小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

社会貢献

香港の広宣流布

『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 333P~

学会を「日本の軍国主義者」と決めつけ、「経済・文化分野のほかに、宗教の仮面を被って、政治活動も行っている」などと書き立てる新聞もあった。こうした報道の底流には、根強い反日感情があった。
日本に誕生した宗教ということで、創価学会に対して猜疑の目をむけていたようだ。

「『台湾の独立』の陰謀」に加担しているとか、また、山本伸一が日中国交正常化提言などを行ってきたことなどで"共産主義者を育成する団体"であるという批判もあった。

ともあれ、全く的外れの批判が、まことしやかに、なされていたのである。

だが、香港の同志は微動だにしなかった。メンバーは、"いよいよ三障四魔が競い起こった。今こそ、まことの時だ!"と、闘魂を燃え上がらせていった。

広宣流布は状況のいかんが決するのではない。同志に脈打つ使命感と確信と歓喜ある限り、前進の大道は開かれるのだ。香港での理不尽な学会への批判は、やがて鎮静化していった。

現地のマスコミ関係者は、メンバーの真実を知るようになると、日本の一部マスコミによる創価学会の報道と実像とは、大きな違いがあることに気づき始めたのである。

アインシュタインは、こう訴えている。「日常の生活のなかのあらゆる機会をつかまえて真実を表現していくことで、ゆっくりとではあっても成功を勝ちとっていくことはできる」 

香港のメンバーは、よき市民として、いかに社会に貢献していくかを、真剣に考え続けた。社会貢献の一環として、児童予後施設での慰問公演なども行った。その模様は、地元の新聞などでも報道され、大きな反響を呼んだ。

伸一は、この10年間の歩みを聞きながら、メンバーの尊き敢闘をねぎらい、最大の賛辞を贈るのであった。

「皆さんの血の滲むような努力で、最も大変な基礎工事は完了したんです。私は皆さんの、この功労を終生、わすれません。仏法のために、広宣流布のために、重ねた苦労は、流した涙は、拭った汗は、全部、自分の福運です。永遠の生命の財産になります。」

「それを本当に確信できるかどうかが、実は、一生成仏できるかどうかの決め手なんです。もし、その確信がなければ、生命の因果の法則も『冥の照覧』も信じられないことになる。それは『己心の外』に法を求めていることであり、仏法者の生き方ではありません。」

また、社会の理解と共感を勝ちとるためには、対話が大事であり、社会のリーダーと対話し、外交を展開していくうえで、最も大切なことは何かを 訴えた。

日々、伸一が実践したことは"私がいる限り、学会に対する、また、戸田先生に対する、無責任な非難や中傷は断じて許さない。誠心誠意、話し合って、誤りは正し、偏見は払拭していこう"

デマ記事に対しては、いつ、どこで、誰が行ったもので、その裏づけはいかにして取ったのかを問い詰めていくと、すぐにあいまいになった。虚偽は、真実には勝てない。

どんな相手であれ、たとえ敵であっても、必ず味方にしてみせるというのが、彼の信念であったのである。

伸一は、話を続けた。「外交を行ううえで重要なことは、まず、第一に『勇気』です。勇気をもって会い、胸襟を開いて、率直に対話する。それが外交の第一歩です。臆病な人間は、直接人と会って、対話することを避けようとするものです。次に大事なことは、どこまでも『誠実』であるということです。外交といっても、相手に"この人なら人間として信じられる"と思わせることができるかどうかです。また、『根気』『粘り強さ』が大切です」

「もうひとつ大事なことは、外交を行う場合には、自分が全学会を担い立つのだという、"全権大使"の自覚がなければならない。つまり、全体観に立つことです。そうでないと、部分的なことに目を奪われ、判断を誤ってしまうこともある」

「外交といっても、そこには"師弟"の精神が脈打っていなければ、広宣流布のための渉外活動はできません」

太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

学園生への遺言

『新・人間革命』第17巻 希望の章 217P~ 

山本伸一の長男の正弘は、進路に悩んでいた。母の峯子は、一言アドバイスした。「人間として生きるうえで、最も大事なことは報恩よ。あなたも学会にお世話になったんだから。学会に尽していきなさい」その一言で、正弘の心は決まった。

