小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

歴史の研究

トインビー博士との対談始まる

『新・人間革命』第16巻 対話の章 P156~ 

日本では、その出発を記念し、学会本部を始め、全国の会館等で、盛大に勤行会が行われた。その席で、パリにいる伸一が書き送ったメッセージが紹介されたのである。

冒頭、伸一は、会長就任以来、12年間にわたる同志の健闘を讃え、深く感謝の意を表するとともに、新しき前進を呼びかけた。次いで、今や日蓮大聖人の御予言通り、世界広布の流れが開かれつつあることを語り、なかでも本年は「仏法史上刮目に値すべき一大転機の年」であると訴えた。

そして、広宣流布の使命を果たしゆくためには、各人が、自ら責任をもち、勇んで行動する「自発能動」の姿勢が大切であると強調。さらに、「一切法皆是仏法」の原理を体得し、礼儀や見識、人格などを磨いていくことが重要であると述べ、「時代は開け、世界の友が待っております。私も今月世界を回ります。皆さまも存分にご活躍ください・・・」と結んでいた。

今回の欧州訪問では、伸一がトインビー博士と対談することも、多くのメンバーが耳にしていた。“世界の知性が、創価学会に強い関心をもつようになったのだ。すごい時代が来た!”それが、学会員の実感であり、大きな誇りとなり、力となっていったのである。

5月3日を記念する勤行会は、パリ本部でも、山本伸一が出席して晴れやかに行われた。フランスを初め、ヨーロッパの広宣流布の歩みは、アジア各国やブラジルなどと比べて、これまで、極めて順調であったといってよい。しかし、日蓮大聖人は、「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」と仰せである。仏法の法理に照らすならば、常に順風満帆であるはずがない。必ず難が競い起こる。

「魔競はずは正法と知るべからず」である。この仏法の原理だけは、皆の生命に刻んでおかなければならないと彼は思った。

5月4日、山本伸一の一行は、ロンドンに到着し、翌日、トインビー博士の自宅に向かった。5階のエレベーターを降りると博士が待っていた。長身の博士が、少し身をかがめるようにして、手を差し伸べてきた。伸一はその手を、強く握りしめた。待ちに待った瞬間であった。

博士は伸一の顔をまじまじと見つめた。そして、何度も頷きながら言った。「待っていました。待っていましたよ・・・」伸一も、博士の顔を凝視した。

初対面ではあったが、これまで何度となく、書簡を交わしてきたこともあってか、何か懐かしい人と
再会したような思いにかられた。

博士は微笑を浮かべ、しきりに頷いた。そして、毅然とした口調で言った。「長い間、この機会を待っていました。やりましょう。21世紀のために語り継ぎましょう。私はベストを尽くします!」

歴史的な対談は開始された。窓を背に置かれたソファに、博士と伸一は、腰を下ろした。峯子とベロニカ夫人も同席した。対談は、伸一が用意してきた質問をし、博士がそれにこたえる形で進められた。

話が生命論や歴史哲学などに入り、難解さを増してくると、対談は暗礁に乗り上げてしまった。深遠な哲学的な話になると、直ちに的確に訳すことは難しかったのである。しかも、博士の語彙は極めて豊富であり、緻密で複雑な論理が展開されていた。そのうえ、博士の英語は、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の出身者が話す、独特のものであった。

博士に了解を得て、あとで、録音テープを聴いて、みんなで正確な日本語に翻訳することにした。

伸一は、海外を訪問するたびに、有能な通訳の必要性を感じてきたが、この時ほど、それを痛感したことはなかった。

“仏法の人間主義への共感を世界に広げていくうえで、優れた通訳の育成が喫緊の課題だ。語学陣の育成が遅れた分だけ、世界広布の遅滞をもたらすことになる。一日も早く、各国語の力ある通訳を育てなければならない・・・”伸一は、この対談の席であらためて、そう決意したのである。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

会長就任12周年を パリ本部で迎える

『新・人間革命』第16巻 対話の章 P142~ 

山本伸一は、トインビー博士との対談にあたって、三つの大きな柱となるテーマを考えた。それは、第一に「人間とは何か」という問題であった。伸一は、人間を、動物的側面や肉体的、精神的側面など、多面的にとらえ、人間を取り巻く自然環境、社会環境について考察したいと思った。そのうえで、「いかに人生を生きるべきか」という根本命題に迫りたいと考えていた。

第二に、世界の平和を実現する方途について、意見を交わしたかった。現代の国々がかかえる諸問題を直視しながら、なぜ、戦争が繰り返されてきたのか、その愚かな歴史を断ち切るには、人類はどうすればよいのかを、語り合いたかった。

第三に、生命の根源に迫る対話である。「生命とは何か」「人間はいずこより現れ、いずこへ消えていくのか」などである。宗教が文明の創造に、いかなる役割を果たせるのか、また、博士が主張する「究極の精神的実在」について意見交換することを希望していたのである。

