小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

衆議院選挙

中道政治の公明党 大綱

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P331~

公明党の大綱として、『中道政治で平和と繁栄の新社会』の建設をモットーに、進む。そのために第一に『清潔な民主政治の確立』第二に『大衆福祉で豊かな生活』第三に『戦争のない平和な世界』をめざし、それぞれに具体的な実現目標を掲げた。

伸一は、中道政治について、「仏法の中道主義を根底にし、その生命哲学にもとづく、人間性尊重、慈悲の政治である」と論じた。

中道主義によって築かれる社会とは、「信頼と調和」を基本理念とする新しき社会であることを述べた。
そして国家と国家の抗争も、国内のさまざまな対立も、その根底にあるものは常に相互不信であり、それらを超えてゆく指標こそ、「信頼」と「調和」の社会であることを訴えた。

そのあと、彼が目標として示した、「福祉経済体制」などの内容を論じて終わったが、この講演は、公明党の進むべき道を示しただけでなく、日本の政治の進路を照らし出すものとなった。

1月29日衆院選の投票が行われ、公明党は、32人の候補のうち、25人が当選し、一躍衆議院で第4党となったのである。

伸一は、公明党の幹部に、戦いはこれからだと話し、「公明党の議員への懐柔策もあるだろう、少しでも私腹を肥やそうなどという野心があれば、全部、利用される学会や党を私利私欲のために利用しようという魂胆のある者は、やがて、必ず落ちていくでしょう。もし、一生懸命に応援してくれる学会員を、また、社会の信頼を裏切るような、堕落した議員がいたなら、即刻、党から叩き出すべきです。」

「党として、革新政党と手を結ぶこともあろうし、保守政党と協力することもあるかもしれない。野党の立場で、与党を正すこともあれば、政権に加わって、改革を推進することもあるかもしれない。あるいは政策を実現するためには、妥協が必要な場合もあるでしょう。さまざまな選択はあるが、根本は民衆の幸福のためであるということを、絶対に忘れてはならない。」

「さらに、政権に参画したとしても、徹して権力の魔性とは戦い抜くことです。そうでなければ、公明党の存在意義はなくなってしまう」

伸一は、いよいよ、本当の意味で、党が独り立ちしていく時がきたのだと思った。

伸一は、21世紀に思いを馳せた。21世紀を断じて、「滅亡の世紀」にしてはならない。絶対に、「生命の世紀」にしなくてはならない。公明党の掲げる中道政治、すなわち人間主義の政治が、日本の潮となり、世界の政治哲学の潮流になるかどうかに、21世紀はかかっていると、伸一は考えた。

1967年(昭和42年)、超多忙ななか、伸一は、富士短期大学の卒業資格を取得するためのリポートに取り組んでいた。伸一は、以前、大世学院の政経科の夜間に通っていた。院長の高田から、政治学などを教わった。

だが、戸田の事業が行き詰まり、夜学に通えなくなり、休学した。そのかわり、戸田が一対一の個人授業をしてくれたのだ。その後大世学院は、富士短期大学になり、山本伸一に対して、卒業のためのリポートを提出してはとの強い勧めがあったのだ。

伸一は、亡くなった学院の高田院長の心に報いることになると考え、応じた。リポートは、10のテーマで、400字詰め原稿用紙で、約100枚となった。こうして、単位を取得し、彼は富士短期大学経済科の卒業となったのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


小選挙区制阻止の デモ

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P325~

青年たちは、一党による権力の維持と、公明党の衆議院進出を阻むための党略であると見抜き、“小選挙区制”粉砕のデモを行いたいと申し出た。

だが、山本伸一は慎重であった。学会が、選挙の支援活動以外で、政治にかかわる行動をすることは、できる限り避けたかったのである。伸一は考え悩んだ。

東西両陣営の対立が、政界にそのまま持ち込まれ、保守と革新の対立の構図となり、真の意味での議論も、話し合いもなされていない、日本の政治の現状を憂慮していた。この保守と革新の溝を埋め、硬直化した事態を打開していくには、自民党、社会党という二つの極に対して、さらに新たな”第三の極”が必要になると、彼は考えていたのである。

そして、その役割を担いうる政党こそ、仏法の中道主義を理念とした公明党であるというのが、伸一の確信であった。しかし、“小選挙区制”になり、公明党の衆議院への進出が阻まれてしまえば、その道をつくった学会としても、見過ごすわけにはいかない問題である。

