小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

花卉栽培

アルゼンチンとの 心の絆

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P165~

アルゼンチンは、白谷竹男を中心に、大木田和也・光子という若い力が団結し、メンバーも120世帯を超えるまでに至った。

春木らは、アルゼンチンの組織の新布陣が発表された。婦人部長に小堀代志江が就任した。彼女は入会1年ほどであったが、子どもの喘息を克服するなど、幾つもの体験を積んでいた。

春木は、山本会長の伝言を皆に伝えた。「日本とアルゼンチンは、地球の反対側にあり、遠く離れていますが、広宣流布に生き抜く人の心は、私と一体です。私の心のなかには、常に皆さんがいます。皆さんの心のなかにも、私がいることでしょう。私たちは、ともどもに不二の同志として、明るく、仲良く、誇らかに、この世の使命を果たし抜いていこうではありませんか。」

この伝言に、集ったメンバーの多くは涙した。ほとんどの人たちが、同志も数少ないなかで、寂しさ、悲しさに耐え、山本会長を思い、歯を食いしばりながら、広宣流布に邁進してきたからである。

アルゼンチンの幹部たちは、相談の末、ブラジルの山本会長を尋ねることにした。そのことを聞いていた伸一は、会合が終わると、小堀の名を呼び、記念の念珠を 渡しながら、「アルゼンチンの婦人部を頼みます!リーダーというのは、一人立つ、”勇気の人”でなければならない。そして、みんなと仲良く進むことができる“調和の人”でなければなりません。ご苦労をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」と真摯で、誠実な言葉に小堀は感動を覚えた。

ロビーで待機していた大木田を見つけると伸一は 一緒に部屋に入り、手紙で励まし続けてきた青年が、元気に自分の前に現れたことが、嬉しくて仕方がなかった。

「人間の一生というのは、短いものだ。その一生をなんのために使っていくかで、人生の価値は決まってしまうよ。君はアルゼンチンにあって、生涯、広布のために生き抜いてほしい。私に代わって、この国の人たちを幸せにしてほしいんだ。」

この日、大木田の心は決まった。“俺の人生は決まった。山本先生とともに広宣流布に生きる。そして、いつか先生を、アルゼンチンにお呼びしてみせる!”

アルゼンチンに帰った彼は、成功していた花卉栽培をスッパリとやめ、花の販売の仕事を始めた。メンバーのために、思う存分に働くには、郊外ではないく、皆と連携のとりやすい、より都心に近い所に住もうと考えたからだ。最初は、見習いから仕事を始め、委託販売業者として独立した。

大木田は、広宣流布のためにアルゼンチン中を駆け巡り、翌年、アルゼンチンに総支部が結成されると、やがて総支部長になり、光子は婦人部長とあって活躍していくことになる。だが、山本伸一のアルゼンチン訪問という念願が実現するには、実に27年後まで、待たなければならなかった。

その間、伸一は、アルゼンチンの大学関係者や芸術家、駐日大使、また、大統領と会見するなど、日亜両国の友好と教育・文化交流に全力を注いできた。同時に、メンバーの奮闘により、仏法理解の輪は大きく広がり、学会の進める平和と教育の運動が高く評価されていった。

そして、1990年には、アルゼンチン政府から、最高栄誉の一つである「大十字五月勲章」が、山本伸一に贈られ、各大学からの顕彰も相次ぐことになる。

春木征一郎一行は、パラグアイのチャベスへ激励に向かった。南部のアルゼンチン国境の都市エンカルナシオンの北東16キロから始まるチャベス移住地や、隣接のフラム移住地、北東へ60キロほどのピラボ移住地などに入植した日本人移住者は、割り当てられた土地から木を切りだし、柱を立て、自分たちで家を建てるところから始めなければならなかった。

この移住者のなかに、学会員がいた。そうしたメンバーが、核となってそれぞれの移住地で、活動が開始されていったのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