ともあれ、東洋人である伸一と、西洋を代表する知性との対話である。人類の未来を開く示唆に富んだ対談にしなくてはならないと、彼は深く決意し、準備に余念がなかった。

伸一は、今回、初めてモスクワ経由でパリに向かった。フランスの理事長になっていた川崎鋭治は、7年前に自分の二間のアパートをヨーロッパ事務所としてスタートしたことを思うと、まるで夢のようだと話した。パリ本部は、芝生の庭が広がり、広間のある鉄筋コンクリート造り2階建ての建物や、3階建ての別棟などがあった。

伸一は、メンバーからの強い要請があり、パリ滞在中は、パリ本部に宿泊することにした。ホテルとの往復時間がもったいないという思いもあった。

5月1日、パリ本部の開館式が行われた。5年前には見なかった、新しい顔が多かった。国により、文化も、習慣も、考え方も異なる。それゆえに、世界広宣流布もまた、その国の人が立ち上がり、責任をもって推進してこそ、仏法が深く人びとのなかに根差していくのである。


伸一は、開館記念勤行会で“各国、各地域で、広宣流布の一つの目標として、まず10年先をめざして前進してはどうか”と提案した。

開館式のあと、会館の庭で、パリ本部のあるソー市の市長夫妻をはじめ、多数の来賓を招いて祝賀の集いが行われた。来賓の多くは、“創価学会の会長である山本伸一とは、いかなる人なのか”と、大いに興味をいだいていた。

“衣をまとった僧侶が、いかにも神秘的な雰囲気を漂わせた人物ではないか”と思っていた人が多かったようだ。しかし、スーツ姿で、丁重だが、気さくにあいさつを交わす伸一に、来賓は、一様に驚きを隠せなかった。

帰り際、来賓の一人が「あなたたちの仏教の教えがいかなるものか、私にはわかりません。しかし、山本会長と接していて、ありのままの姿で、誠意をもって、私たちを迎え入れてくださっていることを感じました。人間を大切にする心があふれていました。大事なのはヒューマニズムです。そのヒューマニズムを、あなたたちの団体に感じました。」と言った。

日蓮仏法の、国境を超えた、世界宗教としての今日の広がりは、「人の振る舞い」によるところが大きいといえよう。

会長就任12周年となる5月3日を、パリの地で迎えたのである。海外で5月3日を迎えたのは、初めてのことであった。それは、まさに“世界広布新時代”の到来を象徴していた。

学会では、この1973年(昭和47年)5月3日を、創価教育学会の創立から始まる、7年ごとの節である「七つの鐘」の、「第七の鐘」のスタートとしていた。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

トインビー博士からの招待

『新・人間革命』第16巻 対話の章 P129~ 

博士には、多くの批判があびせられたが、その大多数は批判のための批判であった。いわば、トインビー史観への根本的な無理解によるものであった。


彼が多大な影響を受けたドイツの哲学者シュペングラーは、『西洋の没落』を表し、西洋文明の終焉を予告した。博士が世界の文明を比較研究し、包括的な観点からとらえていったのも、現代の西洋文明全体の行方を考察しなければならないとの、強い思いからであったにちがいない。しかも、その西洋文明は、次第に世界化しつつあり、西洋の没落は、人類全体の未来ともなりかねなかった。

20世紀の半分も経ないうちに、二度にわたる世界大戦が行われ、核兵器までもが登場したのだ。それは、“没落”というより、人類の“終焉”の予兆ともいわざるをえなかった。博士の胸には、人類の未来を鋭く考察し、再生の道を探らねばならないとの、強い使命感が脈打っていたのであろう。

そして戦争は原爆の出現によって人類を抹殺するに至ったことを述べ、ボルテールの言葉をもって叫ぶ。「この忌まわしきものを根絶せよ」と。

伸一は、博士の挑戦に刮目した。まず、その学説が、従来の西欧中心型の歴史観から脱却している点に驚きを覚えた。歴史の多くは、勝者の側に立った記録といってよい。博士は、イギリス人である。博士が、西欧人として無意識のうちに芽生えてしまう、偏見や優越感と葛藤しながら、虐げられた民衆の「声なき声」に耳を傾け、執筆を続けたことに、伸一は感嘆したのである。

また、博士の歴史研究は、歴史の部分的、専門的解釈に終始するのではなく、グローバルな視点に立ち、現在、全類が抱えている諸問題に照準を合わせていた。そして、それらを乗り越える、曙光を探し出そうとする、ひたむきな姿勢に、伸一は、何よりも共感したのだ。

1969年 トインビー博士から書簡が届き、招待を受ける。博士が、伸一との対話を強く希望するに至った背景には、博士が現代文明の危機を超える高等宗教として、仏教に強い期待をいだいていたことがある。

博士の翻訳に携わった桑原武夫は、記している「政治権力によって教団が骨抜きにされてしまった日本とは異なり、宗教が政治権力と拮抗しうる力をもった西欧の知識人は、創価学会にたいして、日本の知識人とは比較にならぬほど強い興味をもっている。トインビーもその一人である」

学会へのいわれなき中傷も激しさを増していたころである。当然、それは博士の耳にも届いていた。しかし、博士は、皮相的な論難は学会の本質と関係ないことを達観していた。博士自信が、同時代の嫉妬の批判と戦ってきた信念の知性であった。

