小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

栄光寮

創価学園寮歌「草木は萌ゆる」

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P342~

伸一は、生徒たちに、楽しい思い出をつくらせたかった。また、一人ひとりのことを、よく知っておきたかった。皆に声をかけ、生徒の顔と名前、出身地などを、心に刻みつけるようにして覚えていった。
顔と名前を知ることこそ、人間と人間の絆を結び、深めていく、第一歩であるからだ。

伸一の提案を受け、寮祭として、寮の前のグラウンドで、ファイアーストームが行われることになった。この寮祭は、「栄光祭」と名づけられた。

玉川上水に架かる栄光橋の向こうに、グラウンドが完成したのは、夏休みの終わりであった。グラウンド開きは、9月6日に行われた。第一部は、競技大会、第二部のフェスティバルのフィナーレに学園寮歌が発表された。

寮歌は、寮生が、自分たちの手で作詞した歌である。寮長の永峰が提案し、生徒から歌詞が集まった。そのなかでも、大倉裕也という大阪出身の作品がひときわ光彩を放っていた。

一番では、「英知をみがくは 何のため」と問い、「時代の世界を 担わんと」と答えが示されている。二番には、「情熱燃やすは 何のため」「社会の繁栄 つくらんと」、三番には「人を愛すは何のため」「民に幸せ おくらんと」、四番には「栄光めざすは 何のため」「世界に平和を 築かんと」とある。

それは、自身の生き方を問い、崇高な目的を確認し、勇んで進みゆかんとする、壮大な気概の歌であった。慣れない寮生活で、ホームシックにかかったり、孤独に陥りもした。また、勉強も大変であった。その中で彼は、自分は何のために創価高校に進み、なんのために学ぼうとしているのかを、自身に問いかけ続けてきたのだ。

彼は、その答えを求めて、創立者である山本伸一の指導が載った聖教新聞や、伸一の著作を、むさぼるように読んだ。そうして紡ぎ出された自分なりの結論を、寮歌の歌詞に、書きつづっていったのである。それは、青春をかけた思索の結晶であった。

作曲は、学園の音楽教師である、杉田泰之に頼むことになった。生徒たちは、曲調は短調の日本的なリズムで、一人で歌っても自分を鼓舞できる、孤高の志を歌うようなイメージの曲を求めているのだと、過ぎたは思った。

こうして、寮歌「草木は萌ゆる」が完成したのである。学園寮歌を聞きながら、伸一は、彼らの一途な開道の心意気に、なんとしても応えたいと思った。そして、寮歌の五番の歌詞をつくって、贈ろうと考えた。四番までの歌詞を何度も読み返しては思索し、五番では、友情をうたおうと思った。

「・・・輝く友の 道拓く   未来に羽ばたけ 君と 僕」
学園生は、「君と僕」の歌詞に、二つの意味を感じとっていた。一つは、「君」は「友」であり、「僕」は「自分」である。そして、もう一つは「君」が「自分」であり、「僕」は、創立者である「山本伸一」である。

歌いながら、生徒たちは、伸一が極めて身近な存在に思えた。そして、ともに未来に向かって前進する、共戦の父子の絆を感じるのであった。

伸一は、生徒たちに、喜びにあふれた声で語り始めた。「『源と遠ければ流れ流し』という哲人の言葉がありますが、ここに集った皆さんの存在こそが、根本であり、源です。」

「私は創立者として、皆さんのことは一生涯わすれません。胸の中に叩き込んでおきます。このなかから、世界の平和を実現する偉大な指導者が、必ず出ると信じております。かつては、旧制高校の寮歌をうたった人たちが、日本の社会をリードしてきました。今度は、創価学園の寮歌を歌った人が、時代の指導者に、また21世紀のリーダーになっていくことは間違いない。学園寮歌が、日本中、世界中の人から愛唱される日も、さほど遠くないと確信しております。」

この寮歌「草木は萌ゆる」は、後年、創価中学・高校の校歌となるのである。

太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

創価学園開校

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P324~

教職員の選考は最終段階を迎えていた。生徒にとって、最も重要な教育環境は、建物でも、自然環境でもない。教師である。ゆえに、教師の選考には、特に力が入れられ、厳選されたのである。

選考にあたるメンバーに、山本伸一は訴え続けてきた。「教職員を大事にすることを、創価学園の伝統にしていってもらいたい。教育といっても、結局は、教育者によって、決まってしまうからです。」

開校にあたって、伸一は、教職員の代表と懇談の機会をもち、みんなで、力を合わせ、日本一の学校をつくろうと訴えた。

中学の志願者は、200人の募集に対し、800人近くに達し、高校の募集300人対し、1500人近くが出願した。合格者の自宅通学が困難な地域からの合格者は、予想をはるかに超え、寮に入ることができない80人ほどの下宿探しに奔走した。

なかには、学会への偏見と誤解から「創価学園」と聞いただけで、「学会の幹部の養成学校ですか」と尋ねる人もいた。一軒、一軒下宿先を開拓し、3月上旬には、すべて確保することができた。

入学式を終えた新入生と父母たちは、創価学園の正面ロータリーで伸一の到着を待ち、碑の序幕を行った。「栄光橋」と名付けた玉川上水に架かる橋のテープカットを行い、橋の意義を生徒たちに話した。

牧口常三郎と戸田城聖も、戸田と山本伸一の間にも、28歳ほどの年齢の隔たりがある。今、伸一は、40歳であり、この生徒たちとは、ちょうど同じくらいの年の差がある。彼は、世界の平和の実現のために、自分の後に続いてくれるであろう一期生との年齢差に、不思議な感慨を覚えた。

また、歴史を振り返れば、かのプラトンが、師のソクラテスの志を受け継ぎ、学園アカデメイアを創立したのも、40歳といわれる。伸一は、人生の最後の事業と定めた教育への挑戦を、今、この一期生とともに始めたことを思うと、闘志が沸々と込み上げてくるのであった。


午後も、「青年と鷲」の像の除幕式に臨んだ。伸一は、生徒たちに、「鷲は、どこまでも力強く、飛んでいく。空飛ぶ者の王です。皆さんも、鷲のように強く、野性的であってください。そして、英知を磨き、たくましい信念をもって、理想に向かって飛翔し、日本の、いな、世界の平和のために、つくしていただきたいんです。」

「青春時代を生きるうえで大事なことは、自分の弱さに負けたり、引きずられたりしないで、自分に挑戦していくことなんです。自分を制し、自分に打ち勝つことが、いっさいに勝利していく要諦であることを、わすれないでください」

若き純粋なる魂に、真実の人間の道を伝え抜かんと、彼は自らの生命を燃え上がらせ、真剣勝負で臨んでいた。


次に寮へ行き、寮長や 寮生の代表と懇談した。「君たちが開拓者となって、伝統をつくり、誉れの歴史をつくるんだ。君たちの手で、力をあわせて、この栄光寮を、日本一、世界一の寮にしていってほしい。」

伸一は、寮生たちを、力の限り抱き締めたい思いにかられた。「これからは、私が君たちの親代わりだ。みんな、宝のように大事な私の子どもだよ」

この日、新しい歴史の扉が開かれ、創価学園の建設の歩みが、晴れやかに開始されたのだ。それは、伸一にとっても、生涯の事業となる教育という大山への、本格的な登攀の開始であった。

以来、創価学園のことが、山本伸一の頭から離れることはなかった。折に触れ、さまざまなかたちで、学園生への励ましが続けられた。



太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

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