『新・人間革命』第24巻 灯台の章 323p
日蓮大聖人は「人は食によって生あり食を財とす」、「白米は白米にはあらず・すなわち命なり」と仰せである。山本伸一は、人間の命をつなぐ食の生産に従事する農村部は、人類の生命を支え、守る、極めて需要な部であると、考えていた。
"メンバーの智慧と営農の実証は、先細りの様相を見せ始めた農業の、未来を開く力となる。さらに、それは日本、そして、世界の食糧問題を解決する糸口ともなろう"伸一の農村部への期待は大きかった。伸一の心に呼応するかのように農村部のメンバーは、農村の活性化が、新しい時代を開く力になると自覚し、さまざまな活動を積極的に推進していった。
「農業講座」を開催したり、時代を担う農村青年を育成するために、「全国農村青年講座」が行われている。農村はいずこも、後継者不足が深刻化していた。さらに、減反政策など、農政のひずみが、農家を疲弊させ切っていた。
1974年10月山本伸一は、農業問題に言及した。彼は、食料の大部分を海外に依存する日本の農業政策の在り方の転換を主張したのだ。さらに、11月17日に、本部総会では、食糧危機の問題について、提言を行っている。
総会前日まで、世界食糧会議が開催され、世界的な食糧危機打開への討議が行われていたのである。しかし、その語らいには、国家間の利害と思惑が絡み、食糧危機が国家の取引、政争の具に供されていた。今日死ぬか、明日まで生命が持つかといった人々の苦しみよりも、それぞれの国家利益が優先されていることが、伸一は、残念でならなかった。そこで彼は、食糧問題に取り組む先進諸国の、基本的な姿勢を、まず確認していったのである。
「『何を要求するかではなく、何を与えうるか』に、発想の根本を置くべきであるということであります。駆け引きをし、奪い合うのではなく、まず『何ができるか』『何をもって貢献できるか』ということから、話をはじめなければならない」
次いで伸一は、日本は世界に対して「何をすべきか」を語った。第一にあげたのは「農業技術の援助」であった。根本的な解決は、長期的に見るならば、発展途上国の自力による更生にかかっているからである。第二に農政の在り方を改善し、食料自給率を高めていくべきであると訴えた。
第三に「民衆も、食糧問題を他国のことと傍観視していてはならない」とし、その具体的検討及び実施を、青年の諸君に託したいと思うと話す。
さらに伸一は、世界食糧会議でも提案された「世界食糧銀行」に触れた。「それは、援助の見返りを求めるのではなく、あらゆる国の、あらゆる人びとの生存の権利を回復するというものであり、あえて言えば、人類の幸せと未来の存続に賭けるという『抜苦与楽』の慈悲の理念であります」
「今、必要とされるのは、グローバルな見地に立つこととともに、国家エゴイズムを捨てて、人類の生存という一点に協力態勢をしいていくことに尽きるのであります」
伸一の提案を受け、「食料問題調査会」が設けられ、人類の「食」を守るための運動の準備が、着々と整えられていったのである。日本ユネスコ協会連盟からは、人道的大義に立脚した活動に対し「食糧問題調査会」に感謝状が贈られた。
初の試みとして、山形県の「農村青年主張大会」が開催された。やがて全国に広がっていった。そして、衛星中継による「農漁村ルネサンス体験主張大会」も開催されていくことにになる。
初の農村部大会に伸一はメッセージを贈った。「いつの場合でも、新しい道をつけるためには、誰かが泥まみれになって死闘しなければならないのが、歴史の宿命であります。いかなる苦しみの中でも、前進を止めてはなりません。ひとたびは後退を余儀なくされることがあっても、必ず、次はさらに進むのだという執念を失ってはなりません」
農業の現実は、依然として厳しかった。しかし、参加者は、伸一の呼びかけに応え、"だからこそ、仏法という価値創造の大法を持った私たちが活路を開こう!"と、赤々と闘志を燃え上がらせるのであった。
農村部の抱える大きなテーマが、人口の過疎化のなかで、どうやって農業を再生させるかであるのに対して、一方の団地部は、人口の過密化した団地という居住環境のなかで、潤いのある人間共同体をいかにして作り上げていくかが、大きなテーマであった。農村の過疎、都会の過密――現代社会の抱える大テーマに、創価学会は、真っ向から取り組んでいったのである。
