小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

海外留学生

世界の大学との学術・教育交流

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 278P~ 

創価大学には、最優秀の留学生が世界中から集っている。山本伸一は、創価大学が”人類の平和を守るフォートレス”の使命を果たしていくには、国際交流が大切であると痛感していた。

彼は、自らその道を開こうと、1972年(昭和47年)には、イギリスのケンブリッジ大学、オックスフォード大学を訪問し、大学の要職者と意見交換、翌年にはフランスのパリ大学、イギリスのサセックス大学で、大学首脳や学生との懇談、75年には、香港中文大学と学術交流の覚書を交換し、創価大学にとって、最初の交流協定をおこなった。

アメリカ、ニューオーリンズ大学、パナマ大学、ペルーのサンマルコス大学などを訪問。カリフォルニア大学では、初の記念講演を行っている。その後、ハーバード大学、モスクワ大学など世界各国の大学・学術機関で講演を行っている。

伸一は、社会主義国の大学にも精力的に足を運び、中国の北京大学、ソ連のモスクワ大学、レニングラード大学を訪問した。

4度目の「創大祭」の折、山本伸一に第一号の「名誉教授」の授与が検討されたが、伸一は、辞退した。しかし学長らは、「やがて、世界の大学から名誉称号が贈られるようになることは間違いない。わが大学が最初にお贈りできなかったら、後世永遠に汚点を残すことになる」との再三の要請に、伸一はやむなく了解した。

伸一は、第一回卒業式が迫ると、一期生へのせめてもの励ましとして、自分の蔵書から選んだ本を代表に贈り、学生の名前を記し、その脇に自分の名前を書いていった。

卒業式には、なんとしても出席して、建学の4年間の労に報いようと、心に決めていた。”創価大学に来てくれてありがとう。生涯、私とともに、道を開き続けてくれたまえ!自身の栄光のために、後輩たちのために、決して負けるな!”

卒業式の最後に、創立者の山本伸一があいさつに立った。「私の信ずる仏法には『霊山一会儼然として未だ散らず』との心で生き抜くことを、この席において盟約してはどうかと、ご提案申し上げたいと思いますが、いかがでありましょうか!」皆が大拍手で応えた。

伸一の提案は、皆の思いを代弁するものであったといってよい。

また、人生の成功のカギとして、金銭問題には断じて正義感を崩さず、異性の問題には慎重に、懸命に臨み、職場の人事問題で悩むことがあっても、「人生修行」と受け止めていくことが大事であると訴えたのである。

そして、こう話を結んだのである。「学ぶのは、充電であり、それを役立ていくのは発電であります。一生、この充電、発電を絶やさずに繰り返していけるようになったならば、その人は必ず人間の勝利者になっていくでありましょう」

”大学の真価は卒業生で決まる。君たちの前途には、烈風の日々もあろう。暗雲に包まれる時もあるだろう。しかし、創大生なら断じて勝て!”伸一は、心で、そう呼びかけながら、皆を抱きしめる思いで、握手を交わしていった。


一期生が卒業した、この1975年(昭和50年)の春、創価大学は、中国政府の派遣留学生を受け入れている。創価大学の国際交流が、本格的に開始されたのである。

創価大学との学術・教育交流は、その後、世界各地に広がっていった。76年(昭和51年)、創価大学は、留学生のために、別科日本語研修課程を開設した。

別科開設以来、別科に学んで留学生は約1900人(2005年現在)にのぼっている。そして、伸一の願い通り、国境を越えた友情の輪が、幾重にも結ばれていったのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

国教を超えて 平和に貢献する 人材育成

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 266P~ 

国境を超えて、人類の幸福と平和のために貢献できる人材を創価大学で育てたいーーそれが、山本伸一の念願であった。

一期生に、経済学部で学ぶ金敏江という在日韓国人の女子学生がいた。朝鮮民族が日本人から受けた、韓国併合以来の非道な歴史を知り、怒りに燃え、その憤慨は、いつしか日本人への嫌悪感となり、憎しみともなった。

彼女は重度の結核にかかり、治療のために入院する。そこで仏法の話を聞き入会し、唱題に励むと、医師が驚くほど、病状は回復していった。

金は、山本先生が創立した創価大学で学びたいと受験し、一期生となった。創立者と接し、生き方を学ぶにつれ、伸一への尊敬の念が深まり、”生涯の師に巡り合えた”と思った。しかし、それとともに、このまま日本の大学に同化していくことは、韓国人への背信行為ではないかと悩んだ。

その悩みを職員から聞いた伸一は、彼女と懇談する機会をもち、彼女に声をかけた。「人間が人間であるという視点に立つならば、どこの国籍であるとか、民族だとか、そんなことは問題ではありません。ちっぽけなことです。あなたは、一人の人間として、自由に伸び伸びと頑張ってください。見守っています」

伸一の話に、彼女は、胸に立ち込めていた靄のような思いが、スーッと晴れていくような気がした。伸一は、さらに語らいを続け、写真の裏に「元来、人間には国境なぞなかった。・・・ゆえに、私共は、国境の奥の次元の人間連帯に到達し、生きゆくことを忘れまい」と記して彼女に贈った。

彼女は魂を揺さぶられた。そして、”創大生であることこそが、私の原点だ。ここが、私の人間としての目覚めの大地だ。山本先生のこの励ましに、自分の生き方をもって応えていこう!”


彼女は、卒業の年に税理士の資格を取得し、晴れて早大出身の税理士第一号となったのである。また、女性平和運動のリーダーとしても、活躍していくことになる。

創価大学には、海外からの留学生も集うようになっていた。1973年(昭和48年)には、香港出身の二人の学生が入学した。そのうちの一人が、山本伸一が63年の1月に香港を訪問した折に、励ました周志英であった。香港から帰国する伸一を見送りにきた9歳の志英に伸一は、日本にくるよう話したのだ。

志英は、医学の道をめざしていたが、創価大学が開学すると医学部はなかったが、山本伸一をもとめて、日本行きを決意した。日本語の勉強をし、経済学部に合格した。もう一人の鄭芳芳という女性も合格した。

翌年伸一が、香港大学や香港中文大学を公式訪問する時、二人を香港に連れて行った。家族に会わせてあげたいとの伸一の配慮だった。二人には、通訳の手伝いをしてもらおうと思った。語学は、実践の場数を踏み、体験を積み重ねてこそ、本当の実力が身につくからだ。

伸一は、周に中国語の通訳もしてほしいと話す。広東語と北京語は、全く違うとわかっていたが、あえて、目標を持ってほしかったからだ。

周は猛勉強し、創大の中国語弁論大会で「特別賞」を受賞した。しかし、その翌月、父親が心臓病で急逝してしまった。以来、周は昼夜アルバイトしながらも北京語を学んび、さらに、貯金して、大学院に進む。周は、1978年の伸一の第4次訪中に、遂に北京語の通訳として同行することになる。

中国の国家を代表するような指導者の通訳としては、まだ経験不足であったが、彼により早く、真剣勝負の舞台に立たせたかったのである。その後周は、研鑽を重ね名通訳となり念願の世界平和に貢献していく。さらに、SGIの公認通訳の中心となり、多くの後輩を育んでいったのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』