小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

迫害

ヒトラー 悪との戦い

『新・人間革命』第4巻 大光の章 P328~

ヒトラーは、彼の政治活動の初めから終わりまで、ユダヤ人への憎悪を燃やし続けていた。

山本伸一は、ヒトラーが独裁者となるまでの経緯を語った。

第一次世界大戦末期、ドイツでは革命が起き、皇帝はドイツを去り、ワイマール憲法のもとで民主政治の時代が始まる。

しかし、長らく封建的な体制に馴染み、近代市民国家としての伝統が浅かったドイツの、社会の実態は、いまだ家父長的な封建主義が根強かった。

しかも、ベルサイユ条約によって、莫大が賠償を課せられていたドイツは、大きな重荷を背負い、経済危機を招き、民衆の生活を破壊させた。

こうした、生活苦のなかで、保守勢力や大衆は、その不満のはけ口をユダヤ人に向け、彼らに非難が集中していった。そして、一部のユダヤ人に財界人がいたことなどから、根拠のない噂が流される。

その代表的なものが、「ユダヤ人がドイツを支配しようとしている」という噂であった。
悪意のデマも、「ウソも百回言えば本当になる」とばかりに、繰り返し喧伝されることで、巨大な力をもったのである。

ヒトラーは自分の気に入らないものは、すべてユダヤ人に結びつけた。
こうして作られた虚構の「ユダヤ人問題」を「最終解決」するために、ユダヤ人の「排除」を叫び、それは遂に、“アウシュビッツ”に代表される「ユダヤ人絶滅計画」にまで行き着いてしまうのである。

なんという狂気か。なんという惨劇か。

物理学者のアインシュタインは、「ユダヤ人についての憎悪感は民衆の啓蒙を忌み嫌うべき理由をもつ人々によるものなのです。」と、その迫害者の心理を鋭く分析している。

その指摘のように、権力の亡者は、民衆が賢くなり、自分たちの思い通りにならなくなることを、何よりも恐れる。それゆえに、民衆を目覚めさせ、自立させようとする宗教や運動を、権力は徹底的に排除しようとするのである。それは、いつの時代も変わらざる構図といえよう。

「忘れてならないのは、ヒトラーも、表向きは民主主義に従うふりをし、巧みに世論を扇動し、利用していったということだ。」

「民衆が、その悪の本質を見極めず、権力の魔性と化した独裁者の扇動に乗ってしまったことから、世界に誇るべき“民主憲法”も、まったく有名無実になってしまった。これは、歴史の大事な教訓です。」

と強い口調で語る山本伸一。

こんなひどいことが行われていたのに、ナチスに抵抗する動きはなかったのかとの質問に、
「抵抗した人たちもいる。しかし、本気になって抵抗しようとした時には、ナチスは、ドイツを意のままに操る、巨大な怪物に育ってしまっていた。結局、立ち上がるのが遅すぎた。」と語る。

キリスト教会の反ナチ闘争の中心的人物だった牧師マルティン・ニーメラーは回想する。
「ナチスが共産主義者を襲った時、不安になったが、自分は 共産主義者ではないので抵抗しなかった。社会主義者を攻撃した時も、同じだ。次いで、学校、新聞、ユダヤ人・・・と、ナチスは攻撃を加えたが、まだ何もしなかった。そして、ナチスは、遂に教会を攻撃した。」

「そこで、初めて抵抗した。しかし、その時には、もはや手遅れであったー」

こうした悲惨な時代を生きた人びとは、すべてが、起こってしまったあとに、その教訓として、次のような格言を、苦い思いで噛み締めたという。

すなわち、「発端に抵抗せよ」「終末を考慮せよ」と。
悪の芽は、気がついたら、直ちに摘み取ることだ。悪の“発端”を見過ごし、その拡大を放置すれば、やがて、取り返しのつかない“終末”をもたらすことになる。

