小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

豊島区

世界広布第二章の暁鐘

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 306P~ 

記念撮影のあと会場に設置された展示を鑑賞した。そこには、伸一が入会したばかりのころに使用していた厨子や、文京支部の支部長代理としての激闘の渦中に、支部員に送った激励の葉書などが展示されていた。

文京支部での日々は、獅子奮迅の闘争の明け暮れであった。彼は徹底して支部員の個人指導を行い、また、毎月の幹部会などでは必ず皆の希望となる新しい目標や指針を示してきた。そして、支部長代理就任から1年三か月後、豊島公会堂で行われた文京支部総会では、2500人の大結集を果たしたのである。

全精魂を注いできたからこそ、懐かしさが込み上げるのである。広布の美しき思い出とは、わが生命に刻印された汗と涙の敢闘なのだ。豊島区での激闘の三日後、伸一はヨーロッパ訪問に出発した。

今回の訪問国は、フランスとイギリスの二か国である。10日には、パリ郊外のバンセンヌの森にある「バルク・フロラル」で、フランスのメンバーが主催して行われた、第二回「第三文明絵画・華展」に出席した。総合テーマは「欧州に太陽を」であった。

"第三文明展"は大好評であった。各マスコミも取り上げた。また、テレビも、この展覧会を紹介した。
翌11日には、パリ大学ソルボンヌ校を訪問し、教授らと懇談したあと、総長と対談した。その際、伸一は、創価大学の"建学の精神"である「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」のモットーを紹介した。

総長は「本当にすばらしい。共感し、感動しました」と頬を紅潮させて語った。創価大学への、世界の知性の称賛であった。まさに、このモットーには、本来、大学のめざすべき使命が集約されていたといえよう。

5月12日、「ヨーロッパ会議」の設立準備会議が開かれた。当時、ヨーロッパの統合化は、社会的にも、未来の大きなテーマとなっていた。したがって、人類の幸福と平和をめざす精神の結合ともいうべき「ヨーロッパ会議」の設立は、次元は異なるものの、時代を先取りする価値ある第一歩であったといってよい。

議長には、川崎が就任した。13日、欧州各国の代表3百人が参加して、パリ本部で行われた世界平和勤行会で、正式に発表された。それは、「世界広布第二章」の暁鐘となったのである。

14日には、イギリスのロンドンに移り、翌日からは、アーノルド・トインビー博士との対談が始まった。トインビー博士は高齢である。博士は、伸一に遺言を託すがごとく、真摯に語り続けた。

17日には、ロンドン市内に開設されたロンドン事務所の開所式に出席したのである。山本伸一は、イギリスの広宣流布のために、幾つかの指針を示した。

事務所といっても二間しかないアパートであった。仏間も20人ほど入ればいっぱいになってしまう小さな部屋である。伸一は、妻の峯子に「この事務所は、国の中心となる場所としては世界で一番、小さいかもしれない。」

「たゆまず、黙々と頑張り続けていくならば、10年先、20年先には、イギリスにも、立派な王城のような会館ができるよ。それが仏法の因果の理法だもの・・・」事実、この時から16年後に、ロンドン郊外のテムズ河畔に、池や古墳、由緒ある館を擁する、広大なタプロー・コート総合文化センターがオープンしている。

26日、パリを出発し、経由地オランダのアムステルダム空港では、飛行機トラブルで4時間ほど出発が遅れた。その時、到着ゲートには、十数人のメンバーが待っていた。オランダのメンバーが伸一が来ることを祈り続けていたと知り、皆で、空港近くの公園へ行き座談会を行う。

オランダにも着実に新しいメンバーが誕生していた。伸一は訴えた。「皆さんこそ、人びとの苦悩の闇を晴らす、希望の太陽なんです。さあ、出発しましょう。広宣流布の旅へ!」

<民衆城の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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豊島区の学生部による日蓮大聖人御書全集索引完成

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 290P~ 

「森ケ崎海岸」と題する歌が披露された。これは、伸一が19歳の時に作った詩に、大田区の男子部員が曲をつけたものであった。森ケ崎海岸は、伸一が当時住んでいた自宅近くの海岸である。

歌が終わると、彼は大きな拍手を送った。「作曲してくださった方を、また、大田の皆さんを讃える意味から、この歌をレコードにしたいと思いますが、いかがでしょうか!」そして、この歌はやがて、日本全国で歌われるようになるのである。

伸一は、自身の生命を振り絞るように、友との語らいを続けた。"わが大田には、広宣流布をけん引する伝統と使命がある。未来へのその新しき流れを、断じて開くのだ!"彼は必死であった。

1973年5月3日、静岡県富士宮市に 富士美術館が完成し、その落成式が挙行された。美術館の開設は、日蓮仏法を根底にした新たな芸術の創造のために、また、民族や国境を越えて、人間と人間の心を結ぶために、伸一がかねてから構想してきたことであった。「広布第二章」を象徴する、創価文化運動の新しき幕が開かれたのだ。

伸一は休む間もなく、豊島区の会員との記念撮影会に出席した。彼は、豊島には強い愛着があった。かつて、戸田城聖が御書講義を行い、毎月の幹部会が開催された豊島公会堂も、区内の池袋にある。また、初代会長の牧口常三郎の自宅も、豊島区の目白である。そして、牧口と戸田が囚われ、牧口が獄死した東京拘置所も、当時の豊島区西巣鴨にあった。

"豊島は権力の魔性による、創価学会の迫害の地である。なればこそ、ここから民衆の凱歌を、高らかに響かせねばならないーーそれが戸田先生のご決意であられた。だから先生は、豊島の地で獅子吼ともいうべき講義をされたのだ"伸一は、この記念撮影会を、その新しき出陣にしようと決めていた。

彼の体調は優れず、控室に着くと、伸一は倒れ込むようにソファに体を横たえた。悪寒がし、めまいさえするのであった。数分が過ぎた。同行の幹部に宣言するように言った。「戦闘開始だ!」

室内に分厚い二冊の本が置いてあった。豊島区の学生部がつくった「日蓮大聖人御書全集索引」である。索引を作るには、一つの用語が御書のどこに出ているかを調べるために御書全文を入念にチェックしなければならない。それには多くの人手を必要とする。

「これまで、未活動だった人のなかにも、人材はたくさんいるはずだ。」そして、区内の学生部員に呼びかけていった。最終的に、作業にかかわったメンバーは百八人に上ったのである。

予算もほとんどなく、安価なわら半紙を買い、マス目を引き、自家製の原稿御用紙を作ることから始めなければならなかった。作業場を座談会場にして友人を招き、果敢に折伏を展開した。

作業は手間取り、完成は無理かと思われたが、皆が徹夜覚悟で、懸命に追い込みをかけた。ついに、記念撮影当日の 朝、完成したのだ。

伸一は、編集に取り組んだ百八人と会い、このメンバーで「豊島区学生教学研究会」の結成を提案。また、このグループは創価学会の教学を後世永遠に受け継いでいく使命を担っている意味から、別名を「継承会」と命名したのだ。

「継承会」のメンバーは、『法華経並開結』や伸一の『御義口伝講義』の文庫本の索引政策に携わったほか、『日蓮大聖人御書辞典』発刊の手伝いをするなど、教学運動の推進に意欲的に尽力していったのである。


伸一は、この5月5日を、豊島区創価学会の前進の節とし、毎年、この日を中心に皆が集い、広布への誓いを新たにしていってはどうかと提案した。さらに、三指針を示したのである。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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