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アルゼンチンの一粒種

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P157~

大木田にとってアルゼンチンは憧れの地だった。アルゼンチンで花卉栽培に成功したという知人から、物資が送られてきて、いつか自分も豊かなアルゼンチンで 大農園をやってみたいとおもい、渡航のため、神奈川県で、花卉栽培の技術を学んでいた時に、母の勧めで入会した。

その翌年、父の友人の家に住み込み、一人で信心に励んだ。創価学会の人を知らないかと探すと、「創価学会は暴力宗教だ」とか、「創価学会員だというと差別される」と言われた。

そんな時、「苦しかったら学会本部の山本総務に手紙を書き、指導を受けなさい」という先輩の言葉を思い出し、返事は来ないだろうとおもいつつ、自分の思いを手紙に書いて出した。

ほどなく、伸一から、返事がきた。大木田は感激した。“俺のために、山本総務が手紙をくださった。申し訳ない限りだ。必ず勝ってこの激励に応えよう!”

さらに、会長就任直前の4月22日にも山本伸一から励ましの便りが届いた。伸一が第三代会長に就任する直前である。彼は、単身、アルゼンチンに渡った一青年のことが、頭から離れなかったのである。

世界広布という崇高にして壮大な作業もまた、そこに生きる一人の人間から始まる。ゆえに、その一人を力の限り、命の限り、励まし、応援することだ。大木田は、伸一の手紙を宝物のように大切にし、何度も何度も読み返しては決意を新たにしてきた。

仏法対話に、全精魂を注ぐが、二年たっても信心する人は誰もいなかった。しかし、3人のメンバーがいることがわかり、早速訪問した。入会の古い白谷に 大木田は期待していたが、白谷は、学会員としての自覚が乏しく、勤行もやっていないほど、信心とは無縁であった。それでも、大木田が何度も通ううちに、白谷は信心に目覚めていった。

大木田は、仕事の面でも奮闘し、広宣流布のためには、社会で勝利の実証を示さなければならないと、花卉栽培の温室を立て独立して仕事を始めた。人一倍研究と工夫を重ね、温室を6棟にまで増やし、彼の研究してきたカーネーションが、品評会で1位の栄冠に輝き、地元紙にも紹介された。

移住から5年、大木田は、アルゼンチン社会にあって、見事な信心の実証を示し始めたのだ。そのころから、周囲の人たちの学会への評価が大きく変わり、彼の語る仏法の話に皆が耳を傾けるようになっていった。一方、白谷も、目覚ましい信心の成長を遂げていった。

そして、1963年(昭和38年)地区が誕生すると、白谷は地区部長になり、翌年には支部が結成され、支部長となった。メンバーは面倒見のよい人柄の 彼を慕い、仲の良い、和気あいあいとした組織がつくられていった。

大木田と結婚した光子は、東京で本部職員をしていた。実際にアルゼンチンでの生活が始まると、驚くことばかりだった。電気もない農村地帯で、全く経験のない農作業も手伝わなくてはならない。学会活動に出るといってもバスもなく、夫のスクーターに乗せてもらって出かけるしかなかった。

涙が出る時は日本を発つ前に、山本伸一が指導してくれた言葉を思い出し、懸命に学会活動に励んだ。
東京で女子部の幹部であった彼女にとって、アルゼンチンのメンバーの活動は、のんびりしているように見えた。光子が懸命になればなるほど、皆の心が離れていった。

“私のどこがいけないのだろう”彼女は必死になって唱題し、自分が日本での活動を基準にして、すべて、そこに当てはめようとしていたことに気づく。自分本位だったと反省し、アルゼンチンの現実と向き合い、メンバー一人ひとりの苦悩を解決していくには、喜んで活動できる組織にするにはどうすればよいかを考え、個人指導を心がけ、行動した。

地道な、粘り強い、対話と激励の繰り返しこそが、すべてを変えていく原動力なのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

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