ちょうど女子学園で、社会科の教員を探していた時であった。幸いにも採用が決まった。

伸一は、息子の正弘が教育者の道を選び、未来の人材育成に人生をかける決意を定めたことが、何より嬉しかった。一方、正弘は、「創価の民衆城」ともいうべき関西の地で、社会人としての第一歩を踏み出すことに、無量の喜びと誇りを感じていた。


4月末に、学園を訪問した山本伸一は、懇談会の折、蛍を呼び戻してはどうか、桜を満開にして新入生を迎えるようにしてはどうかと提案した。

教員たちは、”自然を守るという新しい学園の伝統をつくろう”と誓い合ったのである。

松尾繁男という数学の教師は、蛍の研究から開始し、環境の整備、人工の川を校内に造り、池から竹の樋で水を引いた。この川は、「蛍川」と名づけられた。生徒たちの有志で蛍保存会もできた。

山本伸一は、創価学会創立48周年記念に「環境問題は全人類的な課題」と題する提言を発表した。「環境国連」の創設などを提唱するとともに、「自然保護、環境増進の土壌には、幅広い民衆の支持、コンセンサスが必要不可欠であります。」と訴えた。

学園で養殖した蛍が、最初に飛んだのは、1年後のことであった。蛍は、年ごとに増えていった。地域にも蛍保存の運動が広がっていった。

山本伸一が、学園の空に舞う、美しき蛍の群れを目にしたのは、1978年のことであった。何百という数の蛍が、夢を紡ぐかのような荘厳な光の乱舞をみせた。

創価女子学園では、桜の保存活動も着実に進められていった。桜の本数や種類、幹の太さも調査し、校内の桜の分布図もつくられていった。手入れは功を奏し、年を経るごとに、桜は美しく咲き薫った。染井吉野や、しだれ桜など、10種類ほどの桜が絢爛と咲き競うようになった。

学園では、毎年、近隣の人びとを招いて、「桜まつり」を行った。女子学園は美しき「桜の園」となり、「友好の園」となったのである。

次男の久弘も創価大学の大学院を卒業し、大学職員として母校に勤務。三男の弘高も、関西創価小学校の教員となった。伸一も、峯子も、三人の子どもたちが、創価教育に従事するようになったことが、何よりも嬉しかった。伸一は言った。「三人合わせると創価一貫教育だな」峯子も満足そうに頷いた。

開校から9年後、1982年、女子学園は、男子生徒も受け入れることになり、名称も関西創価中学校・高等学校となった。この時、男子校であった東京の創価中学校・高等学校は女子生徒を受け入れ、創価学園は東西両校ともに、男女共学へと移行していったのである。

伸一が一貫して訴え、努力してきたのは、生徒たちが世界に眼を向けることであった。日本という島国のなかだけで物事をみていたのでは、どうしても偏頗な価値観に陥ってしまう。伸一は、青春時代にその殻を打ち破る契機を与えたいと思った。

世界各国のリーダーを、積極的に招くようにしてきた。
関西学園には、現在までにゴルバチョフ元ソ連大統領、モスクワ大学のログノフ前総長等々、来校者の
数は51カ国・地域、1500人以上に及んでいる。

関西創価学園は、今や東京の創価学園とともに、日本を代表する最優秀の人間教育の府となった。卒業生は、教育関係者も多い。さらに、医師、弁護士、公認会計士、議員などとして社会に貢献するメンバーも数多い。その活動の舞台は、日本国内にとどまらず、世界5大州に及んでいる。

伸一が何より嬉しいのは、学園出身者が、民衆を守り、民衆に奉仕する精神を堅持し抜いていることだ。

学園出身者は、「平和をいかに創造するか」「人間のための社会をどう実現するか」といった、人類の不幸をなくすための闘争を永遠にとどめてはならない。不幸を見過ごすな!民衆を守れ!人間を守れ!平和を守れ!それこそが、山本伸一の学園生への遺言であり、魂の叫びなのだ。

<希望の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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