小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

神札事件

笠原慈行の「神本仏迹論」を糾す

『新・人間革命』第27巻 正義の章 122p~

神札を受けることは、正法正義の根本に関わる大問題である。また、信教の自由を放棄し、軍部政府の思想統制に従うことでもある。牧口は、決然と答えた。「承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません」彼は、『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』との、日興上人の御遺誡のうえから、神札を拒否したのである。

牧口のこの一言が、正法正義の正道へ、大聖人門下の誉れある死身弘法の大道へと、学会を導いたのだ。その場を辞した牧口は、激した感情を抑えながら、愛弟子の戸田に言った。「私が嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす亡び去ることだ。宗祖大聖人のお悲しみを、私はひたすら恐れるのだ。今こそ、国家諌暁の時ではないか!」

弟子は答えた。「先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうとも、戸田は、どこまでも先生のお供をさせていただきます」創価の師弟とは、生死をかけた広宣流布への魂の結合である。それからほどなく、牧口と戸田は「不敬罪」並びに「治安維持法違反」の容疑で、逮捕投獄されたのだ。

そして、最終的に、二人を含め、幹部21人が逮捕されることになるのである。軍部政府によって会長の牧口常三郎が逮捕されるや、周章狼狽した宗門は、牧口一門の総本山への登山を禁ずるなど、学会との関りを断とうとしたのだ。日蓮大聖人の仏法の清流は、正法正義を貫いた牧口と戸田城聖の、創価の師弟によって死守されたのである。

仏法の眼を開いてみるならば、まさに、創価学会は、“法滅”の危機を救い、末法広宣流布のために出現した仏意仏勅の団体であり、地涌の菩薩の集いであるという以外にない。しかし、在家である創価学会員が、喜々として広宣流布に邁進する姿を快く思わず、学会には御本尊を授与しないという寺さえあったのである。宗門には、信徒を下に見て睥睨する、悪しき体質が温存されていたのだ。

戸田は、そうした悪相とは敢然と戦った。もし、その悪を見過ごしてしまうならば、それは、やがて広宣流布を破壊する元凶となり、凶悪となっていくからだ。事実、学会は正法正義を貫き、広宣流布を推進するために、悪侶とは徹して戦い、宗門を守り、発展に尽くしてきた。

その学会にとって、忘れ得ぬ事件がある。戦時中、「神本仏迹論」を唱え、宗門から擯斥処分を受け、僧籍を剝奪されていたはずの謗法の僧・笠原慈行が、総本山大石寺にいるのを、学会員が見つけ出したのである。

「神本仏迹論」は、国家神道をもって国論を統一して戦争を遂行する軍部政府に迎合し、大聖人の教えを根本から否定する邪説であった。笠原は
「神本仏迹論」を唱え、不敬罪で大石寺を告訴した。それによって軍部政府は、果敢に折伏を行っていた学会に目を付け、弾圧を開始するにいたり、牧口常三郎は獄死することになるのだ。

学会の青年たちは、笠原を牧口の墓前に連れて行き、青年たちに問われた笠原は、遂に「神本仏迹論」は妄設であるとし、謝罪状を書いた。戸田は、出獄以来、笠原の動向に心を配ってきた。笠原が僧籍復帰しているという話を聞いた戸田が、5月3日、それが真実かを宗門に確認すると「かかる僧侶は絶対におりません。笠原は宗門を追放されております」との返事であったが、実際には、学会にはなんの話もないまま、4月5日に、宗門は笠原を僧籍復帰させていたのだ。

僧同士の馴れ合いである。笠原は、学会が彼の誤りを正したことを、暴行や傷害事件に仕立て上げて喧伝し、パンフレットまで配布したのだ。

宗門では、臨時集会を開いて、信徒が、大法会の最中に“僧侶”を糾弾した“不祥事”として、処分の検討に入ったのである。そして、笠原には、教義背反の異説を放棄したとは認められないとしつつも、「宗制宗規に照らし適切な処置を望む」と述べるのにとどまった。

一方、戸田に対しては、「未曽有の不祥事」を起こしたとして、「謝罪文の提出」「大講頭罷免」「登山停止」を求める、極めて厳しい決議をしたのである。
日蓮大聖人は、「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」との仏典の一節を引いて、悪と戦うことの大切さを訴えられている。戸田は、宗会の決議を知り、宗門の僧たちから、その精神は消え失せてしまっていることを痛感せざるを得なかった。

