『新・人間革命』第27巻 正義の章 114p~
さらに寺院は、葬儀などの法事、儀式を執り行うことによって、布施、供養を得て、富を手にしていく。また、檀信徒を下に見る僧侶中心主義に陥り、葬儀や先祖供養などの儀式を重視する葬式仏教へと、仏教そのものを変質させていった。
僧侶の妻帯が認められると、それを受け入れ、世俗にまみれていったのである。宗門も例外ではなかった。明治に入って条件付きながら信教の自由が認められても、僧侶が折伏・弘教に奔走する姿は、ほとんど見られなかった。
牧口常三郎は、日蓮仏法に深く感銘し、日蓮正宗信徒として信仰の一歩を踏み出す。しかし、牧口は、既成仏教化した宗門の信心の在り方、つまり“寺信心”に甘んじようとしたのではない。本来の日蓮大聖人の教えに立ち返り、その御精神のままに、真正の日蓮門下の大道を歩もうとしたのである。
「仏教の極意たる『妙法』が万人必然の生活法則たることを、科学的に実験証明しよう」ーーそれが、牧口常三郎の企図であった。
さらに、牧口は、こう述べている「失礼ながら僧侶方の大概は御妙判と称して御書やお経文によつて説明はして下さるが、現証によって説明してくださらないのを遺憾とする」実生活において悩み苦しむ人に徹して関わろうとせず、苦悩を乗り超える道が仏法にあることを、大確信をもって訴えられぬ僧侶への、鋭い指摘といってよい。
また、彼は、仏法の法理の上から、魔が競い起こらぬ宗門の信心の在り方に疑問を投げかけている。本当の信心があれば、魔は怒涛のごとく競い起こるものであるからだ。
宗門も含め、日本の仏教各派が宗論を回避し、教えの高低浅深を問うことなく、もたれ合っていた時代のなかで牧口は、宗教の検証に着手し、宗教革命の烽火を上げたのである。牧口の起こした創価教育学会の宗教運動は、長く民衆を支配してきた僧侶によるものではなく、在家、民衆の手による宗教革命であった。
牧口は、日蓮正宗も、時代の変遷のなかで、儀式主義に陥り、葬式仏教化していたことに、強い危惧をいだいていた。それでは、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を成就していくことはできないからだ。
後に牧口は、次のように語っている。「私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此処に創価教育学会の特異性があるのであります」端的に言えば学会は、人びとの幸福生活を確立することによって、御本尊の力、大聖人の仏法の力を実証し、広宣流布を推進してきたのだ。
しかし、学会が宗教の教えには、高低浅深があり、人生の根本法則である正法への信・不信が、生活上に価値(功徳)・反価値(罰)、幸・不幸の現証もたらすことを訴えていくと、宗内からは強い反発が起こった。葬式仏教となった他宗派に同化して、折伏精神を失っていた僧たちは、大聖人の仰せ通りに、仏法の王道を突き進むことを恐れていたのである。
広宣流布を忘れ、その実践を失えば、難が起こることはない。だが、そうなれば、大聖人の御精神を、魂を、捨て去ることになるのだ。それを物語る驚くべき出来事が起こった。いわゆる「神札事件」である。国家神道を精神の支柱にして、戦争を遂行しようとする軍部政府は、思想統制のため、天照大神の神札を祭るよう、総本山に強要してきた。
そして、法主・鈴木日恭ら立ち合いのもと、「学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか」との話があったのだ。宗門は、既に神札を受けることにしたという。軍部政府の弾圧を恐れ、迎合したのである。
結局、不惜身命の決意で正法正義を守り抜いたのは牧口と戸田の師弟だけであった。牧口と戸田の、死身弘法の大精神が、未来永劫に脈動し続けていってこそ、創価学会の魂は受け継がれ、広宣流布の清流が、大河となって広がっていくのだーーそう山本伸一は痛感していた。
人間の一念、精神にこそ、広布前進の原動力がある。ゆえに伸一は、諸会合などで、両会長の闘争と精神を訴えぬくとともに、末法広宣流布のうえで、二人が果たした甚深の意義についても、さまざまな角度から言及していった。そして、両会長の遺徳を宣揚するとともに、その精神と実践を伝え残し、継承していくために、全国の主要会館等に恩師記念室を設置するよう提案し、推進してきた。
日本の既成仏教は、長い間、政治権力に与してきた。江戸時代になると、寺請制度によって大きな力を得た。各寺院の発給する寺請証文は、いわば、戸籍の役割を担い、徳川幕府のもとで民衆の支配機構として絶大な権力を振るうようになっていった。