「一般のドイツ人にしてみれば、ナチスの暴虐も、自分たちに火の粉が降りかかるまでは、対岸の火事でしかなかった。その意識、感覚が、『悪』を放置してしまったんです。」


人間は、他の人が迫害にさらされていても、それが自分にも起こりうることだとは、なかなか感じられない。

民衆の側に、国家権力の横暴に対して、共通した危機意識がなかったことが、独裁権力を容認した理由の一つといえるだろう。

学会がなそうとしていることは、民衆の心と心の、強固なスクラムをつくることでもある。

「日本にもすばらしい憲法があっても、それが踏みにじられることにもなりかねない。
 小さな穴から堤防が破られ、濁流に流されていくように。」

「こうした事態が、これから先も起こりかねない。しかも、『悪』は最初は残忍な本性は隠し、『善』や『正義』の仮面を被っているものだ。だからこそ、『悪』に気づいたら、断固、立ち上がるべきだよ。それを、私たち日本人も、決して忘れてはならない」
と語る伸一。


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

オウム真理教と宗教法人法改正

『新・人間革命』第3巻 仏陀の章 P223~


釈尊は居並ぶ弟子たちに視線を注ぐと、舎利佛に言った。
「舎利佛よ!長老であるあなたが、王舎城で提婆達多を糾弾してくるのだ」


舎利佛は困惑した。
「世尊、私には、それはできません。私は、かつて王舎城で、提婆達多は偉大な力があると、
称賛してきました。その私がそうしたことを言うのは・・・」

「だからこそ、戦ってくるのだ!あなたが出向いて、提婆達多の本性を暴き、
仏陀に違背したものであると宣言してくるのだ」


悪と徹底抗戦する心が定まらなければ、悪員に付け入る隙を与え、
正義も破られてしまう。釈尊は、それを弟子たちに教えようとしていたのである。


提婆達多は頭を抱え込んだ。企てた釈尊殺害の計画が皆、失敗に終わってしまったのだ。
彼は作戦の変更を余儀なくされた。殺害計画はやめて、教団を分裂させることを考えたのである。
そこで、目をつけたのが、戒律であった。


戒律は修行のための手段であって、それ自体が目的ではない。
しかし、その戒律が目的となり、人間を縛るようになれば、まさに本末転倒という以外にない。


釈尊の教えの根本は、何ものにも紛動されない自分を作ることであり、
戒律はあくまでも、それを助けるものにすぎない。
釈尊には、厳格な戒律で人を縛るという発想はなかった。


提婆達多それを悪用し、釈尊は厳しき修行を厭い、贅沢が身についたと
新参の修行者に訴え、釈尊の教団を分裂させ、出ていってしまった。


しかし、舎利佛と 目連に促され、自分に分別がなかったために、
提婆達多に騙されたと気づいた比丘たちは 釈尊の元に戻る。


提婆達多は、憤怒に震え、その場で熱血を吐いて死んでいったと、ある仏典は伝えている。



その後、最愛の弟子、舎利佛や 目連のし、追い打ちをかけるように
釈迦族の滅亡という事件に遭遇する釈尊。


しかし、釈尊は負けなかった。無常なるがゆえに永遠の法に生き、
それを伝え抜こうとしたのである。


「さあ、行こう!」彼は弘教の旅に出ることを、呼びかけたのだ。
いかなる人も苦しみを避けることはできない。仏陀にも苦しみはある。
その苦しみの淵から立ち上がり、使命に生き抜く力が信仰である。
そこに仏陀の道、聖者の道、まことの人間の道がある。


彼は命尽きるまで、各地を巡り、法を語り説いて、生涯を終えることを決意したのである。



山本伸一は、釈尊の生涯に思いを馳せると、新たな勇気がわいてきた。
その生涯は、日蓮大聖人には及ばぬまでも、法難に次ぐ法難であった。


伸一は思った。
“自分は、凡夫の身にして悪世末法に、仏法の精髄の法を世界に弘めんとしている。
経文に照らし、御書に照らして、弾圧の嵐もあるだろう。
攪乱の謀略も、非難中傷もあって当然である。私も自分らしく、どこまでも法のままに、我が使命の旅路をゆく。命の燃え尽きる時まで、人間の栄光の旗を掲げて・・・”

仏陀の章 終わり

太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

この「仏陀」の章の連載が聖教新聞で始まったのは、1995年4月から。
直前の1995年3月 オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きている。

