小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

秋田

騙されても

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 178p

11日夜、伸一は、秋田文化会館での県代表者会議に出席した。伸一は、まことの信仰者の生き方に言及していった。「それは、決して特別なことではありません。人生には、いろいろなことがあります。しかし、“何があっても、御本尊に向かい、唱題していこう!”という一念を持ち続け、堅実に、学会活動に邁進していくことです。そして、何よりも、自分の生き方の軸を広宣流布に定め、御書を根本に、法のために生き抜いていく人こそが、真実の信仰者です」

「私はずいぶん、人から騙されてきました。利用され、陥れられもしました。弟子を名乗る者の中にも、そうした人間がいることを知っていました。『あの男は下心があるから、早く遠ざけた方がよい』と言ってくる人もいました。

それでも私は、寛大に接し、包容してきた。心根も、魂胆もわかったうえで、信心に目覚めさせようと、根気強く、対話しました。また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、指導も重ねました。なぜかーー騙されも、騙されても、弟子を信じ、その更生に、全力を注ぎ尽くすのが師であるからです。それが、私の心です。

しかし、悪の本性を露わにして、仏子である同志を苦しめ、学会を攪乱し、広宣流布を破壊するならばそれは、もはや仏敵です。徹底して戦うしかない。そこに、躊躇があってはなりません。

人を陥れようとした人間ほど、自分にやましいことがある。自らの悪を隠すために、躍起になって人を攻撃するーーそれが、私の三十年間にわたる信仰生活の実感です。だが、すべては、因果の理法という生命の法則によって裁かれていきます。因果は厳然です。その確信があってこそ仏法者です。

歪んだ眼には、すべては歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です」

田沢本部の婦人部長関矢都美子は、1978年(昭和53年)2月、御講のために訪れた学会員を入場させないために、檀徒たちが入り口に立って、追い返した時、本堂に入って、理由を問いただした。一歩も引かず、学会の正義を訴えた。“ついに障魔が襲い始めた!”と感じた関矢は、学会員の激励に奔走した。

3年がたっていた。伸一は、語りかけた。「学会を守ってくださっているのは、何があっても、“自分が、皆を幸せにしていこう!一切の責任を担い立っていこう!”という、私と同じ決意の人です。これが、学会の側に立つということです。

学会を担う主体者として生きるのではなく、傍観者や、評論家のようになるのは、臆病だからです。また、すぐに付和雷同し、学会を批判するのは、毀誉褒貶の徒です。あなたは信念を貫き通してくださった。見事に勝ちましたね。ありがとう!さあ、新しい出発ですよ。」

1月12日、秋田文化会館の落成を祝う県幹部会が開催された。伸一は、“人生の最も深い思い出とは何か”に言及していった。日々、広宣流布に全力で走り抜くなかに、わが人生を荘厳する、黄金の思い出がつくられていくことを語った。

13日から、希望者は全員参加の自由勤行会が開催されることが決まった。この数年、秋田の同志は、歯ぎしりするような日々を過ごしてきた。悪僧たちは、葬儀の出席と引き換えに脱会を迫るというのが常套手段であった。また、信心をしていない親戚縁者も参列している葬儀で、延々と学会への悪口、中傷を繰り返してきた。挙句の果てに「故人は成仏していない!」と非道な言葉を浴びせもした。

そうした圧迫に耐え、はねのけて、今、伸一と共に21世紀への旅立を迎える宝友の胸には、「遂に春が来た!」との喜びが、ふつふつと込み上げてくるのである。

伸一が、白いアノラックに身を包んで、雪の中に姿を現した。気温は氷点下2.2度である。集った約1500人の同志から大歓声があがり、拍手が広がった。「今日は、秋田の大勝利の宣言として、『人間革命』の歌を大合唱しましょう!」雪も溶かすかのような熱唱が響いた。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

冬の秋田指導

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 166p

1982年(昭和57年)1月10日、山本伸一たちは、秋田空港に到着した。「こんな真冬に行かなくても」という、周囲の声を退けての、約10年ぶりの秋田指導である。彼が、秋田行きを決行したのは、「西の大分」「東の秋田」と言われるほど、同志が正信会僧から激しい迫害を受けてきたからであった。