日蓮大聖人は「人は食によって生あり食を財とす」、「白米は白米にはあらず・すなわち命なり」と仰せである。山本伸一は、人間の命をつなぐ食の生産に従事する農村部は、人類の生命を支え、守る、極めて需要な部であると、考えていた。
"メンバーの智慧と営農の実証は、先細りの様相を見せ始めた農業の、未来を開く力となる。さらに、それは日本、そして、世界の食糧問題を解決する糸口ともなろう"伸一の農村部への期待は大きかった。伸一の心に呼応するかのように農村部のメンバーは、農村の活性化が、新しい時代を開く力になると自覚し、さまざまな活動を積極的に推進していった。
「農業講座」を開催したり、時代を担う農村青年を育成するために、「全国農村青年講座」が行われている。農村はいずこも、後継者不足が深刻化していた。さらに、減反政策など、農政のひずみが、農家を疲弊させ切っていた。
1974年10月山本伸一は、農業問題に言及した。彼は、食料の大部分を海外に依存する日本の農業政策の在り方の転換を主張したのだ。さらに、11月17日に、本部総会では、食糧危機の問題について、提言を行っている。
総会前日まで、世界食糧会議が開催され、世界的な食糧危機打開への討議が行われていたのである。しかし、その語らいには、国家間の利害と思惑が絡み、食糧危機が国家の取引、政争の具に供されていた。今日死ぬか、明日まで生命が持つかといった人々の苦しみよりも、それぞれの国家利益が優先されていることが、伸一は、残念でならなかった。そこで彼は、食糧問題に取り組む先進諸国の、基本的な姿勢を、まず確認していったのである。
「『何を要求するかではなく、何を与えうるか』に、発想の根本を置くべきであるということであります。駆け引きをし、奪い合うのではなく、まず『何ができるか』『何をもって貢献できるか』ということから、話をはじめなければならない」
次いで伸一は、日本は世界に対して「何をすべきか」を語った。第一にあげたのは「農業技術の援助」であった。根本的な解決は、長期的に見るならば、発展途上国の自力による更生にかかっているからである。第二に農政の在り方を改善し、食料自給率を高めていくべきであると訴えた。
第三に「民衆も、食糧問題を他国のことと傍観視していてはならない」とし、その具体的検討及び実施を、青年の諸君に託したいと思うと話す。
さらに伸一は、世界食糧会議でも提案された「世界食糧銀行」に触れた。「それは、援助の見返りを求めるのではなく、あらゆる国の、あらゆる人びとの生存の権利を回復するというものであり、あえて言えば、人類の幸せと未来の存続に賭けるという『抜苦与楽』の慈悲の理念であります」
「今、必要とされるのは、グローバルな見地に立つこととともに、国家エゴイズムを捨てて、人類の生存という一点に協力態勢をしいていくことに尽きるのであります」
伸一の提案を受け、「食料問題調査会」が設けられ、人類の「食」を守るための運動の準備が、着々と整えられていったのである。日本ユネスコ協会連盟からは、人道的大義に立脚した活動に対し「食糧問題調査会」に感謝状が贈られた。
初の試みとして、山形県の「農村青年主張大会」が開催された。やがて全国に広がっていった。そして、衛星中継による「農漁村ルネサンス体験主張大会」も開催されていくことにになる。
初の農村部大会に伸一はメッセージを贈った。「いつの場合でも、新しい道をつけるためには、誰かが泥まみれになって死闘しなければならないのが、歴史の宿命であります。いかなる苦しみの中でも、前進を止めてはなりません。ひとたびは後退を余儀なくされることがあっても、必ず、次はさらに進むのだという執念を失ってはなりません」
農業の現実は、依然として厳しかった。しかし、参加者は、伸一の呼びかけに応え、"だからこそ、仏法という価値創造の大法を持った私たちが活路を開こう!"と、赤々と闘志を燃え上がらせるのであった。
農村部の抱える大きなテーマが、人口の過疎化のなかで、どうやって農業を再生させるかであるのに対して、一方の団地部は、人口の過密化した団地という居住環境のなかで、潤いのある人間共同体をいかにして作り上げていくかが、大きなテーマであった。農村の過疎、都会の過密――現代社会の抱える大テーマに、創価学会は、真っ向から取り組んでいったのである。