『新・人間革命』第27巻 激闘の章 262p~
魔軍の棟梁である第六天の魔王が率いる十軍とは何か。十軍は、種々の煩悩を十種に分類したもので、伸一は、その一つ一つについて、実践に即して語っていった。「第一の『欲』とは、自分の欲望に振り回されて、信心が破られていくことです。
第二の「憂愁」は、心配や悲しみに心が奪われ、信心に励めない状態です。第三の『飢渇』は、飢えと渇きで、何もできないことです。空腹で体を動かす気力もない。第四の『渇愛』は、頭でわかっていても、抑えることのできない自分の執着に突き動かされていってしまう。第五の『睡眠』は、睡魔のことです。第六の『怖畏』は、信心をすることによって、周囲の人から奇異な目で見られたり、仲間外れにされるかもしれない。迫害されるかもしれないことを恐れ、信心を後退させてしまうこと。結局臆病なんです。信心とは勇気なんです」
「第七の『疑悔』は、せっかく信心をすることができたのに、御本尊を疑い、学会を疑い、悔やむ。第八の『瞋恚』は、怒りの心です。学会の先輩が、本人のために誤りを指摘すると、腹を立て、恨む。悪事に対して怒りを感じることは必要です。いい加減な先輩に怒りを感じるのは、当然ですが、だから学会活動をやらない。会合にも出ないということになれば、『瞋恚』にという魔に破られた姿なんです。
自分が、人間革命を、一生成仏を目指して仏道修行していくことと、先輩幹部がだらしないこととは、本来、別の問題です。それを一緒にして、自分の信心の後退を正当化しようとする心こそ、克服すべき対象なんです。第九の『利養虚称』は、名聞名利を追い求め、信心を軽んじ、成仏への道を踏み外してしまう生き方です。
学会の人事でも、自分が軽視されたように思いこんで、新しく幹部に登用された人を嫉妬し、学会活動への意欲をなくしてしまう人がいます。それは『虚称』の心によるものです。その心を打ち破っていく戦いが信心なんです。
『自高蔑人』これは、自らおごり高ぶり、人を卑しむことです。つまり、慢心です。誰の言うことも聞かず、学会の組織にしっかりついて、謙虚に仏法を学ぶことができなくなる。周囲も次第に敬遠し、誤りを指摘してくれる人もいなくなってしまう。最後は惨めです」
熱のこもった講義であった。一人として魔に敗れ、退転していく人など出すまいとする、伸一の魂の叫びであった。研修は、まだ終わらなかった。「富木殿御返事」の「『但生涯本より思い切て候今に翻返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善智識なり』とあります。この御文を生命に刻んでいただきたい。これを心肝に染めていくならば、何があろうが、信心を貫き通していくことができる」
「諸の悪人による迫害に遭うことによって、法華経の行者であることが立証できるからです。風があって風車が回るように、迫害あってこそ、悪業を転換し、一生成仏することができる。魔が競い起これば起こるほど、強情に信心を燃え上がらせていくならば、悪知識も、すべて善智識へと変えていくことができる。むしろ、それが、真実の信仰の姿です。
善智識にするのも、悪知識にするのも、最終的には本人の信心なんです。どんな逆境に遭遇しても、それが、そのまま魔になるわけではない。どう受けとめるかで、一念次第で、魔にもなれば、信心向上の力にもなっていくんです。
どうか、第六天の魔王が率いる十軍という己心の魔に打ち勝ってください。この魔を打ち破る力は唱題です。生命の根本的な迷い、すなわち無明を断ち切ることができるのは、南無妙法蓮華経の利剣です。どこまでも、唱題第一に戦おうではありませんか!」伸一は、集った人たちの魂を揺さぶる思いで、語り抜いた。叫び抜いた。訴え抜いた。全生命を振り絞っての指導であった。
鹿児島の県長である利安真吉と共に、鹿児島会館を訪れた。車中で鹿児島創価学会の現況などについて詳しく訪ねていった。利安の話では、奄美の広宣流布が大きく進展し、広布模範の地域になりつつあるということであった。
「奄美の皆さんは、あれだけの弾圧がありながらも、一歩も引かずに、折伏をし抜いてまいりました。弾圧をした人の多くが行き詰まりを感じたようです。まさに現証を通して仏法の力が明らかになり、皆、学会員の言葉に耳を傾けるようになりました。これが奄美広布伸展の第一の要因であると思います」伸一は、利安の話に頷いた。