伸一は、秋田文化会館へ向かった。しばらく走ると、ガソリンスタンドの前に40人ほどの人影が見えた。「学会員です。皆、頑張ってくれました」伸一は、車を止めるように頼み、求道の友の方へ歩き始めた。革靴に、雪が解けた路面の水がしみていった。

「寒いところ、ご苦労様!」皆が歓声をあげた。子どもの頭をなで、壮年たちと握手を交わしていく。仕事のことや健康状態などを報告する人もいる。“街頭座談会”であった。そして、一緒に記念のカメラに納まった。

車が走り出して、しばらくすると、道路わきに立つ数人の人影があった。また車を止めてもらい、降りて励ましの言葉をかけ、一緒に写真を撮る。それが何度か続き、80人ほの一団がいた。行事の成功と晴天を祈って唱題していたメンバーであった。

「きっと先生は、この道を通るにちがいない。表に出て歓迎しよう」ということになり、待っていたのだ。伸一は、すぐに車を降りた。「普段はお会いできなくとも、私たちの心はつながっています」すると、一人の婦人が言った。「先生!私たちは大丈夫です。何を言われようが、信心への確信は揺らぎません。先生の弟子ですから。師子ですから!」

伸一は、言葉をついだ。「皆さんは負けなかった。“まことの時”に戦い抜き、勝ったんです。その果敢な闘争は、広布史に燦然と輝きます」伸一は、秋田文化会館に到着するまでに、9回、同志と激励の対話を続けたのである。

東北長の山中輝男は、その行動を身近に見て、深く心に思った。“これが先生の、学会の心なのだ。私も、同志を心から大切にして、励ましていこう!”精神の継承は、言葉だけでなされるものではない。それは、行動を通して、教え、示してこそ、なされていくのである。

東北代表者会議が行われた。その席で、正信会僧による過酷で理不尽な学会員への仕打ちも、つぶさに報告された。ある寺では、法事を頼むと、来てほしいなら学会を辞めよと、ここぞとばかりに迫ってきた。別の寺では、家族が他界し、悲しみと戦っている婦人が、坊主から、「学会なんかに入っているからだ」と、聖職者とは思えぬ暴言を浴びせられたこともあった。

伸一は、功労者宅を訪問した。かつて“日本海の雄”といわれた秋田支部の初代支部長を務めた故・佐藤幸治の家である。当時、秋田は、鎌田支部の矢口地区に所属しており、山本伸一の妻の両親である、春木洋次と明子が、地区部長と支部婦人部長をしていた。

二人は、毎月のように交代で、夜行列車に12時間も揺られて、秋田へ指導、激励に通い続けた。そして、佐藤達に、信心の基本から一つ一つ丁寧に、心を込めて教えていった。一緒に個人指導、折伏にも歩いた。御書を拝して、確信をもって、仏法の法理を語っていくことの大切さも訴えた。

信心の継承は、実践を通してこそ、なされる。先輩の行動を手本として、後輩は学び、成長していくのである。

佐藤は、温泉などを試掘するボーリングの仕事に従事していた。戸田城聖は、宗門の総本山に、十分にして安全な飲料水がないことから、地下水脈の試掘を彼に依頼した。総本山の水脈調査は、明治時代から、しばしば行われてきたが、「水脈はない」というのが、地質学者たちの結論であった。

佐藤は、目星を付けた場所を、約3か月かかって、200メートルほど掘ってみたが、地下水脈には至らなかった。戸田は、「宗門を外護し、仏子である同志を守るために、必ず掘り当てなさい」と、厳しく指導した。佐藤は、広宣流布を願うがゆえに、どこまでも宗門を大切にする、戸田の赤誠に胸が熱くなった。

佐藤は、断固たる一念で、真剣に唱題を重ねた。ある日、別の場所を掘り始めると、わずか26メートルほどで、奇跡のように地下水が噴出した。水量は1分間に約216リットルの水質良好の、こんこんたる水源であった。これによって、総本山境内に水道を敷設することができたのである。佐藤は、宗門の外護に尽くし抜いてきた学会の真心を踏みにじった悪僧たちを、終生、許さなかった。

