小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

祈りに勝る力なし

生死即涅槃 信仰とは希望

『新・人間革命』第22巻 命宝の章 391p 

愛する呉の同志の、幸福を祈りながら、伸一は 話を続けた。

「長い人生であり、長い広宣流布の旅路です。いろいろな困難もあるでしょう。しかし、その時が、宿命転換の人間革命のチャンスなんです。"負けるものか!"と、不屈の闘魂を燃え上がらせて、信心を貫いていくことです。そして、ひたぶるに、お題目を唱え、広宣流布に走り抜いていくんです。信心に行き詰まりはありません。私も唱題第一でここまで来ました。祈れば自分が変わります。祈れば、自分が変わります。周囲の人も変えていくことができる。」

「ところが、いざ困難に出くわし、窮地に立たされると、"もう駄目だ"とあきらめてしまう。しかし、実は、困難の度が深まれば深まるほど、もう少しで、それを乗り越えられるところまできているんです。闇が深まれば深まるほど、もう少しで、それを乗り越えられるところまできているんです。闇が深ければ深いほど、暁は近い。ゆえに、最後の粘りが、勝利への一念を凝縮した最後の瞬発力が、人生の勝敗を決していくんです」

「悩みがなくなってしまったら、人生は全く味気ないものになってしまう。お腹が空くからご飯がおいしい。大変さのなかにこそ、喜びがあるんです。」

「成仏というのは、なんの悩みもなく、大金を持ち、大邸宅に住むことではありません。大歓喜にあふれ、生命が脈動し、何があっても挫けない、挑戦の気概に満ち満ちた境涯のことです。広宣流布に生き抜くならば、一生成仏は間違いありません」

伸一は、皆に、断じて幸福になってほしかった。信心の醍醐味を実感してほしかった。皆が、人生の勝利者になってほしかった。

婦人部の竹島が、伸一の腕を引っ張って言った。「先生!呉会館はこちらです。みんながお待ちしています」彼女は、伸一が、そのまま帰ってしまうのではないかと、心配でならなかったのだ。伸一は、同志を思う、彼女の真剣さが嬉しかった。

「それにしても、竹島さんは、よくぞ15年間、苦しいなかで、頑張ってくれたね。ありがとう」竹島は、なんのことか、すぐにはわからなかった。彼女はハッとする。1961年(昭和36年)に山本会長の面接を受け、呉支部の副婦人部長になってから、夫婦で毎月のように、東京での本部幹部会に通って15年になるのだ。

自分でさえ、忘れていたことを、覚えていてくれた伸一の一念の深さに、彼女は涙するのであった。自分のことを、心から思ってくれる人の存在が、人間を奮い立たせるのだ。

1967年7月大豪雨が九州北部から関東を襲った。呉の被害も大きく、死者88人、負傷者467人、全半壊家屋557棟を出したのである。

この時、
杉村七郎は公明党の二人の市議会議員らと共に、山崩れで生き埋めになった一家の救出に向かった。救助隊も到着し、生き埋めになった4人のうち3人を救出し、最後に残った8歳の少女を救出中に、再び山崩れが起き、杉村は 命を失ったのである。

杉村は「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との、公明党の立党精神を、
座右の銘にしていた。まさに、その通りの生涯であった。伸一は 杉村の
婦人と、その子息を呼んで励ました。

会館を出発する時も各部屋を見て、こまやかな配慮を怠らなかった。大事故も、その原因は小事にある。ゆえに、細かいことへの注意が、事故を未然に防ぐ力となるのだ。

「目に見えないところにまで、心を配り、陰で頑張っている人、さらに、その陰の陰で黙々と戦っている人を探し出し、一人ひとり、全力で激励していくんです。幹部がそれを忘れたら、創価学会ではなくなってしまう。冷酷な官僚主義だ。学会は、どこまでも、真の人間主義でいくんです」

