小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

牧口常三郎

牧口常三郎 大善生活法

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 368p~

牧口は、すべての子どもに愛情を注いだが、貧しい子ども、悩める子どもには、特に心を砕いた。また、権力に迎合し、身の安泰を得るような生き方を嫌った。

大正小で、地元の有力者が、自分の子どもを特別扱いするように、頼みに来た。牧口が断ると、その有力者は、東京市政を牛耳る大物政治家に、牧口の排斥を要請する。大物政治家は、牧口を左遷する。牧口の転任の撤回を求め、教員が辞表を提出したり、保護者が同盟休校に踏み切るが辞令は撤回されず、西町小の校長に移動となる。

この赴任に際し、大物政治家のところへあいさつに行かなかったことで、大物政治家は、ますます怒り、赴任わずか3か月で、三笠尋常小学校へ転任となる。ここは、貧困家庭の子どもたちのために設けられた「特殊小学校」であった。教師の間では「辞めさせることが狙いだ」と囁かれ、同校は"首切り場所"などと言われていたのだ。

この転任に対しても、留任運動が起こったが、牧口は転任となり、代用教員となっていた戸田は、人生の師と定めていた牧口の後を追い三笠小に移った。

師匠が最大の窮地に立った時に、弟子が何をするのかーーそれこそが、本当の弟子か、口先だけの、あわよくば師を利用しようとする弟子かを見極める、試金石といえよう。

牧口常三郎は、同時に住居も、家族と共に学校内にある官舎に移した。当時の三笠小は、15学級800人の児童が3部に分かれて教授を受けていて、4年以下が午前と午後、5、6年は 全部夜間ということになっていて、授業は21時乃至24時であった。

授業は、なんと午前零時まで行われていたのだ。校長の牧口が、校内にある官舎で暮らしたのは、まさに24時間、児童のために尽そうと覚悟していたからだ。

腹をすかせ、弁当も持たずに登校してくる子供のために、牧口は豆餅などを用意した。工場から自宅に帰れずに学校へ来る夜学生への、食事の給与も考えていた。

牧口の教育目的は、明快である。「幸福が人生の目的であり、従って教育の目的でなければならぬ」ーー教育思想家としての彼の眼差しは、早くから、子どもの幸福の実現という一点を見すえていた。


彼は、教育現場にあって、児童の就学率の上昇、教育環境の整備、学力の向上など、多くの実績を残した。また、半日学校制度や小学校長登用試験制度などを提唱し、教育制度の改革にも力を尽くしていった。

子どもの幸福を実現するための教育をめざした牧口にとって、「幸福とは何か」ということは、最大のテーマであった。彼は、それは「価値の獲得」にあるとした。では、価値とは何かーー思索は掘り下げられていく。

牧口は、新カント派の哲学者が確立した「真・善・美」という価値の分類に対して、「美・利・善」という尺度を示した。「真理」の探究は、手段的なものであり、それ自体は目的とはなり得ないとして、「真」に代わって「利」すなわち「利益」を加えた。

生活苦に喘ぐ庶民の子らに接してきた牧口は、自身の経験のうえから、「利」の価値の大切さを痛感していたのであろう。彼は、「美醜・利害・善悪」を、価値判定の尺度としたのだ。画期的な、新たな価値論の提唱である。

日蓮仏法と出会った牧口は、その教えを価値論の画竜点睛とした。彼は、社会的価値である「善」には、人びとに金品を施すことなど、さまざまるが、現世限りの相対的な「善」ではなく、「大善」に生きることを訴えた。

牧口のいう「大善」とは、三世永遠にわたる生命の因果の法則に基づく生き方である。つまり、法華経の精髄たる日蓮仏法を奉持し、その教えを実践し、弘めゆくなかに「大善」があり、そこに自他共の真実の幸福があるというのが、牧口の結論であった。

「吾等各個の生活力は悉く大宇宙に具備している大生活力の示顕であり、従ってその生活力発動の機関として出現している宇宙の神羅万象ーーこれによって生活する吾吾人類もーーに具わる生活力の大本たる大法が即ち妙法として一切の生活法を摂する根源であり本体であらせられる」

