『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P174~
移住地で同志と巡り合うことは、筆舌に尽くしがたい喜びであった。「南無妙法蓮華経」と朝晩唱えている人がいると聞くと、喜んで訪ねて歩いた。しかし、なかなか見つからなかった。学会員を見つけて、互いに飛びつくようにして抱き合い、固い固い握手を交わした。
移住地での活動は、都会と違って危険も多かった。活動途中で、ガラガラ蛇に遭遇することもあった。雨が降ると滑って歩けなくなり、裸足で歩くこともあった。
また、生活は、植えた種子が流されたり、霜や雹にやられたり、イナゴに食べられたり、作物の収入がなければ、日本から持ってきた金もそこをついてしまった。
そうしたなかで生きる学会員にとって、信仰は「立ち上がる力」であり、困難に屈せぬ「勇気の源泉」であった。だから皆、必死になって、信心に励んだ。同志のなかからは、さまざまな体験が生まれた。知恵を絞って、見事な収穫を得た人もいれば、自然災害の被害を免れた人もいた。その実証が、移住地の人たちの仏法への共感を広げていった。
また、亡くなった学会員の安らかな死相に感動し、信心をしたいと申し出る人もいた。1963年(昭和38年)にはパラグアイ支部が結成されたのである。
清原かつをはじめとする幹部5人がパラグアイの激励に向かった。空港には、ブラジル国境のイグアス移住地から、数百キロの道のりを4日がかりで駆けつけた、谷川郁夫という班長も迎えに来ていた。
一行は、メンバーの求道の息吹に、心洗われる思いがした。一人の青年が指導会に来る予定のメンバーが大雨で車がスリップし、来られないので、ジープで行ってほしいとの要望があり、メンバーは向かった。
午後3時ごろ、出発して、到着したのは、夜9時過ぎだったが、行き違いで危険を覚悟で会合に出発していた。急いで引き返したが、着いたのは午前1時を回っていた。100名を超す参加者でいっぱいの会場についた。どの質問にも、苦悩と心の葛藤がにじみ出ていた。
清原たちは、懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。
老婦人は、生まれつき目が見えない子が生まれたことから、批判を浴びせられ、家族は、針の筵に座るようないたたまれぬ気持ちで日々を過ごしてきた。「信心を頑張れば、目が見えるようになるか」との質問に、清原は、「信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれる。信心をして生まれてきた子どもに使命のない人はいません。」と指導し、この家族の心の闇を打ち破った。
指導を受け、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになり、家族も子どもの幸せを願い団結して、信心に励んでいった。
教学試験が行われると、大白蓮華や、聖教新聞が1、2部しかないため、皆が、ノートに写し、研鑽していた。そうした悪条件であるにもかかわらず、皆、実によく勉強していた。
派遣幹部たちは、思った。“もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けただろうか、皆に指導はしてきたが、学ぶべきは、自分たちの方ではないのか・・・”
信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。また、世界のいずこであろうと、今、自分のいる場所が、広宣流布の戦場であり、最高の仏道修行の道場であり、同時に、そこが常寂光土となるのである。
メンバーと山本伸一の念願が成就し、彼のパラグアイ訪問がじつげんするのは、1993年のことである。この訪問で、伸一は大統領、外相らと会見。そして、パラグアイ政府から、彼の世界平和への貢献を讃え、『国家功労大十字勲章」が贈られたのである。
移住地で同志と巡り合うことは、筆舌に尽くしがたい喜びであった。「南無妙法蓮華経」と朝晩唱えている人がいると聞くと、喜んで訪ねて歩いた。しかし、なかなか見つからなかった。学会員を見つけて、互いに飛びつくようにして抱き合い、固い固い握手を交わした。
移住地での活動は、都会と違って危険も多かった。活動途中で、ガラガラ蛇に遭遇することもあった。雨が降ると滑って歩けなくなり、裸足で歩くこともあった。
また、生活は、植えた種子が流されたり、霜や雹にやられたり、イナゴに食べられたり、作物の収入がなければ、日本から持ってきた金もそこをついてしまった。
そうしたなかで生きる学会員にとって、信仰は「立ち上がる力」であり、困難に屈せぬ「勇気の源泉」であった。だから皆、必死になって、信心に励んだ。同志のなかからは、さまざまな体験が生まれた。知恵を絞って、見事な収穫を得た人もいれば、自然災害の被害を免れた人もいた。その実証が、移住地の人たちの仏法への共感を広げていった。
また、亡くなった学会員の安らかな死相に感動し、信心をしたいと申し出る人もいた。1963年(昭和38年)にはパラグアイ支部が結成されたのである。
清原かつをはじめとする幹部5人がパラグアイの激励に向かった。空港には、ブラジル国境のイグアス移住地から、数百キロの道のりを4日がかりで駆けつけた、谷川郁夫という班長も迎えに来ていた。
一行は、メンバーの求道の息吹に、心洗われる思いがした。一人の青年が指導会に来る予定のメンバーが大雨で車がスリップし、来られないので、ジープで行ってほしいとの要望があり、メンバーは向かった。
午後3時ごろ、出発して、到着したのは、夜9時過ぎだったが、行き違いで危険を覚悟で会合に出発していた。急いで引き返したが、着いたのは午前1時を回っていた。100名を超す参加者でいっぱいの会場についた。どの質問にも、苦悩と心の葛藤がにじみ出ていた。
清原たちは、懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。
老婦人は、生まれつき目が見えない子が生まれたことから、批判を浴びせられ、家族は、針の筵に座るようないたたまれぬ気持ちで日々を過ごしてきた。「信心を頑張れば、目が見えるようになるか」との質問に、清原は、「信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれる。信心をして生まれてきた子どもに使命のない人はいません。」と指導し、この家族の心の闇を打ち破った。
指導を受け、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになり、家族も子どもの幸せを願い団結して、信心に励んでいった。
教学試験が行われると、大白蓮華や、聖教新聞が1、2部しかないため、皆が、ノートに写し、研鑽していた。そうした悪条件であるにもかかわらず、皆、実によく勉強していた。
派遣幹部たちは、思った。“もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けただろうか、皆に指導はしてきたが、学ぶべきは、自分たちの方ではないのか・・・”
信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。また、世界のいずこであろうと、今、自分のいる場所が、広宣流布の戦場であり、最高の仏道修行の道場であり、同時に、そこが常寂光土となるのである。
メンバーと山本伸一の念願が成就し、彼のパラグアイ訪問がじつげんするのは、1993年のことである。この訪問で、伸一は大統領、外相らと会見。そして、パラグアイ政府から、彼の世界平和への貢献を讃え、『国家功労大十字勲章」が贈られたのである。
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