『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 166p

1982年(昭和57年)1月10日、山本伸一たちは、秋田空港に到着した。「こんな真冬に行かなくても」という、周囲の声を退けての、約10年ぶりの秋田指導である。彼が、秋田行きを決行したのは、「西の大分」「東の秋田」と言われるほど、同志が正信会僧から激しい迫害を受けてきたからであった。

伸一は、秋田文化会館へ向かった。しばらく走ると、ガソリンスタンドの前に40人ほどの人影が見えた。「学会員です。皆、頑張ってくれました」伸一は、車を止めるように頼み、求道の友の方へ歩き始めた。革靴に、雪が解けた路面の水がしみていった。

「寒いところ、ご苦労様!」皆が歓声をあげた。子どもの頭をなで、壮年たちと握手を交わしていく。仕事のことや健康状態などを報告する人もいる。“街頭座談会”であった。そして、一緒に記念のカメラに納まった。

車が走り出して、しばらくすると、道路わきに立つ数人の人影があった。また車を止めてもらい、降りて励ましの言葉をかけ、一緒に写真を撮る。それが何度か続き、80人ほの一団がいた。行事の成功と晴天を祈って唱題していたメンバーであった。

「きっと先生は、この道を通るにちがいない。表に出て歓迎しよう」ということになり、待っていたのだ。伸一は、すぐに車を降りた。「普段はお会いできなくとも、私たちの心はつながっています」すると、一人の婦人が言った。「先生!私たちは大丈夫です。何を言われようが、信心への確信は揺らぎません。先生の弟子ですから。師子ですから!」

伸一は、言葉をついだ。「皆さんは負けなかった。“まことの時”に戦い抜き、勝ったんです。その果敢な闘争は、広布史に燦然と輝きます」伸一は、秋田文化会館に到着するまでに、9回、同志と激励の対話を続けたのである。

東北長の山中輝男は、その行動を身近に見て、深く心に思った。“これが先生の、学会の心なのだ。私も、同志を心から大切にして、励ましていこう!”精神の継承は、言葉だけでなされるものではない。それは、行動を通して、教え、示してこそ、なされていくのである。

東北代表者会議が行われた。その席で、正信会僧による過酷で理不尽な学会員への仕打ちも、つぶさに報告された。ある寺では、法事を頼むと、来てほしいなら学会を辞めよと、ここぞとばかりに迫ってきた。別の寺では、家族が他界し、悲しみと戦っている婦人が、坊主から、「学会なんかに入っているからだ」と、聖職者とは思えぬ暴言を浴びせられたこともあった。

伸一は、功労者宅を訪問した。かつて“日本海の雄”といわれた秋田支部の初代支部長を務めた故・佐藤幸治の家である。当時、秋田は、鎌田支部の矢口地区に所属しており、山本伸一の妻の両親である、春木洋次と明子が、地区部長と支部婦人部長をしていた。

二人は、毎月のように交代で、夜行列車に12時間も揺られて、秋田へ指導、激励に通い続けた。そして、佐藤達に、信心の基本から一つ一つ丁寧に、心を込めて教えていった。一緒に個人指導、折伏にも歩いた。御書を拝して、確信をもって、仏法の法理を語っていくことの大切さも訴えた。

信心の継承は、実践を通してこそ、なされる。先輩の行動を手本として、後輩は学び、成長していくのである。

佐藤は、温泉などを試掘するボーリングの仕事に従事していた。戸田城聖は、宗門の総本山に、十分にして安全な飲料水がないことから、地下水脈の試掘を彼に依頼した。総本山の水脈調査は、明治時代から、しばしば行われてきたが、「水脈はない」というのが、地質学者たちの結論であった。

佐藤は、目星を付けた場所を、約3か月かかって、200メートルほど掘ってみたが、地下水脈には至らなかった。戸田は、「宗門を外護し、仏子である同志を守るために、必ず掘り当てなさい」と、厳しく指導した。佐藤は、広宣流布を願うがゆえに、どこまでも宗門を大切にする、戸田の赤誠に胸が熱くなった。

佐藤は、断固たる一念で、真剣に唱題を重ねた。ある日、別の場所を掘り始めると、わずか26メートルほどで、奇跡のように地下水が噴出した。水量は1分間に約216リットルの水質良好の、こんこんたる水源であった。これによって、総本山境内に水道を敷設することができたのである。佐藤は、宗門の外護に尽くし抜いてきた学会の真心を踏みにじった悪僧たちを、終生、許さなかった。

佐藤は、肺癌と診断され、「余命三か月、長くて1年」と言われていた。佐藤は、率先して、学会員の家々を個人指導に歩いた。彼の励ましに触発され、多くの同志が、破邪顕正の熱き血潮を燃え上がらせた。彼は66歳の人生の幕を閉じた。癌と診断されてから3年も更賜寿命の実証を示しての永眠であった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