『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 49p
父は、信心はしなかったが、「伸一は、戸田先生に差し上げたもの」と言って、彼を温かく見守ってくれていた。伸一は、父が、最高峰の日蓮仏法に帰依することを、朝な夕な祈念し、機の熟するのを待っていた。
戸田は、伸一に言った。「君が強情な信心に立つことだ。大きく、立派な傘ならば、一つに何人も入ることができる。同じように、家族で、まず誰か一人が頑張れば、みんなを守っていくことができる。君が必死になって頑張り抜いた功徳、福運は、お父さんにも回向されていくよ」
父は、戸田に絶対の信頼を寄せていたし、学会のことも深く理解していた。それでも、父が信心せずに一生を終え、最高の親孝行ができなかったことが、伸一は、やはり、心残りであった。その後、兄弟たちも、次々と信心を始めた。
母は子に、無尽蔵の愛を注いで育ててくれる。子どもは、大威張りで、母に甘える。母が老いたならば、今度は、子どもが親孝行し、恩返しをする番である。子どもに、その「報恩」の自覚がなくなってしまえば、最も大切な人道は失せてしまうことになる。
伸一は、自分にできる、せめてもの親孝行として、母を背負って、坂道を歩こうと思った。小柄な母は、年老いて、ますます小さく、軽くなっていた。親孝行とは、何も高価なものを贈ることではない。親への感謝の思い、真心を伝えることである。親と遠く離れて暮らし、なかなか会えない場合には、一枚の葉書、一本の電話でも、心は通い合う。
苦労に、苦労を重ねてきた母である。しかし、健気に信心に励み、最後に「日本一の幸せ者」と言い切れる母は、人生の勝利を満喫していたに違いない。伸一は、病床の母に、日寛上人の「臨終用心抄」を簡潔に、講義した。母は、病床に伏しながら「うん、うん」と、目を輝かせて頷き、伸一の話を聴いていた。
仏の使いとして生きた創価の母たちは、三世永遠に、勝利と幸福の太陽と共にあるのだ。海よりも広く、深い、母の愛は、正しき人生の軌道へと、人を導く力でもある。
母たちが人間革命し、さらに聡明になり、この母性の美質を、思想化していくなかに、確かなる平和の大道が開かれるというのが伸一の信念であったのである。彼は、この「母」の詩にメロディーをつけて、わが母を、婦人部員を、そして、世界のすべての母たちを讃えたかったのである。
この「母」の歌は、国境を越え、多くの人に愛されていくことになる。1992年(平成4年)2月、インドを訪問した伸一と峯子は、「母」と「人間革命の歌」の曲が入ったオルゴールを持参した。どうしても贈りたい人がいた。故ラジブ・ガンジー元首相の妻ソニア夫人である。
伸一は、ソニア夫人に、家族のためにも、インドの民衆のためにも、苦難に負けずに、強く、強く、生き抜いてほしかった。ソニア夫人は、伸一の贈り物のオルゴールを、気に入ってくれたようであった。
再開した折、ソニア夫人は言った。毎日、聴いていたため、遂にオルゴールは壊れてしまったというのである。"インドの母"の心は、「母」の歌と、共鳴の調べを奏で、あのオルゴールに愛着をいだいていてくれたのだ。
創価大学のロサンゼルスキャンパスで、創価女子短大生が、米国の人権運動の母ローザ・パークスと懇談する機会を得た。短大生が尋ねた。「模範とされるのは、どなたでしょうか」「母です。」懇談のあと、短大生たちは、感謝の気持ちを込めて「母」を合唱した。彼女は感動した面持ちで歌に聴き入っていた。その目が涙で潤んでいた。
1994年初めての来日を果たし、創価大学で講演した。この時、パークスは、あの時の女子学生たちと会うことを希望していた。「母」の合唱が忘れられなかったのであろう。
中華全国青年連合会のメンバーが「母」の歌を歌いましょうと提案した。彼らも、この歌が好きなのだという。さらに、フィリピン国立リサール・システム大学のデレオン学長は、創価世界女性会館で、「母」の歌の合唱を聴いた。学長は、感動を噛み締めて語った。「魂を揺さぶられました。『母』に歌われている心は世界共通です」
