『新・人間革命』第9巻 光彩の章 P260~

長谷部は、日々、懸命に唱題に励んだ。“当たって砕けろ!”と 版画を持って有名な画廊を尋ねてみた。
予期せず、「面白いじゃないか」と画廊が、作品を買い取ってくれた。長谷部にとって、これが大きな自信となり、信心への確信につながっていったのである。

長谷部に信心を勧めた春野は、間もなく40歳になろうとしていた時、フランスに渡った。人生の背水の陣であった。山本伸一は二人の話を聞くと、力強い口調で言った。「仏法のうえから見るならば、深い使命があって、パリに来たのだから、精進を重ねていくならば、大成することは間違いありません。」

「これからは、真実の仏法を根底にした、新しい文化、芸術が花開いていかなければならない。その先駆者が、また、それを証明していくのが、あなたたちです。」と期待した。

メンバーのなかには、フランス人の青年もいた。伸一は、二人のフランス人に、大きな期待を託した。

10月10日、山本伸一は、東欧のチェコスロバキアのプラハに向かった。実際に、共産圏の国に足を踏み入れるのは、これが初めてであった。飛行機が説明もなく出発が遅れていた。やがてチェコスロバキアの政府高官が傲然たる態度で、席に着くと、飛行機は出発した。

伸一は、彼らの態度から、社会主義国では階級的差別はないという説明と現実とは、相当な違いがあることを直感した。チェコスロバキアでは、戦後に共産党の一党独裁の体制がつくられてから、16年が過ぎていた。

空港からホテルに向かう車中、ドライバーに話しかけると、家族のことは屈託なく話してくれたが、国のことを尋ねると口を閉ざし、警戒しているようだった。何か、目に見えぬ力に抑えられ、怯えているかのようでもあった。

翌朝、ハンガリーのブタペストに到着した。市内を視察すると、ハンガリー事件の時に、民衆が銅像を倒して、市中を引き回したという、スターリンの銅像の台座だけがポツンと置かれていた。壁にも弾痕が残る建物があった。

「ハンガリー事件」は、1956年2月、ソ連共産党のフルシチョフ第一書記らが、3年前に死去した「スターリン批判」をし、共産圏の東欧諸国にも動揺をもたらし、自由を求める機運が高まっていった。10月23日、ハンガリーの人びとが動いた。

政権を独占してきたハンガリー労働党は、市民の要求を聞き入れたが、その一方で、戒厳令を敷き、駐留ソ連軍の出動を要請し、ソ連軍の戦車や兵士がブタペスト市内に侵入した。これにより、市民の怒りは頂点に達し、ブタペストの内乱は、ハンガリー全土に広がった。

この事件により、数千人が死亡し、約20万人が亡命したといわれる。

伸一は、社会主義について、考えざるをえなかった。プラハでも、物乞いをする子どもたちも見ることはなかった。しかし、人びとの表情は暗く、寡黙であり、何かに怯えるかのような印象があったことは否めない。

それにしても、社会主義国にあって、なぜ、スターリンのような、血の粛清を重ね、無数の人びとの生命を奪った独裁者が作られたのか。また、なにゆえ、強権主義、官僚支配が生まれ、かくも民衆の自由が奪われてしまうのだろか。

共産主義を生み出すに至ったマルクスの理論構築の動機には、ヒューマニズムがあったことは事実だ。彼は、人間を「階級」という枠でとらえ、社会の矛盾や悪の根源を、「階級」の対立に見いだした。そして、この対立をなくすことによって、矛盾や悪の根を断つことができると考えた。

しかし、その人間の洞察は、あまりにも表層的であった。人間の欲望やエゴイズムは、理性や自覚化された意識の力で、すべてコントロールできるほど、単純なものではない。

善も、悪も備え、無限の可能性を秘め、瞬間瞬間、躍動してやまぬ生命的存在が人間である。ところが、マルクスは、この限りなく深い、人間の内面を徹底して見すえず、その全体像を把握することはなかった。


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