小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

東洋広布

東洋広布の先駆け香港

『新・人間革命』第29巻 源流の章 343p~
<源流の章 開始>

山本伸一を団長とする創価学会訪印団一行は、1979年(昭和54年)2月3日最初の訪問地である香港へと向かった。鹿児島空港から3時間余、一行の搭乗機は香港の啓徳空港に到着した。空港には、香港中文大学中国文化研究所の陳荊和所長をはじめ、香港のSGIメンバーらが出迎えてくれた。

すぐに香港会館に向かった。
会館の前の公園で伸一を待っていた林一家と公園のブランコやシーソーで遊ぶ伸一。林親子は、この時の伸一の話を忘れなかった。生活が苦しいなか懸命に働き、姉二人は大学院にまで進んだ。弟は名門香港大学を卒業し、歯科医となり、学会にあっても、香港SGIの医学部長などとして活躍していくことになる。

伸一は、各部代表者会議の参加者の中に、18年前の座談会に参加していた、懐かしい何人もの顔を見つけた。「香港は、東洋広布の先駆けであり、未来を照らす灯台です。その香港の広宣流布をますます加速させていくための決め手は何か。それは『信義』です。人間として、一人ひとりがどこまでも『信義』を貫き、信頼を勝ち得ていく。

その信頼の拡大が即広布の拡大であることを知ってください。仏法というのは、私たち自身の内にあり、私たちの振る舞いによって表されていくものなんです。すべては人間にかかっています。どうか、悠然たる大河の流れにも似た大きな境涯で、人びとを包んでいってください」

香港広布18周年を祝う記念勤行会に出席した。席上、伸一は、宿命転換について述べた。「人生にあっては、予期せぬ病気や交通事故、自然災害など、自分の意志や努力だけではどうしようもない事態に遭遇することがある。そこに、宿命という問題があるんです。

その不条理とも思える現実に直面した時、どう克服していけばよいのかーー題目です。御本尊への唱題によって、自身の胸中に具わっている、南無妙法蓮華経という仏の大生命を湧現していく以外にない。強い心をもち、生命力にあふれた自分であれば、どんな試練にさらされても、負けることはない。何があろうが、悠々と宿命の大波を乗り越えていくことができます。

私たちも、この大聖人の御境涯に連なっていくならば、『宿命に泣く人生』から『使命に生きる歓喜の人生』へと転じていくことができる。大聖人の仏法は、宿命打開、宿命転換の仏法であることを確信してください」戸田城聖の願いは、アジアの民の宿命転換であった。伸一は、香港の同志に、その先駆けとなってほしかったのである。

インドへ向かう5日の午後、伸一は、故・周志剛理事長の家を訪ねた。深い祈りを込め、皆で追善の勤行をした。平和といっても、一人との信義から始まる。

山本伸一の一行が、インド・デリーのパラム空港に到着したのは、現地時間で6日の御前零時15分のことであった。そこには、招聘元であるインド文化関係評議会のヘレン・マタイ事務局次長がサリーに身を包み、花束を手に迎えてくれた。今回の訪問では日印の平和友好の更なる流れを開くために、指導者との語らいや、大学訪問などが予定されていた。

現地の日本人メンバーの一人に、ジャワハルラル・ネルー大学の博士課程に学ぶ大河内敬一がいた。東京・新宿区の出身で26歳である。幼少期に母親と共に入会した彼は、学会の庭で育ってきた。彼は、高等部の仲間たちと、広宣流布の未来図を語り合った。そして、世界雄飛への夢が、次第に大きく膨らんでいった。

「ぼくはインドに行き、インド広布に一生を捧げたいと思っているんだ」決意の種子があってこそ、果実は実る。本物の決意には、緻密な計画と行動がともなっている。それがない決意というのは、夢物語を口にしているにすