小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

立正安国論

日蓮大聖人の 法難

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P376~

諫暁によって、幕府の権力と癒着し、庇護されて栄華を極めてきた諸宗、なかでも念仏の僧らにとって、日蓮は、自分たちを脅かす危険な人物となったのである。

「立正安国論」の提出から1か月余りが過ぎた8月27日の夜、突如、念仏者が退去して、日蓮がいた鎌倉・松葉ヶ谷の草庵を襲撃した。日蓮への本格的な迫害の始まりであった。

翌弘長元年(1261年)5月、時の執権・北条長時によって、理不尽にも、伊豆の伊東に流罪される。伊豆流罪は、1年9カ月に及んだ。

赦免された日蓮は、母の妙蓮が病床にあると聞いて、故郷の安房(千葉県)に向かった。この安房の小松原で、東条景信ら多数の武士たちによって、襲撃されるのだ。刀を振りかざし、矢を射て、襲いかかる武士たちにとって、鏡忍房が殺され、さらに二人の弟子が重傷を負ったのである。また、日蓮も、額を切られ、手を折られている。

文永5年蒙古のフビライから国書が届き、日蓮が「立正安国論」で予言した他国侵逼難が、現実のものとなろうとしていたのである。蒙古が責めて来るーーその恐れと不安に、国中が包まれた。幕府は、諸寺に蒙古調伏の祈祷を命じた。高齢の政村にかわって、18歳の北条時宗が執権に就いた。

日蓮は、幕府に強い影響力を持っていた僧に「安国論御勘由来」を送った。さらに、時の権力者や、高僧らに、11通の諫状を矢継ぎ早に認めて送った。

為政者、そして、その権力と癒着した他宗の高僧を完膚なきまでに破折し、諫めれば、どんな結果になるかは、目に見えていた。

日蓮が諫状を出した相手は、いずれも世間の尊敬を集めていた人物である。特に良観などは、聖人として崇められ、自らも、表面上は、そのように振る舞ってきた。

しかし、日蓮の痛烈な破折を浴びるや、“法師の皮を著たる畜生”の本性をさらけ出し、日蓮を叩きつぶそうと、阿修羅のごとき姿を現じ始めたのである。彼らは、必死だった。日蓮との公場対決などという事態になれば、勝ち目など全くないことを、彼ら自身が最もよく知っていたからだ。

彼らは、日蓮を抹殺せんと、密かに奸計を巡らしていたのである。

国難の危機が高まるなか、大旱魃が続き、人びとの窮乏と疲弊は、一層激しさを増していった。対応の術のない幕府は、極楽寺良観に雨乞いを命じたのである。

日蓮は、良観に「もしも、7日以内に雨を降らすことができたら、自分が良観の弟子となる。降らなければ、良観が法華経に帰依せよ」と言付けた。

良観は、弟子120余人を集め、7日間必死に祈ったが、雨が降らないばかりか、暴風まで、吹き荒れたのである。良観は、期限を7日間伸ばしてもらって、祈祷をつづけたが、雨は降らず、旱魃、大風は、激しくなるばかりであった。まぎれもなく、良観の完敗である。

良観は、恨みと憎悪と嫉妬の炎を燃え上がらせ、日蓮をなき者にせんと、幕府の高官の夫人や、夫を亡くして尼となった女性に讒言して幕府を動かし、日蓮を葬り去ろうと計画したのだ。

日蓮は、評定所に召喚され、侍所の所司平頼綱により、取り調べを受けるが、それは、日蓮による折伏の場となった。頼綱は怒り狂った。日蓮は、釈放されるが、1日おいた9月12日、頼綱は、夕刻武装した数百人の兵士を率いて、日蓮を捕らえようと 松葉ケ谷の草庵へ向かった。

兵士たちは狼藉の限りをつくし、日蓮は、懐にあった法華経第5の巻で、頭を打たれた。第5の巻は、末法において法華経を弘めるならば、刀で切られ、杖で打たれる難に遭うと説かれた勧持品が収められた巻である。日蓮は、その第5の巻をもって杖の難を受けたのだ。法華経の身読である。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


佐渡流罪

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P368~

会合終了後、男女青年部と懇談をもった伸一は、青年たちの励ましの意味を込め、一緒に卓球をした。女子部のメンバーは、急遽『佐渡おけさ』を見てもらいたいと話し合い、旅館の浴衣を借りて、踊りの上手な従業員に加わってもらい、踊ったが、どこかぎこちない踊りであったが、一生懸命披露した。

伸一には、何よりもその真心がうれしかった。途中から加わった同行の幹部の一人が、「旅館のショーですか。従業員が踊っていたんですかね。あまり上手くなかったな。」と女子部の真心を踏みにじる、横柄な響きがあった。

伸一は、憮然とした顔で「旅館の方も踊ってくださったが、あとの三人は、ぼくの妹だよ」と言った。そのやり取りを聞いていた女子部員は、胸を詰まらせた。「妹」という言葉に、伸一のやさしさと期待を感じとったのである。

伸一は、記念にピアノ演奏をプレゼントすると言って、皆で“大楠公”の曲を弾いた。この歌は、戸田城聖が、生前、よく青年たちに歌わせた歌であった。戸田は、この歌に広宣流布の指定の精神を託して、青年たちに歌わせ、歌い方についても、厳しく指導してきた。

殉難を覚悟で広宣流布に生き抜く後継の獅子を、鍛え育もうと、戸田は必死であったのである。「君たちも、一にも早く大成長し、立派な指導者になって、広布のため、社会のために、献身していくんだぞ。いいな!」

伸一の奏でる“大楠公”の曲に合わせて合唱していると、戸田の姿が目に浮かび、胸が熱くなるのであった。伸一は、歌い終わった青年たちを励ますように、大きな声で言った。「早く生い立てーーこれが戸田先生の私たちへの願いであり、期待であった。佐渡のみんなも、その心で立ち上がり、大成長していくんだ。私は、もう立ち上がったよ。君たちも早く立とうよ」

東京に帰る日、船をバックに見送りにきた同志と記念写真を撮った伸一は、新潟の幹部に、「佐渡の男子部は、両津の埠頭に、百人の男子部員の結集をしてみてはどうか」と提案。それができれば、佐渡の広宣流布の基盤がつくられるし、未来は盤石になると話した。

伸一は、この佐渡の地での、日蓮大聖人のまさに師子王のごとき戦いに思いをめぐらせた。
 
日蓮が、佐渡の松ヶ崎に着いたのは、文永八年(1271年)10月28日のことである。10月下旬といっても、旧暦であり、既に季節は初冬であった。配所の塚原に到着したのは、11月1日であった。塚原は、佐渡島のほぼ中央に位置し、そこは、死人を捨てる場所であり、弔いのために里人が建てた、四本柱の荒れた堂があった。三昧堂である。ここが日蓮の配流の場所である。

この三昧堂で、彼は日興とともに、極寒の佐渡の冬を過ごした。日蓮は齢50であった。日蓮の生涯は迫害に次ぐ迫害であったことはよく知られている。そのなかでも、竜の口の首の座から佐渡流罪に至る迫害は、最も過酷な大法難であった。

この法難を引き起こしたそもそもの要因は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」をもって、時の最高権力者である北条時頼を諫暁したことにあったといえる。

日蓮は、大風、洪水、飢饉、疫病、地震と、相次ぐ災厄に苦しむ民衆を救わんがために、「立正安国論」の筆を執り、経文を通してその災厄の原因を明らかにしていった。すなわち、この苦悩の根本原因は、正法に背き、誤った教えを尊崇していることにあると指摘したのだ。


また、誤った教えに執着し続けるならば、まだ起こっていない三災のうちの兵革の災、すなわち、七難のうちの自界叛逆難、他国侵逼難が起こるであろうと警告した。同志討ち、内乱であり、他国に侵略されると警告したのだ。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


ヒューマニズムの哲学

『新・人間革命』第4巻 立正安国の章 P281~

日蓮は、「立正安国論」で「国」を表現する際に「国構え」に「民」と書く「くに」を用いた。
そこには、「民」に、より重きを置く考え方が、象徴されているといえよう。

山本伸一は 「立正安国論」を拝しながら、深い感動を覚えた。

夏期講習会が行われた1961年(昭和36年)という年も、自然災害や疫病が猛威を振るっていた。
5月末には、台風4号の影響によるフェーン現象のため、東北・北海道で火災が頻発した。
さらに、梅雨期に入ると、6月24日から1週間以上にわたって、豪雨に見舞われた。

特に、長野県の伊那方面をはじめ、本州、四国で大きな被害が出て、死者・行方不明者は、全国で350人を超えた。

また、当時、ポリオ(小児マヒ)が大流行し、幼い子を持つ親たちを、恐怖に陥れていた。

ソ連などには、ポリオに効く生ワクチンがあり、既に、前年、ソ連から日本に10万人分の寄贈の話が進んでいた。ところが、日本政府は、それにストップをかけたのである。

そこには、反ソ的な政治勢力の意向や、法律(薬事法)をタテにした硬直した役所の姿勢、自社の薬が売れなくなることを恐れた一部の製薬会社の反対などもあったようだ。

国民の生命よりも、国家の立場や権威、企業の利益が優先されていたのだ。

一方、国際情勢を見ても、東西冷戦の暗雲が影を落とし、世界のあちこちで、対立と分断のキナ臭い硝煙が漂っていた。

4月にはキューバ侵攻事件が起きている。

山本伸一は、混迷する世界の動向に、切実な思いをいだいていた。
立正安国の「国」とは、単に一国に限ったものではない。
一閻浮提であり、現代でいえば、広く世界をさすものといえる。

その世界に、恒久平和の楽園を築き上げるために、人間主義の哲学をもって、人びとの生命の大地を耕していくことが、立正安国の実現であり、そこに創価学会の使命がある。

彼は、それを、この夏期講習会で、訴え抜くことを決意する。

「日蓮大聖人の御一代の弘法は、『立正安国論に始まり、立正安国に終わる』と言われております。」

そして、三災七難の原因について論じた。

「鬼神というのは、目に見えない超自然的な働きを持つものですが、現代的にいえば、思想も、その一つといえます。つまり、国土、社会が乱れる時には、まず、思想の乱れが生じていきます。

そして、この思想の混乱が、人びとの生命を蝕み、意識や思考を歪め、それが社会の混乱をもたらす原因となっていくのです。

社会の混乱や悲惨な現実をもたらす原因は、人間という原点を忘れた考え方に皆が心を奪われていくことにあります。

ヒューマニズムに帰れーこれが、現代的にいえば日蓮大聖人の主張です。」

さらに、仏法者の社会的使命について論じていった。

自分の安らぎのみを願って、自己の世界にこもるのではなく、人びとの苦悩を解決し、社会の繁栄と平和を築くことを祈っていってこそ、人間の道であり、真の宗教者といえます。

社会を離れて、仏法はない。宗教が社会から遊離して、ただ来世の安穏だけを願うなら、それは、既に死せる宗教です。

「世の中の繁栄と平和を築いていく要諦は、ここに示されているように、社会の安穏を祈る人間の心であり、一人ひとりの生命の変革による“個”の確立にあります。

社会の安穏を願い、周囲の人びとを思いやる心は、必然的に社会建設への自覚を促し、行動となっていかざるをえない。

そこで、大事になってくるのが、そのために、現実に何をするかである。実践がなければ、すべては夢物語であり、観念です。

具体的な実践にあたっては、各人がそれぞれの立場で、考え、行動していくことが原則ですが、ある場合には、学会が母体となって、文化や平和の交流機関などをつくることも必要でしょう。

また、たとえば、人間のための政治を実現するためには、人格高潔な人物を政界に送るとともに、一人ひとりが政治を監視していくことも必要です。

しかし、その場合も、学会の役割は、誕生のための母体であって、それぞれの機関などが、主体的に活動を展開していかなくてはならない。

その目的は教団のためといった偏狭なものではなく、民衆の幸福と世界の平和の実現です。 

そうした社会的な問題については、さまざまな意見があって当然です。試行錯誤もあるでしょう。
しかし、根本は『四表の静謐』を祈る心であり、人間が人間らしく、楽しく幸福に生きゆくために、人間を第一義とする思想を確立することです。

さらに、その心を、思想を深く社会に浸透させ、人間の凱歌の時代を創ることが、私どもの願いであり、立正安国の精神なのです。」

伸一の講義を通し、各地から集った講習会の参加者は、仏法者の社会的使命に目覚めていった。
それは、社会の平和建設への自覚を促し、新たな前進の活力をもたらしていったのである。

海外指導の派遣メンバーにも 山本会長の「立正安国論」講義は、最大のエネルギー源となった。
世界平和の礎を築くための派遣だという思いが、彼らの闘志を燃え上がらせた。

幸福と平和の波は、少しずつではあるが、着実に、世界の隅々にまで、広がろうとしていたのである。

8月13日未明、東ドイツは、突然、東西ベルリンの境界線に、40数キロメートルにわたって、鉄条網の「壁」を設置した。

それは東西冷戦の縮図でもあった。
イデオロギーが人間を縛り、人間を分断させたのである。

伸一は、10月4日からのヨーロッパ訪問を前に、一人誓う。

“今こそ、人間と人間を結ぶヒューマニズムの哲学を、広く人びとの心に、浸透させていかなくてはならない。世界の立正安国の道を開くのだ・・・”

彼は21世紀の大空に向かい、大きく平和の翼を広げようとしていた。



<立正安国の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

立正安国論

『新・人間革命』第4巻 立正安国の章 P264~

山本伸一は 夏期講習会で「立正安国論」を講義することになっていた。
新たな気持ちで 講義の前に研鑽に励む。


立正安国論が書かれた背景に、正嘉の大地震がある。
大聖人が この地震に遭遇したのは、36歳の時、鎌倉の松葉ケ谷の草庵にいたころである。

このころ、毎年のように飢饉が続き、疫病が蔓延していた。
正嘉の大地震のあとも、余震は長く続き、大地震が 再び起こる。
翌年には、真冬のような冷え込みが続き、8月には大風、京都には暴風雨が遅い、穀類に大被害が出る。
そして、10月になると、鎌倉は大雨による洪水で民家が流失し、多数の犠牲者を出した。
さらに、疫病が流行し、諸国に大飢饉が広がっていった。

幕府は、事態の打開のために、真言の僧による加持祈祷などを命じていたが、なんの効果もなかった。
“なぜ、これほどくるしまなければならないのか?”それが人々の共通の思いであった。
しかし、それに答えられる人は、誰もいなかったのである。

日蓮は岩本実相寺を尋ね、一切経をひもとき、根本原因を経文のうえからも、また、道理のうえからも
あきらかにしようとした。

それらの経々から、彼は国中を覆っている不幸の原因は、世をあげて、正法である法華経に背いているがゆえであると、明確に確信することができた。

人間は、何を信じるかによって、大きな影響を受ける。友人でも、悪友を善友と信じて、ともに行動していれば、いつしか悪の道に入ってしまう。

ましてや、宗教は人間の考え方、生き方の根本の規範である。したがって、誤った宗教を信じれば、人間の心は濁り、欲望に翻弄され、あるいは、生命の活力も奪われてしまう。

さらに、人心、社会の乱れは、依正は不二であり、一念三千であるがゆえに、大自然にも必ず波及していく。本来、宇宙は、それ自体が一つの生命体であり、主体である人間と、自然を含めた環境世界とは、互いに関連しあっていると教えているのが仏法である。

人びとが塗炭の苦しみを脱するには、誤った宗教を捨て、正しい教えを根本とする以外にないー
それが日蓮の結論であった。

当時、天台宗をはじめ、真言、華厳、律等の既成宗派は、鎮護国家の仏教に安住し、念仏や禅の新興の宗派も、幕府の要人に取り入ることに腐心していた。

そして、各宗派は法論を避け、教えの正邪を論議することもなく、お互い馴れ合い、権力に寄生し、庇護という美酒に酔っていた。

また、幕府は、宗教の庇護と引き換えに、政策への協力を要請するなど、政治権力と宗教とが、完全に癒着していたのである。

日蓮は、救世のために、諫暁の書「立正安国論」を認めた。
そして、事実上の最高権力者である北条時頼に、この書を上程した。文応元年7月16日のことである。

日蓮は、時頼こそ、国主として諫暁するに足る人物と見たのであろう。

「立正安国論」は、社会の惨状と民衆の苦悩から書き起こされている。

この民衆の苦しみという現実こそが、仏法の出発点であり、苦悩からの解放こそが、仏法の目的である。

「立正安国論」で、日蓮は、客と主人との問答形式を用いた。

それは、正法流布といっても、権威や権力による強制ではなく、どこまでも人間対人間の条理を尽くした対話による、触発と合意に基づくものであることを表している。


日蓮が、北条時頼を諫暁したのも、為政者の立場にあって、悩み苦しむ、一人の人間としての時頼に、真実の仏法を教えるためであった。

さらに、それによって時頼が、まことの人間の道に目覚め、“民のための政治”を行っていくことを願ってのことであった。


何よりも、これ以上、不幸な事態を、絶対に引き起こしてはならないという、大慈大悲ゆえの警鐘でもあった。

「立正安国論」で、日蓮は、こう結論する。
「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」

不幸と苦悩に覆われた社会を変革し、「国を安んずる」直道は何か、日蓮は、それは、一人の人間の心のなかに「正を立てる」ことから始まるのだと呼びかけている。

つまり、時代、社会の創造の主体である、一人ひとりの人間の内発性の勝利を打ち立て、社会の繁栄と平和を創造していこうとするのが日蓮仏法である。

そして、その原理を解き明かしたのが、この「立正安国論」であった。


「実乗の一善に帰せよ」とは、「偏頗な生命観、人間観を排して、生命の尊厳に立ち返れ」「エゴを破り、慈悲を生き方の規範にせよ」「真実の人間主義に立脚せよ」との指南といってよい。

ここに、人類の繁栄と世界の平和のための、普遍の哲理がある。


時頼は日蓮の主張に真摯に耳を傾けることはなかった。しかも、側近たちによって、その内容は歪曲され、誹謗されて、念仏をはじめとする、他宗の僧らに伝えられたのである。

鎌倉の地にあって、日蓮が他宗派の誤りを正してきたことを、諸宗の僧は、いまいましく思っていた。
そのうえ、時頼にまで諫暁の書を送り、自分たちを批判したと思うと、彼らの怒りは頂点に達した。

日蓮の身に危険が迫りつつあった。

この「立正安国論」の上程から40日が過ぎた、8月27日の夜、鎌倉の松葉ケ谷にあった日蓮の草庵が、念仏者たちによって襲われるという事件が起こった。松葉ケ谷の法難である。

日蓮の予想は現実となった。それは、彼の本格的な迫害に次ぐ迫害の人生の始まりであった



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋
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