『新・人間革命』第25巻 人材城の章 321p~
女子部の若いリーダーには、年長の部員さんに信頼されるように、適切なアドバイスができない場合には、先輩幹部や、経験豊かな婦人部の幹部に会わせ、相談にのってもらうことが大事だと話す。
「皆さんに、新しい時代の、新しい幹部像をつくっていってほしいんです。これまで、幹部というと、"号令をかける人"との印象があったかもしれない。しかし、これからは、そうではありません。"自ら率先垂範で、何をすべきかを示していく人"が、新時代のリーダーです。
自分が真っ先に行動を起こして、『こうやって実践しています』と語っていくことが重要なんです。失敗も語ってください。結果は実っていなくとも、挑戦の苦闘と喜びを、ありのままに語り、頑張り続けていくという決意をぶつけていくんです。
そうすれば皆が、"それなら、私にだってできる。私も挑戦しよう"という思いをいだいていきます。一生懸命で健気な姿勢に、人は、世代を超えて共感するんです。ありのままの自分、等身大の自分でいいんです」伸一は、一人ひとりを知り、未来の大成のために、発心の種子を植えておきたかったのである。
「広宣流布の主体者になることこそが、福運を増す要諦なのであります。ゆえに、"守られる側から、同志を守る側になろう""受働から能動の姿勢に立とう"とするなかに、大聖人につながる信心の確立があることを、私は訴えておきたいのであります」
「人材は自然に育つものではありません。人材を育成しようとする先輩幹部の、誠意あふれた行動によってのみ、後輩たちの人材たろうとする使命の自覚がなされていきます。人間を育むのは、どこまでも人間です。"ここまで自分を信頼し、期待してくれているのか!""自分のことを思い、尽くしてくれるのか!"という、熱い真心に触れて、使命に生きようという意志力が燃え上がるんです」
「先輩幹部は、"どうすれば人材の活躍の場をつくれるのか"を常に、一生懸命に悩み考えていくことが大事なんです。どうか、熊本県の皆さんは、今後は『人材の熊本』を合言葉として、幹部自らが"人材になろう!人材をつくろう!"と、強い祈りと持続の実践をもって、多くの逸材を育んでもらいたいのであります」
伸一は、さらに、「広宣流布は、長途の旅ゆえに、健康に留意し、リズム正しい信心即生活の日々であれ」と訴えた。「生活のなかに運動を上手に取り入れて、体を鍛えていくことも必要です。また、無理をしても、信心しているんだから…という安易な考えで、非常識な行動をし、生活のリズムを崩し、体を壊すようなことがあっては、絶対になりません」
初めて熊本県を訪問した折のことを話す伸一。「戸田先生は、『熊本に行きたい』と言われていたが、実現できずに、4月に亡くなられた。だから、"戸田先生に代わって、私が熊本へ行こう!そして、皆が、心から歓喜、感動し、決意を新たにする支部結成大会にしよう"と、心に決めていたんです。
師を凌ぐ戦いができてこそ、本当の弟子なんです。師が指揮を執っていた以上に、広宣流布を前進させてこそ、令法久住なんです。その勝利のなかに、師弟不二があるんです」
それは、恩師の逝去から、7か月後のことであった。当時、学会の一切の責任は、事実上、30歳の伸一の双肩にかかっていたのだ。
益城本部長の坂上良江は、熊本県の三角に第一歩をしるされた日を「三角の日」と決め、当時、三角駅にあった長椅子を地元の佐々井ユリが譲り受け宝としていると話す。
「私の基準は、御書であり、それを実際に身で読まれ、実践されてきた戸田先生です。"こう
いう時、先生ならどうされるか""自分の今日の行動は、先生のご精神にかなったものであるのか""先生が今の自分を見たら、喜ばれるのか、悲しまれるか"そして、"必ず、先生にお喜びいただける勝利の戦いをしよう"と、自分を鼓舞してきたんです。それが、私の勇気の源泉です。常勝の原動力なんです」
師弟不二とは、師の心をわが心として生きることであり、いつ、いかなる時も、己心に厳として師匠がいることから始まる。師匠を"自分の心の外にいる存在"ととらえれば、師の振る舞いも、指導も、自身の内面的な規範とはならない。
そして、師匠が自分をどう見ているかという、師の"目"や"評価"が行動の基準となってしまう。そうなると、"師匠が厳しく言うから頑張るが、折あらば手を抜こう"という要領主義に出していくことになりかねない。そこには、自己の信心の深化もなければ、人間革命もない。
太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋
女子部の若いリーダーには、年長の部員さんに信頼されるように、適切なアドバイスができない場合には、先輩幹部や、経験豊かな婦人部の幹部に会わせ、相談にのってもらうことが大事だと話す。
「皆さんに、新しい時代の、新しい幹部像をつくっていってほしいんです。これまで、幹部というと、"号令をかける人"との印象があったかもしれない。しかし、これからは、そうではありません。"自ら率先垂範で、何をすべきかを示していく人"が、新時代のリーダーです。
自分が真っ先に行動を起こして、『こうやって実践しています』と語っていくことが重要なんです。失敗も語ってください。結果は実っていなくとも、挑戦の苦闘と喜びを、ありのままに語り、頑張り続けていくという決意をぶつけていくんです。
そうすれば皆が、"それなら、私にだってできる。私も挑戦しよう"という思いをいだいていきます。一生懸命で健気な姿勢に、人は、世代を超えて共感するんです。ありのままの自分、等身大の自分でいいんです」伸一は、一人ひとりを知り、未来の大成のために、発心の種子を植えておきたかったのである。
「広宣流布の主体者になることこそが、福運を増す要諦なのであります。ゆえに、"守られる側から、同志を守る側になろう""受働から能動の姿勢に立とう"とするなかに、大聖人につながる信心の確立があることを、私は訴えておきたいのであります」
「人材は自然に育つものではありません。人材を育成しようとする先輩幹部の、誠意あふれた行動によってのみ、後輩たちの人材たろうとする使命の自覚がなされていきます。人間を育むのは、どこまでも人間です。"ここまで自分を信頼し、期待してくれているのか!""自分のことを思い、尽くしてくれるのか!"という、熱い真心に触れて、使命に生きようという意志力が燃え上がるんです」
「先輩幹部は、"どうすれば人材の活躍の場をつくれるのか"を常に、一生懸命に悩み考えていくことが大事なんです。どうか、熊本県の皆さんは、今後は『人材の熊本』を合言葉として、幹部自らが"人材になろう!人材をつくろう!"と、強い祈りと持続の実践をもって、多くの逸材を育んでもらいたいのであります」
伸一は、さらに、「広宣流布は、長途の旅ゆえに、健康に留意し、リズム正しい信心即生活の日々であれ」と訴えた。「生活のなかに運動を上手に取り入れて、体を鍛えていくことも必要です。また、無理をしても、信心しているんだから…という安易な考えで、非常識な行動をし、生活のリズムを崩し、体を壊すようなことがあっては、絶対になりません」
初めて熊本県を訪問した折のことを話す伸一。「戸田先生は、『熊本に行きたい』と言われていたが、実現できずに、4月に亡くなられた。だから、"戸田先生に代わって、私が熊本へ行こう!そして、皆が、心から歓喜、感動し、決意を新たにする支部結成大会にしよう"と、心に決めていたんです。
師を凌ぐ戦いができてこそ、本当の弟子なんです。師が指揮を執っていた以上に、広宣流布を前進させてこそ、令法久住なんです。その勝利のなかに、師弟不二があるんです」
それは、恩師の逝去から、7か月後のことであった。当時、学会の一切の責任は、事実上、30歳の伸一の双肩にかかっていたのだ。
益城本部長の坂上良江は、熊本県の三角に第一歩をしるされた日を「三角の日」と決め、当時、三角駅にあった長椅子を地元の佐々井ユリが譲り受け宝としていると話す。
「私の基準は、御書であり、それを実際に身で読まれ、実践されてきた戸田先生です。"こう
いう時、先生ならどうされるか""自分の今日の行動は、先生のご精神にかなったものであるのか""先生が今の自分を見たら、喜ばれるのか、悲しまれるか"そして、"必ず、先生にお喜びいただける勝利の戦いをしよう"と、自分を鼓舞してきたんです。それが、私の勇気の源泉です。常勝の原動力なんです」
師弟不二とは、師の心をわが心として生きることであり、いつ、いかなる時も、己心に厳として師匠がいることから始まる。師匠を"自分の心の外にいる存在"ととらえれば、師の振る舞いも、指導も、自身の内面的な規範とはならない。
そして、師匠が自分をどう見ているかという、師の"目"や"評価"が行動の基準となってしまう。そうなると、"師匠が厳しく言うから頑張るが、折あらば手を抜こう"という要領主義に出していくことになりかねない。そこには、自己の信心の深化もなければ、人間革命もない。
太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