呉の同志への激励は、帰途の車中でも、まだ続くのである。道路やバス停にいる婦人を見て学会員だと言って 激励の品を渡す。

伸一は、大切な会員を一人として見過ごすことなく、「励まし」の光を注ごうと、全生命を燃やし尽くした。だから、彼には、瞬時に、学会員がわかったのである。

間断なき挑戦と闘争のなかにこそ、生命の歓喜と躍動があるのだ。



<命宝の章 終了>
<新・人間革命 22巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

呉の同志 祈りに勝る力はない

『新・人間革命』第22巻 命宝の章 378p 

伸一は、傍らにいた日本の幹部に言った。「この人たちは、必ず将来、大きな役割を担う使命がある。大切な人なんだ。だから私は、あえて厳しく言っておくんです。若い時に、広宣流布のために、うんと苦労しなければ、力はつかない。ウルグアイの中心になる人たちを、私は、未来のために育てておきたいのだ。

彼らは今、日本の創価学会を見て、"すごいな。別世界のようだ"と思っているかもしれないが、30年前は、戸田先生お一人であった。そして、先生と、弟子の私で、壮大な広宣流布の流れを開いたのだ。その師弟の精神がわかれば、どの国の広宣流布も大きく進む。要は、"一人立つ人間"がいるかどうかだ」

カミツは、その言葉を、生命に刻む思いで聞いた。同じ移住船でブラジルに渡った人が、わざわざウルグアイまで訪ねて来て「信心で乗り越えられない問題はない」との話に一家は入信した。カミツの面倒をみてくれたのが、彼より8歳上の、タダオ・ノナカだった。

山本伸一は、軍政下にあって、集会にも許可がいるなどの、ウルグアイの状況を聞き、心を痛めてきた。そして未来への飛躍の契機になればと、広島での本部総会に、ウルグアイの青年たちを招待したのである。カミツは、この時、ウルグアイの広宣流布への決意を固めた。

「今は苦しみなさい」との伸一の言葉は、彼の指針となった。「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」とは、文豪トルストイの名言である。カミツは、猛然と戦いを開始した。勇気を奮い起こし、自分の殻を破って、挑戦していってこそ、成長があり、境涯革命があるのだ。

広島の本部総会から2年後の1977年(昭和52年)、ウルグアイのSGIは、法人資格を取得。タダオ・ノナカが理事長となった。そして、2005年には、カミツが第二代の理事長に就任する。

伸一は、夕刻には、本部総会の役員らを慰労する集いにも出席した。「総会などの大きな会合が成功すれば、それで、すべてが終わったように思ってはならない。まだ、後片付けが残っている。設営、清掃など、陰で支えてくれた多くの人たちを、讃え、ねぎらって、すべてが終わるんです」

人への配慮のなかにこそ、慈悲があり、人間性の輝きがある。また、それを実践してきたところに、創価学会の強さがあるのだ。

「広島会館へ行こう」慰労の集いが終わると、伸一は言った。会館に到着すると、会館の前にある民家に向かった。その家の主や夫人たちが、庭にいたからである。伸一は、「今後ともよろしくお願い申し上げます」と言って、泥まみれの主の手を、強く握りしめた。

大事なのは、勇気の行動だ。誠実の対話だ。近隣の学会理解の姿こそ、広宣流布の実像なのである。

そのころ、呉では、呉会館への伸一の訪問を願って、懸命にメンバーが唱題に励んでいた。"なんとしても、山本先生を呉にお迎えして、呉の同志に会っていただくのだ!"こう決意して、猛然と祈り始めた、一人の婦人がいた。呉総合本部の婦人部の中心者である竹島登志栄であった。

祈りに勝る力はない。祈りは、一切を変えていく原動力である。勝利への強き祈りの一念から、大確信も、緻密な計画も、勇気ある行動も生まれるのだ。

唱題を重ねるなかで、呉の同志は思った。"山本先生においでいただくからには、弟子として、「私は戦いました。勝ちました!」と、胸を張って報告できる自分でなければならない。それが師弟ではないか!"活動にも一段と力がこもった。

11日、朝からメンバーが集って唱題していたが、幹部から先生の呉訪問はないと伝えられ、皆がっかりして、帰る人もいた。しかし、婦人部の幹部は ともかく、最後まで、絶対にあきらめずに、祈り切ってみようと決め、唱題を始めた。そこに電話が入り、「山本先生がそちらに向かわれた」と伝えた。手分けして、皆を呼び戻しに走った。

伸一は、呉で皆が待っていることを伝えられると「行こう」と出発した。途中、呉会館の隣の寺院や公園にも学会員が大勢いるのを見て、車を止め、寺院に向かい、愛する呉の同志の、幸福を祈りながら、伸一は 話を続けた。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

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