小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

福井県

郡上一揆の創作劇「一人立つ」

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 356P~ 

岐阜本部は、鵜飼で名高い長良川河畔に立つ鉄筋コンクリート4階建ての建物である。対岸には金華山があり、その山頂に岐阜城の天守閣がそびえる、風光明媚な地にあった。

中部にあって、岐阜の組織は、大都市・名古屋を擁する愛知県に比べ、世帯数も少ないことから、十分に力を発揮できずにいた面がある。しかし、この岐阜本部の完成によって、本格的な岐阜の牙城が誕生し、地域広布の夜明けが訪れたといってよい。

幹部会に先立ち、岐阜本部落成1周年を記念する文化祭が行われ、創作劇「一人立つ」が行われた。江戸時代に現在の岐阜県の郡上で起こった「郡上一揆」を題材にした創作劇である。郡上金森藩では、増税が続いていた。農民たちは死罪を覚悟で幕府への直訴を敢行する。直訴のために江戸に向かった義民の代表は打ち首となった。農民たちは恐れ、おののき、絶望の淵に叩き落される。

その時、青年・弥兵衛は決然と叫ぶ「何をぐずぐずしているんじゃ!今、立たずしていつ立つんじゃ!今こそ"まことの時"じゃねえか!"時"は待っちゃあくれないぞ!」「誰かが、やらねばならない。」

「おらぁ、戦って、戦って、戦って死んでいく。たとえ、両手を取られようが、足をもぎ取られようが、この生命の続く限り、おらの生命の続く限り、戦い抜くんだ!」その叫びに万雷の拍手が鳴りやまなかった。


伸一は、出演者にこう伝言した。「この精神が学会精神です。心から感動しました。」

主役の弥兵衛を演じたのは長松正義という33歳の青年であった。高校卒業後東京へ出て2年目に眼が見えずらくなり、「視束交叉部癒着性くも膜炎」と診断され、手術を受け、故郷の郡上へ戻る。その2か月後、母が他界。彼が1歳半の時、線路で列車に轢かれそうになったのを母が身を挺して救ってくれた。頭を9針縫っただけで、一命をとりとめたのだ。病の遠因なのかもしれなかった。

母が亡き後、ミシンの女性販売員から仏法の話を聞くが、彼は、むきになって学会を否定した。しかし、熱心にすすめるその源を知りたくて入会する。唱題に挑戦すると発作が起き、意識を失う。学会の先輩の「それは宿命転換の一歩を踏み出したということだよ。必ず、宿業は転換できる」との親身な真心の励ましに、彼は、本気になって信心をしてみようと決意したのだ。

就職の願いも叶い、信心に励むなかで、長松は、そのハンディをかかえながら、最高の仕事をし、幸福になることに、自分の使命があると自覚したのである。

ヒルティは断言する。「試練は、将来われわれの上に咲き出ようとする、新しいまことの幸福の前ぶれである」

岐阜駅での追突事故にも遭ったが、幸い怪我はなかったが、山本伸一の励ましの言葉と激励の品が届けられ、"この先生の心に応えなければ"と長松は、"次にお会いするまでに、郡上の広布を一歩でも、二歩でも前進させよう!"と一日一日を勝ち抜いた。

瞬く間に1年が過ぎようとしていた時、文化祭で、創作劇を行うことが決まり、長松が主役に選ばれた。師である伸一への感謝と、郡上広布に一人立つ決意を劇に託し、彼は体当たりで演技した。

伸一は、大拍手を送りながら思った。"主役の青年の一途さが光る演技であった。彼には、妙法の弥兵衛として、生涯、求道心を燃え上がらせ、謙虚に自分を見つめながら、誠実に黙々と、広宣流布のために生き抜いてほしい。信心の世界にあっては自分が表舞台に立とうとするのではなく、皆のために勇んで労苦を担っていくことが大事だ。それが、弥兵衛の心である"

感動の文化祭が終了すると、岐阜県幹部会の開始である。伸一は、岐阜の歴史をひもとき、天下取りをめざした戦国の武将たちの雄大な気概と勇気こそ、今なお、岐阜の人びとに脈打つ心意気であることを語った。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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福井県長任命

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 341P~ 

伸一は、広宣流布の新展開のためには、方面や県を一つの独立した創価学会ととらえ、それぞれの方面、県で、地域に即した広宣流布の構想と運動を練り上げ、自主的に活動を推進していく必要があると考えていた。

そして、県長制の導入を提案し、「地域の年」と名づけられた1972年(昭和47年)には静岡長、福井長などが任命された。この県長制は順次、各県に導入され、全国的に布陣が整うのである。

福井長になった魚津健司は、高校三年の時に、家族と共に信心を始めた。大阪の大学に進み、会社に勤めたあと、学会の職員となった。関西の男子部の中核となり、また、関西高等部長として、時代を担う鳳雛たちの育成に力を注いできた。そして、29歳で初代の福井長となったのである。

「保守王国といわれる福井を変えていくのは、青年の力しかない。青年とは、第一に大願を起こす心をもっていることだ。そして、その大理想に向かって、間断なき挑戦と向上を重ねていかなければならない。第二に、破邪顕正の革命精神にあふれていることだ。第三に、勇気あふれる果敢な行動力だ。」魚津は、山本会長の指導を、全生命で受けとめようとしていた。

彼は尋ねた。「若輩者の私が、県長として指揮を執るうえで、留意すべきことはなんでしょうか」伸一は言下に答えた。「誠実ーーこれしかありません。同志に仕えるために自分がいるんだと決めて、一つ一つの問題に対して、真剣に、真面目に、謙虚に、全力で取り組んでいくことです。その姿に人は共感し、"応援しよう。共に戦おう"と思うんです。先輩や年長者に対しては、尊敬の思いをもって接していくことです。」

伸一は、魚津のために青年指導者の在り方を、徹底して語っておこうと思った。「誰もが、"うちの県長はここまで頑張っているのか""これほどまでに皆のために尽してくれるのか"と感嘆するようでなければならない」

翌日、新たに建設が決まった福井文化会館の起工式に出席した。そのあと、福井総合本部長の田山勝治の家を訪問した。伸一は、"総合本部長と県長の、この団結があれば、福井は盤石だ"と思った。

大聖人は仰せである。「総じて日蓮が弟子旦那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」

互いに、広布の使命に生きる同志を、なくてはならない尊い存在として支え合い、敬い合っていくことが、「水魚の思」の姿といえよう。

「異体同心」の姿こそ、今、大聖人が弘通される最も肝要なことなのであると言われているのだ。「異体同心」の姿は、それ自体が人間共和の縮図であり、広宣流布の実像である。いわば目的ともいえよう。そして、「異体同心」で進んでいくならば「広宣流布の大願も叶うべき者か」と仰せになっているのである。

伸一は、福井県に引き続き、翌6月7日には、岐阜県幹部会並びに文化祭に出席するため、岐阜に向かった。岐阜県もまた、人びとの汗と涙の苦闘の年輪が刻まれた天地であった。

岐阜県内でも空襲が本格化し、市内の半分が焼けたといわれるほど、凄惨を極めた。当時、女学生であった伸一の妻の峯子も、岐阜市美園町の叔母の家に疎開しておりここで岐阜空襲に遭遇している。

戦後の伊勢湾台風、7月豪雨、岐阜駅での追突事故などの様子も伸一と峯子で語り合った。岐阜駅構内で停車中の普通列車に貨物列車が追突し、多数の乗客が負傷した。この普通列車には、総本山に登山した郡上や美濃などの同志が数多く乗車していた。

不幸中の幸いというべきか、怪我をし、入院した人もいたが、皆、命に別状はなかった。伸一は、「変毒為薬」を呼びかける伝言とともに、書籍や袱紗など、激励の品々を贈り、中部の幹部らに見舞いと励ましを頼んだ。そして、3か月後の1972年3月に、岐阜市で記念撮影会が行われ、岐阜を訪問した。

苦しむ人のために実際に何をするのかーーそこに人間の真実が現われる。



太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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福井の国土の宿命転換