人間の一念、精神にこそ、広布前進の原動力がある。ゆえに伸一は、諸会合などで、両会長の闘争と精神を訴えぬくとともに、末法広宣流布のうえで、二人が果たした甚深の意義についても、さまざまな角度から言及していった。そして、両会長の遺徳を宣揚するとともに、その精神と実践を伝え残し、継承していくために、全国の主要会館等に恩師記念室を設置するよう提案し、推進してきた。
日本の既成仏教は、長い間、政治権力に与してきた。江戸時代になると、寺請制度によって大きな力を得た。各寺院の発給する寺請証文は、いわば、戸籍の役割を担い、徳川幕府のもとで民衆の支配機構として絶大な権力を振るうようになっていった。
さらに寺院は、葬儀などの法事、儀式を執り行うことによって、布施、供養を得て、富を手にしていく。また、檀信徒を下に見る僧侶中心主義に陥り、葬儀や先祖供養などの儀式を重視する葬式仏教へと、仏教そのものを変質させていった。
僧侶の妻帯が認められると、それを受け入れ、世俗にまみれていったのである。宗門も例外ではなかった。明治に入って条件付きながら信教の自由が認められても、僧侶が折伏・弘教に奔走する姿は、ほとんど見られなかった。
牧口常三郎は、日蓮仏法に深く感銘し、日蓮正宗信徒として信仰の一歩を踏み出す。しかし、牧口は、既成仏教化した宗門の信心の在り方、つまり“寺信心”に甘んじようとしたのではない。本来の日蓮大聖人の教えに立ち返り、その御精神のままに、真正の日蓮門下の大道を歩もうとしたのである。
「仏教の極意たる『妙法』が万人必然の生活法則たることを、科学的に実験証明しよう」ーーそれが、牧口常三郎の企図であった。
さらに、牧口は、こう述べている「失礼ながら僧侶方の大概は御妙判と称して御書やお経文によつて説明はして下さるが、現証によって説明してくださらないのを遺憾とする」実生活において悩み苦しむ人に徹して関わろうとせず、苦悩を乗り超える道が仏法にあることを、大確信をもって訴えられぬ僧侶への、鋭い指摘といってよい。
また、彼は、仏法の法理の上から、魔が競い起こらぬ宗門の信心の在り方に疑問を投げかけている。本当の信心があれば、魔は怒涛のごとく競い起こるものであるからだ。
宗門も含め、日本の仏教各派が宗論を回避し、教えの高低浅深を問うことなく、もたれ合っていた時代のなかで牧口は、宗教の検証に着手し、宗教革命の烽火を上げたのである。牧口の起こした創価教育学会の宗教運動は、長く民衆を支配してきた僧侶によるものではなく、在家、民衆の手による宗教革命であった。
牧口は、日蓮正宗も、時代の変遷のなかで、儀式主義に陥り、葬式仏教化していたことに、強い危惧をいだいていた。それでは、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を成就していくことはできないからだ。
後に牧口は、次のように語っている。「私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此処に創価教育学会の特異性があるのであります」端的に言えば学会は、人びとの幸福生活を確立することによって、御本尊の力、大聖人の仏法の力を実証し、広宣流布を推進してきたのだ。
しかし、学会が宗教の教えには、高低浅深があり、人生の根本法則である正法への信・不信が、生活上に価値(功徳)・反価値(罰)、幸・不幸の現証もたらすことを訴えていくと、宗内からは強い反発が起こった。葬式仏教となった他宗派に同化して、折伏精神を失っていた僧たちは、大聖人の仰せ通りに、仏法の王道を突き進むことを恐れていたのである。
広宣流布を忘れ、その実践を失えば、難が起こることはない。だが、そうなれば、大聖人の御精神を、魂を、捨て去ることになるのだ。それを物語る驚くべき出来事が起こった。いわゆる「神札事件」である。国家神道を精神の支柱にして、戦争を遂行しようとする軍部政府は、思想統制のため、天照大神の神札を祭るよう、総本山に強要してきた。
そして、法主・鈴木日恭ら立ち合いのもと、「学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか」との話があったのだ。宗門は、既に神札を受けることにしたという。軍部政府の弾圧を恐れ、迎合したのである。
太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