小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

松村健三

偉大な戦友に 最敬礼

『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P70~

山本伸一は、学生部のさらに偉大な発展と、成長のために、5指針を発表し、「戦う学生部に、栄光の未来に進む諸君に栄冠あれ!」と励ましの言葉を贈り、話を結んだ。実に 1時間17分にわたる大講演であった。

伸一の、この講演は、「日中国交正常化提言」として、日中友好の歴史に、永遠にその名を残すことになる。山本伸一の提言は、毎日、読売、毎日をはじめ、新聞各紙が一斉に取り上げた。

そのうち毎日新聞は、一面の報道のほかに、四面に解説記事を掲載。首脳同士がまず語り合うことを提唱した方法に着目。従来の問題を事務的に処理し、積み上げていく「積み上げ方式」の対応から、大局的立場から相互理解と信頼によって解決をはかるという伸一の提案を「新しい着想」であると評していた。

提言は、海外にも発信された。中国にこのニュースを打電したのは、秋月らと会ったあの劉徳有記者であった。伸一の提言を知った周総理は、その内容を高く評価した。

この提言は、さらに、日中友好に取り組んできた人たちに、大きな反響を巻き起こした。中国文学者の竹内好は、「既成の国交回復運動や友好運動のなかで傷ついた人たち」に向かって、「講演を読むことをすすめたい。・・・それは、信仰の相違を超え、また政治的信条の相違を超えて、ひとしく共感できるものである」と感想を発表し、呼びかけている。

竹内は、戦後、日中友好の運動に身を捧げてきた人物である。しかし、その前に立ちはだかる国家権力の分厚い壁に阻まれ、呻吟し、幾度となく辛酸をなめてきた。希望も失いつつあった。伸一の提言は、そんな竹内の心を、強く揺さぶったようだ。また、松村健三が提言に対して、「百万の味方を得た」と語ったことも伸一の耳に届いた。

提言を知った学術月刊誌『アジア』からも、すぐにさらに提言を掘り下げた原稿を発表してほしいとの依頼があり、学術的な観点から筆を加え、「日中正常化への提言」と題する論文を書き上げ、同誌の一二月号に掲載された。

しかし、反響は、決して共感と賛同だけではなかった。伸一が予測していたように、彼は、激しい非難と中傷にさらされなければならなかった。学会本部などには、嫌がらせや脅迫の電話、手紙が相次いだ。街宣車を繰り出しての、けたたましい"攻撃"もあった。

また、外務省の高官が、アメリカの駐日大使、在日米軍司令官らとの協議の場で、伸一の提言を取り上げ、日本政府の外交の障害になると露骨な非難を表した。

伸一は、いかなる中傷、非難も、迫害も、弾圧もすべて覚悟のうえであった。だが、妻の峯子や子どもたちのことが、気にかかった。家族にも何が起こってもおかしくない状況であったからだ。

家族を案じる伸一に峯子は微笑みながら「心配しないでください。何があっても驚きません。覚悟はできていますから。」と言った。それは、彼にとって、最大の励ましであった。戦友ーそんな言葉が伸一の頭をよぎった。「ありがとう!偉大な戦友に最敬礼だ」

山本伸一は、さらに翌年、聖教新聞に連載中の小説『人間革命』のなかで、日中国交正常化をもう一歩進め、「日中平和友好条約」の締結を強く訴えた。伸一の日中友好への叫びは、打ち寄せる波のように、二度、三度と、強く、激しく、繰り返されたのである。

提言から一年半が過ぎた三月、松村健三との会見が実現する。
松村は、議員生活に終止符を打ち、引退を表明していたが、「日中両国関係改善」を生涯をかけた悲願として命をかけて、訪中を決行する決意を固めていた。

彼が、汗と労苦で切り開いた日中貿易ルートは、佐藤政権の中国敵視政策と中国の文化大革命によって、今や風前の灯となっていたのである。限りある命の時間を考えると、彼の胸は張り裂けんばかりであったにちがいない。そのなかで、あの提言を知り、彼は奮い立ったのだ。そして、伸一と会うことを熱願してきたのである。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

日中友好の パイプ

『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P17~

この激動の時代のなかで、必死になって、日中間の亀裂を修復しようとする人物がいた。代議士の松村健三である。松村は、新中国の実情を自分の目で確かめるとともに、自ら日中のパイプ役になろうと、中国訪問を望んでいた。周総理も、両国の未来のために、松村の訪中の意向を重要視して、彼を中国に招いた。1959年の秋のことである。松村は当時76歳であり、迎える周総理は61歳であった。

この訪中は、全行程1万5千キロにわたる40余日の緊張の旅であったが、松村は、勇んで中国の大地を踏んだ。座していたのでは、事態は開けない。行動である。会って語り合う勇気こそが、歴史を変えていくのだ。

松村は、周総理に 日中友好の力になる人物として、高碕達之介を推薦したのであった。

反中国政策を続けていた岸首相は、安保改定を強行し、世論の猛反発を買い、退陣を余儀なくされた。代わって、池田隼人が首相になり、日本は高度成長を遂げ、日中関係も改善の道をたどっていく。

周総理も日中貿易の再会に前向きな姿勢を見せ、「貿易三原則」を明らかにした。低迷していた日本の経済界は湧き立った。

池田首相から、中国のすべてをまかされていた松村健三が訪中し、周総理と会談。翌月、高碕達之介と中国側の代表廖承志と検討を重ね、「日中総合貿易に関する覚書」に調印、これは、二人のイニシャルから「LT貿易」と呼ばれ、"半官半民"的な性格をもつ、国交正常化をめざす、新たな連絡ルートの誕生となった。

日中友好の歴史が編まれていくなかで、周総理の目は、創価学会に向けられていった。松村、高碕両氏が、訪中した際に、日中の友好のためには、創価学会と交流することが大事だと強調していた。

周総理は、創価学会の調査、研究を 中国人民外交学会に指示している。外交学会は、創価学会についての調査、研究のリポートを上層部の多くの人に伝えるために、本を出版している。リポートなかには、誤解もあったが、このリポートを目にした周総理は、引き続き調査研究を続けるよう指示した。

周総理に学会のことを語った高碕氏と山本伸一が語り合ったのは1963年の9月。彼は既に78歳になっていた。35歳の伸一とは、親子以上の年の隔たりがあった。高碕は、伸一の顔をじっと見すえ、「あなたには、日中友好の力になってもらいたい!」その声には、一歩も引かぬという気概があふれていたが、また、懇請のようでもあった。

高碕は、伸一の手をぎゅっと握りしめた。"日中友好の「金の橋」を架けてみせる!"以来、それが、伸一の固い決意となった。


翌月、中国は、「中日友好協会」を発足させた。国交のない日本のために"友好協会"が設けられたことは、例外的な措置であった。

その駐日事務所の、首席代表として来日したのが、後に中日友好協会の会長を務める孫平化であった。
孫は、周総理から「なんとか創価学会との間に交流のパイプをつくり、友人をつくらなければなりません」と言われていた。

国と国の関係といっても、永続的に友好を維持していくには、民衆次元での活発な交流が重要になる。その窓口を開くには、どうしても政治の力が必要である。

公明政治連盟が公明党として新出発するにあたり、伸一は「公明党の外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい。」唯一の提案をしていた。この伸一の要請に、公明党も、懸命に応えようとしていた。

しかし、それも束の間、日中間には、再び暗雲が垂れ込めていったのである。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

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