『新・人間革命』第18巻 獅子吼の章 58P~
「プライバシーは、当然尊重されなければならない。ただし、職員は全学会員の依古依託であり、私生活面も含め、皆の模範となる責任がある。私生活上のことでも、問題を起こしたりすれば、学会に迷惑をかけ、会員を悲しませることになる。したがって、職員の場合、プライバシーの問題だからではすまされない面がある。」
「その意味から、上司は何かの問題の目を見つけたならば、誤りを指摘して、正すべきは正していかなくてはならない。皆を不幸にしないために、悪いことは悪いと強く言い切っていくことが本当の慈悲です。」
「部長が何も言わない。それは、物わかりのいいように見えるが、その本質は臆病で、ずるいんです。責任の放棄ではないですか。」
「職員は、部長も部員も常に磨き合い、互いに成長を競い合っていく関係でなければならない。部長として、部員の成長と無事故を真剣に祈っていくことだ。その祈りがあれば、心も通じ合います」
体験を取材するうえで、大切な点を聞かれると、「それは、人間の生き方を見つめる目をもつことです。体験の原稿には、記者の信仰観、仏法観が端的に表れる。仏法への正しい理解がないと、神秘や軌跡を追い求めるような体験の書き方になったりするものだ。だから、社会部の記者には、特に深い教学、哲学が必要なんです。」
「体験談は、聖教新聞ならではのものです。体験のページを読んで、勇気と希望を得て、信心に奮い立つ人、入会する人は多い。それだけに、いかにすれば、客観的で、それでいて万人の胸を打ち、納得させることのできる体験が書けるか、みんなで検討し、工夫していくんだよ」
半ばしらけていたり、批判的な記者とも、粘り強く対話していった。編集幹部と行動を共にするようにしてきた。伸一は、彼らに、会合はもとより、執務から食事の様子まで、自分のすべてを見せるようにした。
創価学会の会長の責任と戦いが、どれほど重く、激しいものであるかを、教えておきたかった。また、山本伸一という人間の実像を知って、共に広宣流布のリーダーとして、立ち上がってほしかったのである。
1973年(昭和48年)の5月3日、聖教新聞の全国通信員大会に出席した。講演で伸一は、聖教新聞は創価学会の機関紙であることを、改めて確認した。そして、聖教新聞社の精神とは「広宣流布遂行への大情熱であり、一言すれば『強盛にして正しき信心』であります」と叫んだのである。
当然すぎることのようだが、この1点がずれてしまうことから、すべての狂いが生じるのだ。ゆえに、記者は常に自らの信心を正すべきことであることを、強く訴えたかったのである。
さらに彼は、記者に要求される資質として、冷徹な心、批判の眼、鋭利な頭脳、究明能力、記述表現力の5つをあげ、そのうえで、こう警鐘を鳴らした。「これは、いわば、声聞・縁覚の二乗の能力であり、それゆえに記者は強い信心に立ち、菩薩行すなわち広宣流布という目的観を、絶対に忘れてはならない」
次いで、聖教新聞の役割に言及していった。「その本務は、信仰を啓発し、信心を指導し、誤れる言論に戦いを挑み、一切の思想・哲学に対して指針を示し、信仰に関する一切の情報をニュース化して、提供していくことであります。」
聖教新聞の記者の生き方にも及んだ。「広宣流布のために戦う言論人は、常に、味方に対しては同情の眼を、人びとを不幸にする敵に対しては警戒の目をもっているべきであります。また、皆さん方は、弱者の味方、善良なるものの味方であるということを、絶対に忘れないでいただきたい。」
「記事というものは、いったん紙面に出てしまったならば、引っ込みがつかないものである。したがって、常に最高の言論をめざさねばならない。そのために戒めるべきは、『慢心』『油断』『怠慢』であり、この三つが記者の大敵となるのであります。」
「読者を『彼』として扱わず、親しい『あなた』として呼びかける新聞である。」
太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋
「プライバシーは、当然尊重されなければならない。ただし、職員は全学会員の依古依託であり、私生活面も含め、皆の模範となる責任がある。私生活上のことでも、問題を起こしたりすれば、学会に迷惑をかけ、会員を悲しませることになる。したがって、職員の場合、プライバシーの問題だからではすまされない面がある。」
「その意味から、上司は何かの問題の目を見つけたならば、誤りを指摘して、正すべきは正していかなくてはならない。皆を不幸にしないために、悪いことは悪いと強く言い切っていくことが本当の慈悲です。」
「部長が何も言わない。それは、物わかりのいいように見えるが、その本質は臆病で、ずるいんです。責任の放棄ではないですか。」
「職員は、部長も部員も常に磨き合い、互いに成長を競い合っていく関係でなければならない。部長として、部員の成長と無事故を真剣に祈っていくことだ。その祈りがあれば、心も通じ合います」
体験を取材するうえで、大切な点を聞かれると、「それは、人間の生き方を見つめる目をもつことです。体験の原稿には、記者の信仰観、仏法観が端的に表れる。仏法への正しい理解がないと、神秘や軌跡を追い求めるような体験の書き方になったりするものだ。だから、社会部の記者には、特に深い教学、哲学が必要なんです。」
「体験談は、聖教新聞ならではのものです。体験のページを読んで、勇気と希望を得て、信心に奮い立つ人、入会する人は多い。それだけに、いかにすれば、客観的で、それでいて万人の胸を打ち、納得させることのできる体験が書けるか、みんなで検討し、工夫していくんだよ」
半ばしらけていたり、批判的な記者とも、粘り強く対話していった。編集幹部と行動を共にするようにしてきた。伸一は、彼らに、会合はもとより、執務から食事の様子まで、自分のすべてを見せるようにした。
創価学会の会長の責任と戦いが、どれほど重く、激しいものであるかを、教えておきたかった。また、山本伸一という人間の実像を知って、共に広宣流布のリーダーとして、立ち上がってほしかったのである。
1973年(昭和48年)の5月3日、聖教新聞の全国通信員大会に出席した。講演で伸一は、聖教新聞は創価学会の機関紙であることを、改めて確認した。そして、聖教新聞社の精神とは「広宣流布遂行への大情熱であり、一言すれば『強盛にして正しき信心』であります」と叫んだのである。
当然すぎることのようだが、この1点がずれてしまうことから、すべての狂いが生じるのだ。ゆえに、記者は常に自らの信心を正すべきことであることを、強く訴えたかったのである。
さらに彼は、記者に要求される資質として、冷徹な心、批判の眼、鋭利な頭脳、究明能力、記述表現力の5つをあげ、そのうえで、こう警鐘を鳴らした。「これは、いわば、声聞・縁覚の二乗の能力であり、それゆえに記者は強い信心に立ち、菩薩行すなわち広宣流布という目的観を、絶対に忘れてはならない」
次いで、聖教新聞の役割に言及していった。「その本務は、信仰を啓発し、信心を指導し、誤れる言論に戦いを挑み、一切の思想・哲学に対して指針を示し、信仰に関する一切の情報をニュース化して、提供していくことであります。」
聖教新聞の記者の生き方にも及んだ。「広宣流布のために戦う言論人は、常に、味方に対しては同情の眼を、人びとを不幸にする敵に対しては警戒の目をもっているべきであります。また、皆さん方は、弱者の味方、善良なるものの味方であるということを、絶対に忘れないでいただきたい。」
「記事というものは、いったん紙面に出てしまったならば、引っ込みがつかないものである。したがって、常に最高の言論をめざさねばならない。そのために戒めるべきは、『慢心』『油断』『怠慢』であり、この三つが記者の大敵となるのであります。」
「読者を『彼』として扱わず、親しい『あなた』として呼びかける新聞である。」
太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