これまでの自民党議員の発言などから考え、“小選挙区制”が採用され、一党支配が永続化していけば、軍事大国への道を踏み出そうとすることが懸念された。“もしも、今、黙って、何もせずにいれば、取り返しのつかないことになるにちがいない”彼は、深く決意した。

青年部総会で伸一は“小選挙区制”問題に言及し、その危険性を指摘したあと、現とした口調で訴えた。「今、学会が動かなかったら、日本はどうなるか。もし、戦争に巻き込まれたら、民衆はどうなるか。それで、結論として、来年、
“小選挙区制”を強行しようとするのであれば、東京で五十万、全国で三百万の、未曽有のデモ行進をしようと思いますが、いかがでしょうか!」

「また、その時は、私がデモの先頭を切ります!」
社会のあらゆる階層、年代、職業の、八百万を超える人びとによって構成される学会は、日本の民衆の一大潮流といってよい。その学会員が怒りをもって、“小選挙区制”の粉砕に立ち上がったのだ。

虚勢や、ハッタリではなく、三百万人のデモが、日本列島を揺るがすことは間違いない。この同士の憤りと、粉砕への鉄の意思は、世論を目覚めさせた。

自民党首脳は、それでもなおかつ選挙区制を変えようとすれば、民衆の支持を失い、党の存在の基盤を根底から揺るがす結果になりかねないと、考え始めたようであった。

1966年、(昭和41年)自民党首脳は、政治制度の変更を、当面、見送る意向を固めたことが、報道されるようになった。12月27日衆議院が解散し、それまでの中選挙区制のまま総選挙が行われることになったのである。

結果的に、選挙区制改悪のもくろみは、一旦頓挫し、学会の抗議のためのデモが行われることはなかった。

公明党の衆議院進出に対する他宗教の反対は、極めて激しいものがあった。既成仏教の団体が大会を開き、「創価学会対策の急務とその決め手」について協議が行われている。ここで打ち出された具体的な対策のなかには、学会を”邪教”として禁止することなどを、時期を見て、国会及び政府に誓願することが提案されていた。権力を動かしての学会弾圧の画策である。権力を動かしての学会弾圧の画策である。

こうした激しい攻撃の礫のなかで迎えた、初の公明党の衆院選挙であったのである。
山本伸一は、衆院選挙を迎えるにあたって、支援活動に励む会員が、公明党の進むべき方向性について、より深く理解し、さらに自身を持てるようにしようと心を砕いた。

そして、新春の幹部会の席上、公明党の創立者として、党のビジョンを明らかにしたのである。



太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


躍進の年

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P320~

<躍進の章 開始>

勢いは勢いを呼ぶ。燃え上がる炎が、大風にあえば、ますます燃え盛るように、勢いある前進は逆境を跳ね返し、困難の壁を打ち砕く。

目覚め立った民衆の、怒涛のごとき社会建設の潮流を、舞い踊るがごとき歓喜の行進を、いったい誰がさえぎれるというのか。いかなる権力も、時代を押し返すことはできない。それが歴史の教訓である。

1966年(昭和41年)「黎明の年」11月末、学会は念願の会員600万世帯を達成し、610万世帯になっていた。山本伸一が64年に次の7年間の目標として示してから2年半で、180万世帯の拡大を成し遂げたことになる。

そして、迎えた67年「躍進の年」は、伸一の会長就任7周年の佳節を刻む年であった。皆が燃えていた。自分たちが一生懸命に動いた分だけ、未聞の広宣流布の扉が確実に開かれ、時代が、社会が、大きく変わっていく手ごたえを、誰もが感じていたからだ。

皆、自己自身が広布推進の主役であることを深く自覚し、新しき年の大勝利へ、ますます情熱を燃え上がらせていたのである。

「躍進の年」を迎えた、伸一の決意は強く、固く、深かった。彼はこの一年を、広宣流布の黄金の飛躍台にしなければならないと、心に決めていたのである。

時代は、万人に平等に与えられている。しかし、大願を果たそうとする者にとっては、時はあまりにも短い。彼には、時は「光の矢」のように感じられた。だから、一瞬一瞬が真剣勝負であった。常に「いつ倒れても悔いはない」「今、倒れても悔いはない」と言い切れる実践を自らに課してきた。

