線です。本社にいる者は、そのことを絶対に忘れてはいけない」厳しい口調で言った。

「私は、通信員の活動にこそ、聖教新聞の原点があると思っている。当初、聖教新聞は、学会の幹部が皆でつくってきた。みんな、仕事をし、学会活動に励み、そして、新聞をつくった。忙しいが必死だった。その闘魂が紙面にあふれていた。だから、新聞には、感動があった。今、その精神を受け継いでいるのが通信員の皆さんです。」

この制度をつくられたのは、戸田先生であった。戸田は、「通信員は、本当の"闘争人"になってもらいたい。"闘争人"というのは、民衆を不幸にする邪悪を絶対に打ち砕いてみせるという、赤々とした闘魂、情熱を燃え上がらせている人です。正法正義のために、民衆のために、命がけで書いてこそ、ペンは剣に勝つことができる」と通信員に語った。

ある地域の通信員は、「聖教新聞には、人を救おう、不幸をなくそうという指導理念があります。体験もあります。絶望の淵から立ち上がった人や、生きる希望をつかんだという人は、枚挙にいとまがありません。だから、私は、自身をもって、聖教新聞こそ、最高の新聞だと言っているんです」と他紙の記者に胸を張って語った。その心意気こそが、聖教新聞発展の原動力であったといってよい。


太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

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