この事件をきっかけに、宗教に対する統制を強めようとする社会的な動きが出てきた。
それは後に、宗教法人法改正へとつながっていく。

当時の自民党は 新進党に参加した公明つぶしのため、創価学会に圧力をかけようと
宗教法人法改正の際に 創価学会 池田名誉会長を国会に 証人喚問し
さらしものに しようとしたのだ。

「仏陀」の章は 当時、卑劣なデマ・中傷にさらされていた、
学会員への励ましであったと同時に、
迫害の構図を 後世にとどめようとしたものであると思えてならない。

提婆達多の捏造や 策略は 今も 池田先生や 創価学会へ対する
迫害の構図と同じだ。 

スキャンダル捏造

『新・人間革命』第3巻 仏陀の章 P217~


釈尊の生涯は 迫害の連続であった。
六師外道からの 女性を利用したスキャンダルの捏造は いつの世も変わらない。


釈尊を慕う弟子が増えるにつれ、さらに、大きな難が起こる。
それは、嫉妬心による、弟子による 反逆であった。


提婆達多(ダイバダッタ)という釈迦族出身の弟子は、
聡明な若者であった。釈迦に強い憧れをいだいていた。


釈尊と同じ釈迦族出身に 誇りを感じ、話し方や身振りも、
釈尊に似ていった。弟子たちのなかでも、頭角を現し、周囲から知者として、
崇められるようになっていった。


しかし、壮年期に入ると、その高い評価に、彼の名聞名利の心が煽られる。
“俺も世尊のように、仏陀として、大衆の尊敬を集めたい!”と


釈尊は、人気を得るために法を説いたのでは決してない。
ただ、人びとの幸福のために法を説いているのだ。ところが彼は、今や、
その根本の一点を凝視することができなかった。


退転、反逆も根本の一点の迷い、狂いから始まる。

名利を貪る欲望は、あらゆる役柄を演じさせる。
彼は、人びとの前では、見事な「聖者」であった。


一方で、提婆達多は、自分を庇護し、後ろ盾となる権力ある人物を探していた。
そして、目をつけたのが、魔訶蛇国の王子の阿闍世であった。
阿闍世は、有能な人物であり、いずれは、王位を継ぐことになる。

提婆達多は、巧妙に応じに取り入り、手厚いもてなしと供養をうけるようになった。

彼は、その供養を貪った。もはや、それ自体が出家としての堕落であった。やがて、
彼は、自分が釈尊に代わって、教団の中心になろうとの野望をいだき始めるのだった。


釈尊は、そんな提婆達多の野望を見破っていた。
弟子の大成を思い、心を痛めたに違いない。
しかし、釈尊が善導しようとしても、彼は聞く耳をもたなかった。


もし、厳しくその姿勢を正そうとすれば、彼は反逆するに違いないと、釈尊は深く思った。


提婆達多は、釈尊の体を気遣っているように見かけながら、教団の統率の権限を、
自分に譲れと、引退を迫ったのである。釈尊は彼が本性を現したことを知った。


釈尊は、今、ここで厳しく彼を弾呵し、一念の狂いを正しておかなければならないと思った。
そうすれば、反逆するであろうことはわかっていた。しかし、
弟子の悪を責めることは、師としての慈悲である。



容赦のない呵責の言葉であった。「人のつばきを食う」とは、提婆達多が
阿闍世の庇護に甘えて、私利私欲を貪ってきたことをさしている。


提婆達多にとって、既に釈尊は怨念の対象でしかなくなっていた。

一方、釈尊は、提婆達多が去って行く姿を見て、思った。
“提婆達多は反逆するにちがいない。彼一人が去って行くことは仕方がない。
しかし、それによって、真面目で純粋な弟子たちが、信仰の道を踏み外したり、
何も知らない民衆が惑わされたりするようなことがあってはならない。”



釈尊は、つらい決断ではあったが、弟子と民衆を守るために、提婆達多と
戦う心を固めた。



「遂に、提婆達多の本性は明らかになった。王舎城で彼の正体を皆に伝え、
こう宣言するのだ。
『彼は、以前の提婆達多ではない。私利私欲を貪る者である。
彼の行動や発言は、仏陀の教えでも、教団の指導でもない。それは彼の我見にすぎない』と。
もし、これに反対の者は、意見を言いなさい。」