博士は、悪口罵詈を乗り越えて進む学会を通して、生々発展する東洋の「生きた宗教」の存在を感じとり、仏教の新たな可能性を見いだしていたにちがいない。世界に冠たる、曇りなき歴史家の慧眼は、鋭く創価学会の未来を見つめていたのだ。

“全く文化も宗教的な土壌も異なるトインビー博士からどこまで賛同をえられるか。そして、どこまで互いに共感し合えるのか”も、伸一の大きなテーマであった。それは、今後の世界広布を展望するうえで、極めて重要な試金石となるからである。

博士は、既に80歳になっていた。41歳の自分とは、親子ほどの年の開きがある。伸一には、あえて博士が、21世紀への精神的な遺産を残すために、若い自分を対談相手として選んだように思えた。

世界の情勢も、刻々と変化していた。中ソ対立は激しさを増し、一触即発の状況を呈していた。

“断じて、平和の潮流を築かねばならぬ!”それだけに、伸一の胸には、若い世代を代表して、博士とあらゆる問題について対話を重ね、教えを受けたいとの強い思いが吹きあげていた。



太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

アーノルド・ジョーゼフ・トインビー博士

『新・人間革命』第16巻 対話の章 P120~ 

<対話の章 開始>

1972年(昭和47年)4月29日、山本伸一は、パリへと向かった。今回の訪問先は、フランスのパリ、イギリスのロンドン、そして、アメリカのワシントンDC、ロサンゼルス、ホノルルであり、期間は 約1か月の予定であった。

今回の旅の最大の目的は、イギリスの歴史学者であるアーノルド・ジョーゼフ・トインビー博士との対談であった。20世紀を代表する歴史学者である。叔父は、著名な経済学者アーノルド・トインビーである。彼は、感受性の強い聡明な少年ではあったが、決して、いわゆる”優等生”ではなかった。

奨学金を受けるための試験にも挑んだが、2年目にようやく合格を果たしている。博士は、オックスフォード大学に進んで古代史を学び、研究 のための旅行中赤痢にかかり、結果的に第一次世界大戦の軍隊では不合格となる。

やがて、外務省の政治情報部を経て、ロンドン大学教授となり、「ギリシャ・トルコ戦争」の視察に出かけた。彼は、一方の主張だけを取り上げるのではなく、ギリシャの言い分にも、トルコの言い分にも公平に耳を傾けた。

オスマン・トルコによるアルメニア人の虐殺があったことから、人びとはトルコ人に憎悪と恐怖を感じ、「偏見」にとらわれていた。“それだけに、トルコ人の言い分を、よく理解する努力が必要だ!”そして、事実をありのままに原稿にして、「マンチェスター・ガーディアン」紙に送った。

すると「トルコ人に同情的であるとは何事だ!」と囂々たる非難の集中砲火が浴びせられた。イギリスでは猛反発を招くが、トルコ人には、喜びの大反響をもたらす。これによって同紙は、“イスラム教徒へのキリスト教的偏見に屈しなかった新聞”という永遠の栄誉に浴すことになる。

一方から、ものを見ただけでは、真実はわからない。より多くの視点からものを見れば見るほど、真実は浮かび上がってくるものだ。インビー博士は、”象牙の塔”に閉じこもることを潔しとはしなかった。現地に足を運び、より多くの人と対話し、行動する探究者であった。トルコの真実を伝えた彼は、やがてロンドン大学教授の座を失うことになる。しかし、イギリス王立国際問題研究所に迎えられたのである。

そして、いよいよ「歴史の研究」の執筆にも、着手したのである。刊行を重ねてきた『歴史の研究』が、10巻で一応の完結をみたのは、実に構想から33年を経た、54年のことであった。偉業というものは、気の遠くなるほどの忍耐と、執念を必要とするものだ。

『歴史の研究』は、従来の歴史学が単位としてきた、「民族」や「国家」の枠にはとらわれなかった。それは、「文明」を単位として考え、世界史は多くの文明の結合と考える、独創的な歴史研究であった。そして、すべての文明は、発生、成長、挫折、解体、消滅を繰り返していくという法則性を示したのである。

また、文明の盛衰は、自然をはじめ、環境の大きな変化や戦争などが人間に試練を与える時、その「挑戦」に屈せずいかに乗り越えていくかという「応戦」によって決まるとしている。

そして、他の文明によって征服されるという、最大の苦難の「挑戦」を受けた文明から、苦悩を乗り越えるための叡智として、高等宗教が生み出されると洞察していた。


第二次大戦後、縮刷版が発刊され、世界的に彼の名声が高まると、批判は激しく、辛辣なものになっていった。革新であればあるほど、批判は激しいものだ。それもまた、人の世の法則である。

博士は、自らの学説に寄せられた反論には、誠実に、思索、検討を重ねた。そして、正論は真摯に受け入れ、自説に誤りがあれば正していった。彼は、1961年批判をふまえて、自説を修正した「再考察」を、『歴史の研究』第12巻として発刊している。博士の、学問に対する探究心、謙虚さの表れといえよう。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』