魔軍の棟梁である第六天の魔王が率いる十軍とは何か。十軍は、種々の煩悩を十種に分類したもので、伸一は、その一つ一つについて、実践に即して語っていった。「第一の『欲』とは、自分の欲望に振り回されて、信心が破られていくことです。
第二の「憂愁」は、心配や悲しみに心が奪われ、信心に励めない状態です。第三の『飢渇』は、飢えと渇きで、何もできないことです。空腹で体を動かす気力もない。第四の『渇愛』は、頭でわかっていても、抑えることのできない自分の執着に突き動かされていってしまう。第五の『睡眠』は、睡魔のことです。第六の『怖畏』は、信心をすることによって、周囲の人から奇異な目で見られたり、仲間外れにされるかもしれない。迫害されるかもしれないことを恐れ、信心を後退させてしまうこと。結局臆病なんです。信心とは勇気なんです」
「第七の『疑悔』は、せっかく信心をすることができたのに、御本尊を疑い、学会を疑い、悔やむ。第八の『瞋恚』は、怒りの心です。学会の先輩が、本人のために誤りを指摘すると、腹を立て、恨む。悪事に対して怒りを感じることは必要です。いい加減な先輩に怒りを感じるのは、当然ですが、だから学会活動をやらない。会合にも出ないということになれば、『瞋恚』にという魔に破られた姿なんです。
自分が、人間革命を、一生成仏を目指して仏道修行していくことと、先輩幹部がだらしないこととは、本来、別の問題です。それを一緒にして、自分の信心の後退を正当化しようとする心こそ、克服すべき対象なんです。第九の『利養虚称』は、名聞名利を追い求め、信心を軽んじ、成仏への道を踏み外してしまう生き方です。
学会の人事でも、自分が軽視されたように思いこんで、新しく幹部に登用された人を嫉妬し、学会活動への意欲をなくしてしまう人がいます。それは『虚称』の心によるものです。その心を打ち破っていく戦いが信心なんです。
『自高蔑人』これは、自らおごり高ぶり、人を卑しむことです。つまり、慢心です。誰の言うことも聞かず、学会の組織にしっかりついて、謙虚に仏法を学ぶことができなくなる。周囲も次第に敬遠し、誤りを指摘してくれる人もいなくなってしまう。最後は惨めです」
熱のこもった講義であった。一人として魔に敗れ、退転していく人など出すまいとする、伸一の魂の叫びであった。研修は、まだ終わらなかった。「富木殿御返事」の「『但生涯本より思い切て候今に翻返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善智識なり』とあります。この御文を生命に刻んでいただきたい。これを心肝に染めていくならば、何があろうが、信心を貫き通していくことができる」
「諸の悪人による迫害に遭うことによって、法華経の行者であることが立証できるからです。風があって風車が回るように、迫害あってこそ、悪業を転換し、一生成仏することができる。魔が競い起これば起こるほど、強情に信心を燃え上がらせていくならば、悪知識も、すべて善智識へと変えていくことができる。むしろ、それが、真実の信仰の姿です。
善智識にするのも、悪知識にするのも、最終的には本人の信心なんです。どんな逆境に遭遇しても、それが、そのまま魔になるわけではない。どう受けとめるかで、一念次第で、魔にもなれば、信心向上の力にもなっていくんです。
どうか、第六天の魔王が率いる十軍という己心の魔に打ち勝ってください。この魔を打ち破る力は唱題です。生命の根本的な迷い、すなわち無明を断ち切ることができるのは、南無妙法蓮華経の利剣です。どこまでも、唱題第一に戦おうではありませんか!」伸一は、集った人たちの魂を揺さぶる思いで、語り抜いた。叫び抜いた。訴え抜いた。全生命を振り絞っての指導であった。
鹿児島の県長である利安真吉と共に、鹿児島会館を訪れた。車中で鹿児島創価学会の現況などについて詳しく訪ねていった。利安の話では、奄美の広宣流布が大きく進展し、広布模範の地域になりつつあるということであった。
「奄美の皆さんは、あれだけの弾圧がありながらも、一歩も引かずに、折伏をし抜いてまいりました。弾圧をした人の多くが行き詰まりを感じたようです。まさに現証を通して仏法の力が明らかになり、皆、学会員の言葉に耳を傾けるようになりました。これが奄美広布伸展の第一の要因であると思います」伸一は、利安の話に頷いた。
太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