『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 106P~
< 創価大学の章 開始 >
戸田が伸一に、最初に大学設立の構想を語ったのは、忘れもしない1950年(昭和25年)11月16日のことであった。伸一、22歳の晩秋である。
それは、戸田の経営する東光建設信用組合が経営不振から営業停止となり、戸田が学会の第5回総会で、正式に理事長を退いて4日後の、まさに窮地のさなかのことであった。「人類の未来のために、必ず創価大学をつくらねばならない。しかし、私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ。世界第一の大学にしようじゃないか!」
最悪の事態のなかで、師は弟子に、大学設立の希望を語り、その実現を委ねたのである。伸一は、この言葉を遺言として受け止め、深く、深く、心に刻んだ。
戸田の胸の中でも、学校創立の構想は、年とともに具体化していった。八王子方面を通りかかった時、戸田は、伸一に言った。「いつか、この方面に創価教育の城をつくりたいな」翌年戸田は、力強く宣言した。「幼稚園から大学まで、一貫教育の学校をつくる。必ず、日本一のがっこうにするよ!」
戸田は、教育の城の実現を見ずして世を去った。創価大学の創立は、牧口常三郎、戸田城聖の念願であり、三代にわたる師弟の精神の結晶として、伸一が断じて成し遂げねばならぬ、一大事業であった。戸田が彼に、その構想を語って以来21年、伸一は、大学設立を実現するため、全生命を注いできたのである。
大学の場所は、豊かな緑に恵まれた広々としたキャンパスで、富士山が見える土地で、都市の喧騒を離れ、冬は少し寒いぐらいで、都心からの交通の便も良い所で、さらに八王子は夕焼けの美しさにも魅せられた。
八王子という名前も、法華経序品に、「日月灯明仏」が出家前王であり、八人の王子がいて、八人の王子が世界をリードしていったと説かれている。伸一は、その八王子という名の場所に大学が建つことに、深い意義を感じた。多くの人材を輩出し、人類の幸福と平和を築く創価大学の使命を、象徴しているように思えてならなかった。
学校建設にあたり、資金の捻出に苦心した伸一は、自分が原稿を書き 働きに働いて資金をつくろうと決意した。自分の全印税7億円を投入、また、学会の出版物による学会収益の25億円も、大学の設立に使われ、学会からの寄付金も投入されたがまだ、足りず、寄付金を公募した。
そして12億円が集まり、創価大学が設立できたのである。寄付をしてくれた方々のなかには質素な暮らしをしている学会員も少なくなかったが、世界の平和を築くリーダーを育成する大事業に参加できることを誇りとし、真心の寄付をしてくれた多くの真心によって建てられたのが創価大学である。
入学試験が行われると募集に対して、文学部では、24・5倍、他の学部でも12倍以上の、新設校としては異例の高い競争率となった。それを聞くと伸一は、「ありがたいね。しかし、そのなかの多くの人が不合格になってしまうんだな。そう思うと、かわいそうでならない」と顔を曇らせた。できることなら、全員に合格してもらいたいというのが、伸一の真情であったのである。
1971年 3月16日、落成開学祝賀会が行われたが、伸一は、出席しなかった。伸一は、大学を創立するが、あとは、学長、理事長をはじめ、大学関係者に、すべてまかせるつもりであった。
創価大学には、それぞれの分野で第一人者といわれる、錚々たる学者が集ってくれた。皆、山本伸一の教育理念、教育哲学に共感し、創価大学に教育の理想を見いだし、勇んで集ってくれたのである。
太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋
< 創価大学の章 開始 >
戸田が伸一に、最初に大学設立の構想を語ったのは、忘れもしない1950年(昭和25年)11月16日のことであった。伸一、22歳の晩秋である。
それは、戸田の経営する東光建設信用組合が経営不振から営業停止となり、戸田が学会の第5回総会で、正式に理事長を退いて4日後の、まさに窮地のさなかのことであった。「人類の未来のために、必ず創価大学をつくらねばならない。しかし、私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ。世界第一の大学にしようじゃないか!」
最悪の事態のなかで、師は弟子に、大学設立の希望を語り、その実現を委ねたのである。伸一は、この言葉を遺言として受け止め、深く、深く、心に刻んだ。
戸田の胸の中でも、学校創立の構想は、年とともに具体化していった。八王子方面を通りかかった時、戸田は、伸一に言った。「いつか、この方面に創価教育の城をつくりたいな」翌年戸田は、力強く宣言した。「幼稚園から大学まで、一貫教育の学校をつくる。必ず、日本一のがっこうにするよ!」
戸田は、教育の城の実現を見ずして世を去った。創価大学の創立は、牧口常三郎、戸田城聖の念願であり、三代にわたる師弟の精神の結晶として、伸一が断じて成し遂げねばならぬ、一大事業であった。戸田が彼に、その構想を語って以来21年、伸一は、大学設立を実現するため、全生命を注いできたのである。
大学の場所は、豊かな緑に恵まれた広々としたキャンパスで、富士山が見える土地で、都市の喧騒を離れ、冬は少し寒いぐらいで、都心からの交通の便も良い所で、さらに八王子は夕焼けの美しさにも魅せられた。
八王子という名前も、法華経序品に、「日月灯明仏」が出家前王であり、八人の王子がいて、八人の王子が世界をリードしていったと説かれている。伸一は、その八王子という名の場所に大学が建つことに、深い意義を感じた。多くの人材を輩出し、人類の幸福と平和を築く創価大学の使命を、象徴しているように思えてならなかった。
学校建設にあたり、資金の捻出に苦心した伸一は、自分が原稿を書き 働きに働いて資金をつくろうと決意した。自分の全印税7億円を投入、また、学会の出版物による学会収益の25億円も、大学の設立に使われ、学会からの寄付金も投入されたがまだ、足りず、寄付金を公募した。
そして12億円が集まり、創価大学が設立できたのである。寄付をしてくれた方々のなかには質素な暮らしをしている学会員も少なくなかったが、世界の平和を築くリーダーを育成する大事業に参加できることを誇りとし、真心の寄付をしてくれた多くの真心によって建てられたのが創価大学である。
入学試験が行われると募集に対して、文学部では、24・5倍、他の学部でも12倍以上の、新設校としては異例の高い競争率となった。それを聞くと伸一は、「ありがたいね。しかし、そのなかの多くの人が不合格になってしまうんだな。そう思うと、かわいそうでならない」と顔を曇らせた。できることなら、全員に合格してもらいたいというのが、伸一の真情であったのである。
1971年 3月16日、落成開学祝賀会が行われたが、伸一は、出席しなかった。伸一は、大学を創立するが、あとは、学長、理事長をはじめ、大学関係者に、すべてまかせるつもりであった。
創価大学には、それぞれの分野で第一人者といわれる、錚々たる学者が集ってくれた。皆、山本伸一の教育理念、教育哲学に共感し、創価大学に教育の理想を見いだし、勇んで集ってくれたのである。
太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