そして、その妙法を根本とした生活法を、「大善生活法」と名づけた。この大善生活法を人びとに伝え、幸福の実験証明を行うことに、彼は生涯を捧げたのである。いわば、広宣流布という菩薩の行に生き抜くなかに、自己の幸福が、そして、社会の平和と繁栄があると、牧口は訴えたのである。

子どもの幸福を願う彼の一途な求道は、広宣流布という極善の峰へ到達したのだ。


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

教育者 牧口常三郎

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 356p~

五木村でも、死者・行方不明者11人、流失・全壊家屋144戸、半壊家屋45戸という甚大な被害に見舞われたのである。学会では、直ちに、派遣隊を結成し、被災地入りした。川は随所で氾濫し、家が流され、山津波にのみ込まれた家も続出した。道が土砂で埋もれ、孤立してしまった集落もある。

五木の同志は、派遣隊への伸一の伝言を聞くと涙が止まらなかった。そして、被災者である彼らの多くが、派遣隊と共に、救援活動に奔走したのだ。

五木村は旧習が深く、土俗信仰が盛んな地域であった。学会への無認識と偏見から、反発が起こった。ある集落では、周囲の反対のうえに、会員間の怨嫉問題もあり、十数世帯ほどいた学会員が、一時は、3世帯にまでなってしまったという歴史があった。困難とは、発展のための階段である。

そのなかで起こった集中豪雨であった。学会の派遣隊は、川に架けられたロープを使って、濁流を越え、孤立した集落に救援物資を運んだ。派遣隊が背負った物資の荷物には、同志のための「聖教新聞」もくくりつけられていた。

五木村では、同志の奮闘が、大きく学会理解の輪を広げる結果となった。「学会の人が、自身も被災しながら、派遣隊と一緒に救援活動する姿に、勇気を得た」と語る人もいた。非常事態は、人間のさまざまな虚飾を取り除く、その時、信仰によって培われた人間性の地肌が、輝きを放つのである。

治水のため、ダム建設の計画が具体化していったのである。幾人ものメンバーから村の様子について綴られた手紙が伸一に届く。伸一は、長男が生まれたころ「五木の子守歌」を聞いた時、その哀切な調べが胸を突いた。守子は、7歳~15歳ぐらいまでの少女で、多くは、他郷から守子に出された貧しい家の子であり、学校も通わせてもらえなかったいたいけな娘の姿が、目に浮かんだ。

歌には自分の境遇への諦めが漂っているように感じられたが、後年、70ほどの子守歌を収めた一冊の本を読んで、守子たちの強かな感情の表出を見た思いがした。そこには、自分の置かれた境遇をただ嘆きつつ、耐え忍ぶだけの、か弱い乙女の姿とは、別の顔が浮かび上がる。不条理への抗議の心が、あふれ出ていた。人間には、誰もが力を秘め、そして、誰にでも、幸せになる権利があるのだ。

守子たちは、路上などに集まって子守をした。彼女たちの強かさを支えたものの一つは、守子同士の"姉妹的結合"であったことは間違いない。孤独感は、心を弱くするが、人との強い絆を自覚するならば、心は鉄の強さを持つ。

大人社会の歪みの犠牲となる子どもたちの実態を、教育者としてつぶさに見て、改革に立ち上がったのが、初代会長の牧口常三郎であった。牧口自身も、その幼少期は不遇であったといってよい。

牧口は、1871年(明治4年)の6月6日新潟県柏崎市荒浜に生まれた。渡辺長松・イネの長男であり、長七と名づけられた。父は、北海道へ出稼ぎに行ったまま行方不明となり、母は再婚し、長七は、父長松の妹の嫁ぎ先牧口善太夫の養子となった。

13歳の時、北海道へ渡り、寸暇を見つけては読書と勉学に励み、推薦され、北海道尋常師範学校(北海道教育大学)に入学する。卒業すると同校付属小学校の教員としてスタートを切る。21歳の時、「長七」の名を「常三郎」と改めた。

彼は、地理学の研究を重ね、書き溜めた原稿を携え東京に渡った。1903年10月『人生地理学』を出版する。風土、地形、気候などの地理的現象が、人間生活にどのような関わり合いをもつかを探求した書であった。

出版直後から、中国人留学生のために設けられた弘文学院の教壇に立ち、地理学を教えた。同時期に、魯迅もこの学校で学んでいる。牧口は、彼らをこよなく敬愛し、大切に接した。中国の青年たちは、牧口の『人生地理学』を翻訳して、発刊している。

"学びたくとも学べない人に、修学の場を与え、学の光を送りたい"というのが、教育者・牧口の、一貫した姿勢であった。

その後、牧口は、東盛尋常小学校をはじめ、大正、西町、三笠、白金、麻布新堀の尋常小学校で、校長を歴任することになる。


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

牧口常三郎の創価教育学体系

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P303~

「牧口先生の残された創価教育は、人類の偉大なる精神遺産だ。日本だけでなく、世界の人びとのためのものです。いつになるかわからないが、私は、アメリカにも必ず、創価大学を建設する決意なんです。その大学で、世界平和のために、人間主義の大指導者を、本格的に育成していきます。いずれにしても、教育は、私の最後の事業であると思っています。」伸一の構想は、限りなく広大であった。

創価高校に中学校を併設することが決定し、初代会長牧口常三郎の祥月命日であり、後に学会創立記念日になった11月18日に、起工式が、晴れやかに行われたのだ。

伸一は、戦後、機会均等を基本原理とする戦後の民主主義教育の実施は、国民共通の基礎教養を高め、高校への進学率もあがり、1965年(昭和40年)には、全国平均で7割を超えるに至っていた。しかし、残念なことには、その教育の普及が、「人間をつくる」という教育本来の目的に、つながっていないのが実情であった。

教育の普及は、一方で、学歴偏重主義を招き、受験競争は異様なまでに過熱化し、友達を敵と考える高校生も少ないという事態を、もたらしていたのである。

伸一は、もし、このまま、確固たる教育理念もなく、青少年の心の荒廃が続けば、どうなるのかと考えると、暗澹たる思いにかられた。そのたびに、人生の根本目的を教え、強く豊かな心を、人間性を培う教育が行わなわれなければならないと、痛感してきた。

そして、"牧口先師の創価教育学を実践する学校を、一日も早く建設しよう"と、心に誓ってきたのである。牧口常三郎の創価教育学とは、一言でいえば、「人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する」知識体系といえる。

牧口は、教育の目的は子ども自身の幸福にあると主張し、社会人として幸福生活を営めるようにしていくことに、教育の役割があるとしている。そして、真の幸福生活を実現するには、自他ともの幸福を築くことが不可欠であり、いわば、個人の幸福と社会の繁栄が一致する社会の在り方をめざすものが、教育であるとしている。

牧口は、「半日学校制度」など、教育制度や教育方法の具体的な改革案を打ち出していった。創価教育学は、彼の30余年にわたる学校教育の実践のなかで培われ、実証に裏付けられた教育法であった。つまり、それまでの、観念的哲学理論で構成され、実証性に乏しい教育学とは一線を画した、独創的な教育学説であった。

『創価教育学体系』の第1巻には、当時の日本を代表する3人の学識者が序文を寄せている。新渡戸稲造、民族学者の柳田国男も称賛し、フランス社会学の研究家田辺寿利は、「現代の日本が最も要求するところの教育学である」とし、フランスの昆虫学者ファブルを フランスの誇りとし、文部大臣として、フランスの名において懇篤なる感謝の意を表したと述べ、「文化の国日本は、如何なる方法によって国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」と記している。

ところが、日本は、"国賊"とし、獄死をもって遇したのだ。それは、未来永劫に消えぬ、日本国家の汚点であろう。

創価学園の建設は、山本伸一にとって、先師・牧口常三郎の教育思想と正義を宣揚する、第三代会長としての戦いであった。

1967年に、学校法人創価学園の設立、創価中学・創価高校の設置を東京都に申請し、学校設立への動きはいよいよ本格化していったのである。

校章は、中央にペンがあり、その左右に鳳雛の羽が図案化されていた。スクールカラーについても、「英知」「栄光」「情熱」を表す、「青」「黄」「赤」の三色に決まった。

学校法人の認可も下り、開校への歩みは、大きく加速された。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

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