太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋
戸田は、伸一に言った。「君が強情な信心に立つことだ。大きく、立派な傘ならば、一つに何人も入ることができる。同じように、家族で、まず誰か一人が頑張れば、みんなを守っていくことができる。君が必死になって頑張り抜いた功徳、福運は、お父さんにも回向されていくよ」
父は、戸田に絶対の信頼を寄せていたし、学会のことも深く理解していた。それでも、父が信心せずに一生を終え、最高の親孝行ができなかったことが、伸一は、やはり、心残りであった。その後、兄弟たちも、次々と信心を始めた。
母は子に、無尽蔵の愛を注いで育ててくれる。子どもは、大威張りで、母に甘える。母が老いたならば、今度は、子どもが親孝行し、恩返しをする番である。子どもに、その「報恩」の自覚がなくなってしまえば、最も大切な人道は失せてしまうことになる。
伸一は、自分にできる、せめてもの親孝行として、母を背負って、坂道を歩こうと思った。小柄な母は、年老いて、ますます小さく、軽くなっていた。親孝行とは、何も高価なものを贈ることではない。親への感謝の思い、真心を伝えることである。親と遠く離れて暮らし、なかなか会えない場合には、一枚の葉書、一本の電話でも、心は通い合う。
苦労に、苦労を重ねてきた母である。しかし、健気に信心に励み、最後に「日本一の幸せ者」と言い切れる母は、人生の勝利を満喫していたに違いない。伸一は、病床の母に、日寛上人の「臨終用心抄」を簡潔に、講義した。母は、病床に伏しながら「うん、うん」と、目を輝かせて頷き、伸一の話を聴いていた。
仏の使いとして生きた創価の母たちは、三世永遠に、勝利と幸福の太陽と共にあるのだ。海よりも広く、深い、母の愛は、正しき人生の軌道へと、人を導く力でもある。
母たちが人間革命し、さらに聡明になり、この母性の美質を、思想化していくなかに、確かなる平和の大道が開かれるというのが伸一の信念であったのである。彼は、この「母」の詩にメロディーをつけて、わが母を、婦人部員を、そして、世界のすべての母たちを讃えたかったのである。
この「母」の歌は、国境を越え、多くの人に愛されていくことになる。1992年(平成4年)2月、インドを訪問した伸一と峯子は、「母」と「人間革命の歌」の曲が入ったオルゴールを持参した。どうしても贈りたい人がいた。故ラジブ・ガンジー元首相の妻ソニア夫人である。
伸一は、ソニア夫人に、家族のためにも、インドの民衆のためにも、苦難に負けずに、強く、強く、生き抜いてほしかった。ソニア夫人は、伸一の贈り物のオルゴールを、気に入ってくれたようであった。
再開した折、ソニア夫人は言った。毎日、聴いていたため、遂にオルゴールは壊れてしまったというのである。"インドの母"の心は、「母」の歌と、共鳴の調べを奏で、あのオルゴールに愛着をいだいていてくれたのだ。
創価大学のロサンゼルスキャンパスで、創価女子短大生が、米国の人権運動の母ローザ・パークスと懇談する機会を得た。短大生が尋ねた。「模範とされるのは、どなたでしょうか」「母です。」懇談のあと、短大生たちは、感謝の気持ちを込めて「母」を合唱した。彼女は感動した面持ちで歌に聴き入っていた。その目が涙で潤んでいた。
1994年初めての来日を果たし、創価大学で講演した。この時、パークスは、あの時の女子学生たちと会うことを希望していた。「母」の合唱が忘れられなかったのであろう。
中華全国青年連合会のメンバーが「母」の歌を歌いましょうと提案した。彼らも、この歌が好きなのだという。さらに、フィリピン国立リサール・システム大学のデレオン学長は、創価世界女性会館で、「母」の歌の合唱を聴いた。学長は、感動を噛み締めて語った。「魂を揺さぶられました。『母』に歌われている心は世界共通です」
太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