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 325P~ 

<緑野の章 開始>

"次は、各方面、各県の強化だ!これまであまり訪問できなかった地域に光を当てて、一県一県、堅固な牙城に仕上げていこう!"伸一は、ヨーロッパ訪問から帰国して9日後の6月5日には、早くも福井県の武生市を訪れたのである。一年ぶり5度目の福井訪問である。

伸一は、福井県には特別な思いがあった。福井県は幾度となく、災害に見舞われてきた地であったからだ。
1945年(昭和20年)7月には、大空襲によって敦賀・福井市内は焦土と化し、3年後、福井地震に襲われ、地震の揺れの激しさから、気象庁は震度階級に最強の揺れとして、「震度7」を追加している。

その1か月後、豪雨によって九頭竜川左岸の堤防が決壊し、福井市内に濁流が流れ込んでいる。1950年、53年にも、台風による水害で多くの犠牲者を出したほか、3百戸以上が全焼するという大火もあった。

伸一は、その悲惨な災禍を思うと、傷ましくて仕方なかった。また仏法で説く「国土」というものの宿命を痛感せざるをえなかった。

福井県幹部会の会場になった武生市の体育館には、6千人のメンバーが詰めかけ、場外にも人があふれていた。山本伸一が指導に立った。ここで、伸一は、福井の歴史に言及していった。

福井地方はかつて大繁栄した地であり、福井人は誇りと気概にあふれ、優れた力を有していた事実を論証していった。さらに、彼は、その本来の活力が生かされずに、"消極性""保守王国"のレッテルが張られてしまった原因について考察していった。

福井県には、曹洞宗の大本山となった永平寺がある。だが、より広く福井の人びとに浸透しているのは、"浄土教"すなわち念仏の教えである。念仏の教えは、この世は穢れた穢土であるとし、ただ念仏を唱えることによって、死んで後に極楽に行けるとする教えである。

それは、現実の社会で、建設の主体者として、永続的な改革に挑む生き方とは相反する思想である。そうした教えが、福井人の活力にあふれた積極的な生き方を、消極的な他力本願的なものへと変質させてきたことを、伸一は鋭く指摘していったのである。

伸一は、訴えた。「この"保守王国"といわれる現実を転換し、バイタリティーを復興する道は何か。大聖人は『妙とは蘇生の義なり』と断言されている。生命の大法たる日蓮大聖人の仏法によって、必ず、この郷土の本質的な大改革ができるということを、私は宣言しておきたいのであります。それは、ひとえに、皆さんの勇気と活動にかかっているのであります。」

さらに、伸一は、福井地方からは『蘭学事始』の著者・杉田玄白や、蘭学の振興に努めた橋本佐内などが出たことをあげて、福井の進取性に言及していった。

「このような観点から見れば、福井県は潜在力に満ちた地域性です。皆さん方は、自分の郷土に大いに将来性を見いだしてください。そして、過去の"仏教王国"なるものを、新しき真実の"仏教王国"につくり直していっていただきたいのであります」

伸一は、各地を訪問する際には、その地の歴史や風土、直面している問題等等々を徹底して調べ、分析し、仏法の視座から地域の発展と人びとの幸福のために何が必要かを熟慮し、意見や提案を述べていった。

"妙法による郷土のルネサンスを!"ーーこの山本会長の渾身の指導は、福井の同志にとって、郷土の新しき建設のための永遠の指針となったのである。


伸一は、昭和35年に敦賀の駅で伸一を待っていた同志が会場にいるか呼びかけた。夜行列車で金沢に向かう途中、午前二時半ごろ敦賀駅で6分間ほど停車した時、50人ほどの同志が、伸一の指導を求めて、駅のホームで待っていたが、深夜でもあり、周囲に迷惑をかけないよう、伝言を託して、あえて会うことはしなかった。胸が張り裂ける思いだったが、社会に迷惑はかけられないと熟慮の末、決めたことではあったが、自分を責めた。

「悔恨がないのは、前進がないからである」とは、トルストイの達観である。



太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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