この事実を学会員は 永遠に忘れてはならない。

太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

神札事件

『新・人間革命』第27巻 正義の章 114p~

結局、不惜身命の決意で正法正義を守り抜いたのは牧口と戸田の師弟だけであった。牧口と戸田の、死身弘法の大精神が、未来永劫に脈動し続けていってこそ、創価学会の魂は受け継がれ、広宣流布の清流が、大河となって広がっていくのだーーそう山本伸一は痛感していた。

人間の一念、精神にこそ、広布前進の原動力がある。ゆえに伸一は、諸会合などで、両会長の闘争と精神を訴えぬくとともに、末法広宣流布のうえで、二人が果たした甚深の意義についても、さまざまな角度から言及していった。そして、両会長の遺徳を宣揚するとともに、その精神と実践を伝え残し、継承していくために、全国の主要会館等に恩師記念室を設置するよう提案し、推進してきた。

日本の既成仏教は、長い間、政治権力に与してきた。江戸時代になると、寺請制度によって大きな力を得た。各寺院の発給する寺請証文は、いわば、戸籍の役割を担い、徳川幕府のもとで民衆の支配機構として絶大な権力を振るうようになっていった。

さらに寺院は、葬儀などの法事、儀式を執り行うことによって、布施、供養を得て、富を手にしていく。また、檀信徒を下に見る僧侶中心主義に陥り、葬儀や先祖供養などの儀式を重視する葬式仏教へと、仏教そのものを変質させていった。

僧侶の妻帯が認められると、それを受け入れ、世俗にまみれていったのである。宗門も例外ではなかった。明治に入って条件付きながら信教の自由が認められても、僧侶が折伏・弘教に奔走する姿は、ほとんど見られなかった。

牧口常三郎は、日蓮仏法に深く感銘し、日蓮正宗信徒として信仰の一歩を踏み出す。しかし、牧口は、既成仏教化した宗門の信心の在り方、つまり“寺信心”に甘んじようとしたのではない。本来の日蓮大聖人の教えに立ち返り、その御精神のままに、真正の日蓮門下の大道を歩もうとしたのである。

「仏教の極意たる『妙法』が万人必然の生活法則たることを、科学的に実験証明しよう」ーーそれが、牧口常三郎の企図であった。

さらに、牧口は、こう述べている「失礼ながら僧侶方の大概は御妙判と称して御書やお経文によつて説明はして下さるが、現証によって説明してくださらないのを遺憾とする」実生活において悩み苦しむ人に徹して関わろうとせず、苦悩を乗り超える道が仏法にあることを、大確信をもって訴えられぬ僧侶への、鋭い指摘といってよい。

また、彼は、仏法の法理の上から、魔が競い起こらぬ宗門の信心の在り方に疑問を投げかけている。本当の信心があれば、魔は怒涛のごとく競い起こるものであるからだ。

宗門も含め、日本の仏教各派が宗論を回避し、教えの高低浅深を問うことなく、もたれ合っていた時代のなかで牧口は、宗教の検証に着手し、宗教革命の烽火を上げたのである。牧口の起こした創価教育学会の宗教運動は、長く民衆を支配してきた僧侶によるものではなく、在家、民衆の手による宗教革命であった。

牧口は、日蓮正宗も、時代の変遷のなかで、儀式主義に陥り、葬式仏教化していたことに、強い危惧をいだいていた。それでは、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を成就していくことはできないからだ。

後に牧口は、次のように語っている。「私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此処に創価教育学会の特異性があるのであります」端的に言えば学会は、人びとの幸福生活を確立することによって、御本尊の力、大聖人の仏法の力を実証し、広宣流布を推進してきたのだ。

しかし、学会が宗教の教えには、高低浅深があり、人生の根本法則である正法への信・不信が、生活上に価値(功徳)・反価値(罰)、幸・不幸の現証もたらすことを訴えていくと、宗内からは強い反発が起こった。葬式仏教となった他宗派に同化して、折伏精神を失っていた僧たちは、大聖人の仰せ通りに、仏法の王道を突き進むことを恐れていたのである。

広宣流布を忘れ、その実践を失えば、難が起こることはない。だが、そうなれば、大聖人の御精神を、魂を、捨て去ることになるのだ。それを物語る驚くべき出来事が起こった。いわゆる「神札事件」である。国家神道を精神の支柱にして、戦争を遂行しようとする軍部政府は、思想統制のため、天照大神の神札を祭るよう、総本山に強要してきた。

そして、法主・鈴木日恭ら立ち合いのもと、「学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか」との話があったのだ。宗門は、既に神札を受けることにしたという。軍部政府の弾圧を恐れ、迎合したのである。


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋
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