釈尊のこの提案に、戸惑う弟子もいた。
提婆達多は釈尊の引退を迫ったが、表面上は、釈尊の健康への気遣いを理由にしていた。
それだけに、まだ、彼の邪悪な本性がわからなかったのだ。



彼らは、事態の深刻さが理解できていなかった。悪と戦うことをためらう、
その感傷が、多くの仏弟子を迷わす結果になることが、わからなかったのだ。
すべての人を成道させようとする、釈尊の大慈悲を知らぬがゆえの、迷いでもあった。




創価学会が 宗門と 決別宣言をしたときも 同じように感じた人たちがいた。
「そこまでしなくても」と・・・。


宗門の邪心に気づかず、いや、気づいていても、保身のため、
まだ、決別することをためらっている人が かわいそうでならない。 


「もっと、楽しく 充実した人生を おくろうよ!」


太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

迫害の構図と 舎衛の三億

『新・人間革命』第3巻 仏陀の章 P209~


釈尊の生涯のなかでも、大きな法難として伝えられているのが、いわゆる
「九横の大難」であり、そのうちの二つは、女性をめぐるスキャンダル事件であった。


その一つが「旃遮女の謗(せんしゃのそしり)」である。
艶やかな衣服をまとって美女が 釈尊のもとを訪ね、
翌日、帰る姿が目撃される。

1か月ほど過ぎた頃、彼女は「釈迦の部屋に泊まった」と言い出す。
それから、お腹が大きくなり、「釈迦の子を身ごもった」と吹聴して歩く。

皆の前で、「釈迦が私を弄んだ」と大声で泣き叫ぶ。
釈迦は「本当か嘘かは、私とあなたしか、わからないことだ」と
落ち着いて話す。それを見て、釈迦に疑いの目を向ける人々もいた。

その時、強風が吹いて 彼女の衣服が煽られ、腹の下に隠していた鉢が転げ落ちる。
事実が判明し、逃げ帰る女。これは、外道の者たちによって、巧妙に仕組まれた罠であった。


もう一つは、「孫陀利の謗り(すんだりのそしり)」という事件だ。
孫陀利という美しい女性が、釈尊のいる祇園精舎に日々通っていた。

その後釈尊と状を通じたと吹聴するようになり、その後、突然姿を消す。
行方不明の彼女を捜索すると 祇園精舎から遺体が発見される。

「釈尊の弟子たちが、釈尊の悪行を隠そうとして殺した!」と噂が流れる。
この流言に 多くの人びとが同調し釈尊の一門は 集中砲火を浴びる。

やがて、真犯人がつかまり、外道たちが、仕組んだことだと判明する。


自分たちが、罪を犯し、それを聖者の犯行のように仕立て上げるー
これは、古来、弾圧に用いられてきた、常套手段といってよい。


もともと、釈尊には、社会的に罪となる行為など、いっさいないだけに、
排斥するには、自分たちが事件を捏造して、讒言によって罪を被せるしか方法はない。
そこに、冤罪による法難の構図がつくられていくのである。


ともあれ、釈尊の教団は、これらの試練を乗り越えて、信仰を深め、
金剛不壊の団結を築き、発展していったのである。



信仰によって、結ばれた人間の絆は、利害によるものではなく、
「信頼」を基盤にした良心の結合である。



なかでも、舎衛城での釈尊の布教は 急速に進んでいった。
舎衛城の周辺には9億の家があったとされる。
一億というのは、現在の十万で、90万の家があったことになる。


釈尊はここで、25年間にわたって説法をしたといわれるが、
仏を見たのは、9億の三分の一であった。


ほかの三分の一は 直接、仏を見ることはなかったが、
仏の偉大さを耳にすることはできた。


しかし、残りの三分の一の3億は、仏について見ることも聞くこともなかった。
この人びとを「舎衛の三億」といった。


本来、この話は、仏法に縁することの難しさを語ったものだが、
“仏を見た人”とは、仏にまみえ、帰依もしくは尊敬した人ととらえることもできよう。


すると、見方を変えれば、舎衛城の三分の二の人が、
仏法の帰依者、あるいは理解者であったということになる。


いわば、「舎衛の三億」とは、仏教流布の一つの模範を示すものといえよう。





太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

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