佐藤は、肺癌と診断され、「余命三か月、長くて1年」と言われていた。佐藤は、率先して、学会員の家々を個人指導に歩いた。彼の励ましに触発され、多くの同志が、破邪顕正の熱き血潮を燃え上がらせた。彼は66歳の人生の幕を閉じた。癌と診断されてから3年も更賜寿命の実証を示しての永眠であった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

秋田を変毒為薬と 渾身の指導

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P242~ 

伸一は、彼女が総ブロック委員をしていることを聞き、「同じ学会活動をしていても、自由なな立場で、気ままに動いている人もいるでし ょう。そうした人を見て"いいな"と思うこともあるかもしれないが、苦労した分だけ、すべて自らの功徳、福運になる。それが仏法の因果の理法であり、その事を確信できるかどうかです。」と語った。

一生成仏への道は、わが生命を磨くことであり、自行化他の題目、つまり広宣流布の活動のなかにこそ、自身の生命を磨き、絶対益幸福境涯を築く道がある。これが、日蓮仏法の教えなのである。

ゆえに、学会員は、そのご指導のままに、皆が「冥の照覧」を、そして、「陰徳あれば陽報あり」の御門を確信し、わが信念としてきたのだ。だから、世間的な利害や損得をかなぐり捨て、広宣流布のため、仏法のために、勇んで苦労を買ってでた。

そこにこそ、創価学会の強さがあり、清らかさがあり正義がある。しかし、この生命の因果の法則を見失い、「己心の外」に絶対的幸福の方法があるように錯覚し、権勢を求めたり、名聞名利や保身に走るならば、それは、仏法からの逸脱であり、浅ましき外道の姿である。

そうなれば、学会も、広宣流布も蝕まれ、崩壊していくことになる。それだけに、雪深い町で、総ブロック委員として、皆の幸福のために献身する大鳥スギに、彼は心から称賛を惜しまなかったのだ。

伸一が、去ると、今度は妻の峯子が大鳥に声をかけた。十分な時間がとれない伸一に代わって、話を聞くためである。峯子は多忙な伸一を、自分がどうすれば、支え、補うことができるか、常に心を砕いてきたのである。

伸一にとって、峯子は、共に広宣流布の大願に生きる、かけがえのない同志であり、会長の重責を担っていくうえで、必要不可欠な「戦友」でもあった。

7月11日、山本伸一は秋田に移動した。会館は、救援対策本部の観を呈した。記念撮影の対象で会ったメンバーへの激励大会がもたれていた。伸一は、会場の前方にくるとにこやかに語りかけた。

「大事なことは、ここから、どうしていくかです。長い人生には、災害だけでなく、倒産、失業、事故、愛する人との死など、さまざまな窮地に立つことがある。順調なだけの人生などありえません。むしろ、試練と苦難の明け暮れこそが人生であり、それが生きるということであると言っても、決して過言ではない。」

「では、どうすれば、苦難に負けずに、人生の真の勝利を飾れるか。仏法には『変毒為薬』つまり『毒を変じて薬と為す』と説かれているんです。信心によって、どんな最悪な事態も、功徳、幸福へと転じていけることを示した原理です。これを大確信することです。

「この原理は、見方を変えれば、成仏、幸福という『薬』を得るには、苦悩という『毒』を克服しなければならないことを示しています。いわば、苦悩は幸福の花を咲かせゆく種子なんです。だから、苦難を恐れてはなりません。敢然と立ち向かっていくことです。」

「もう一つ大事なことは、自分が今、窮地に陥り、苦悩しているのはなんのためかという、深い意味を知ることです。もし、災害に遭った同志の皆さんが、堂々と再起していくことができれば、変毒為薬の原理を明らかにし、仏法の偉大さを社会に示すことができる。実はそのための苦難なんです。」

記念撮影会が中止になったのは、信心に問題があるからなのかと質問した青年には、自然現象だから、どんなに信心強盛な人でも、台風や大雪にも遭う。しかし、それをいちいち信心に結び付けくよくよ悩む必要はない。結果にとらわれ、力が出ないのでは、信心の意味はない。次は、大成功させるぞと新たな気持ちでスタートすればよいと指導。

「どんな時も、未来へ未来へと、希望を燃やし、力強く前進していくならば、それ自体が、人生の勝利なんです。信心の証明なんです」と話した。

太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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