「不惜身命」とは、「臨終只今」の覚悟で、今を、今日を、明日を、戦い抜く心である。

第一線で活躍する同志を、仏を敬うがごとく讃え、励まし、勇気づけることである。山本伸一は、大躍進のスタートを飾るために、この1月は、全国を駆け巡ろうと、念頭からフル回転で動き始めた。

1月9日に関西を訪問したのをはじめ、北海道、九州、中部、千葉、中国、静岡、神奈川などを駆け巡り、二週間ほどの間に国内をほぼ一巡したのである。瞬時の休みもない激闘であった。

1月29日は、衆議院選挙の投票日であった。公明党にとっては、初の衆院選挙であった。今回衆議院が解散した背景には、「黒い霧事件」といわれる、閣僚や代議士の職権乱用、汚職など、不正への疑惑が、相次いで浮上したことがあった。

この政治不信をぬぎ去り、本来の議会政治を確立し、政界を浄化することができるかどうかが、今回の総選挙の最大のテーマといえた。それだけに、政界浄化に積極的に取り組み、数多くの実績を上げてきた公明党の、衆議院進出に対する期待は、会員だけでなく、社会にも大きかった。

しかし、公明党の衆議院進出に、政界も、宗教界も脅威を抱き、党を誕生させた創価学会にさまざまな圧力を加えてきた。脅迫とも思える強圧的な態度や、懐柔策をちらつかせながら、山本伸一に接触してくる、いわゆる”大物政治家”もいた。

学会本部への脅しや嫌がらせの電話、手紙も、後を絶たなかった。
その一方、公明との結成前後から、衆議院の選挙制度を変えて、単純小選挙区制を採用しようとする自民党政府の動きが本格化し始めていったのである。

単純小選挙区制は、当選者が一人であるため、多くの選挙区で、一位になる可能性が高い、第一党、大政党にとっては有利このうえない制度である。

二位以下の候補者に投じた票は、いっさい議席につながることなく、“死票”となってしまい、有権者の意思が反映されにくい制度といえる。

この動きに敏感に反応したのは青年部であった。



太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


政治を監視せよ

『新・人間革命』第2巻 民衆の旗 p273~


第29回衆議院総選挙が行われた。
結果、自民が300議席を確保し、第二次池田隼人内閣は、長期安定政権の構えを見せる。
一方、社会党も 23議席増やすが、野党全体としては、3分の1を やや上回る程度だった。


山本伸一は、選挙結果を見ながら、日本の政治の行方を憂えた。
それは、中間的な立場に立つ政党が敗退し、あの新安保条約をめぐっての
自社両党の対決の構図が、さらに浮き彫りにされた結果となったからだ。


この総選挙の焦点は、議会制民主主義の立て直しにあったが、
そもそも、この混乱の最大の要因は、自社両党が初めから党利党略に固執し、
本当の意味での討議、審議が行われず、
歩み寄りも、合意も、まったく見られなかったことにあった。


案件について、異なる意見があるのは当然である。
審議の決定は、最終的に多数決によらざるをえない。


それゆえに、党利党略を超えて、国民を第一義とし、
合意を求めての審議を積み重ねていくことが、何よりも重要になる。
だが、この選挙結果で自身を強めた自社両党は、その姿勢を改めそうにもなかった。


そうであれば、国民は政治への不信をますます深めていくことになろう。


山本伸一は、いかなる政党が本当に民衆のための政治を実践しているかを、厳しく見ていた。
彼は「青年は心して政治を監視せよ」との戸田城聖の遺言を、
瞬時も忘れたことはなかった。


学会は、政治の分野にあっても、庶民、民衆の利益と繁栄を第一に考える、人格高潔にして
有能な人材を、地方議会と 参議院に送り出してきた。
人びとの暮らしに直結し、生活の便宜を図る上では、地方議会の果たす役割は大きかったし、
国政を厳しくチェックするうえでは、参議院への進出は重要な意味を持っていた。。


しかし、民衆のための政治の実現を考えるなら、いつの日か、
国政の根幹となる衆議院に、人材を送り出すことも必要ではないかーと、伸一は思った。


ともあれ、政治が守るべき根本は、常に民衆であることを、決して忘れてはならない。


太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

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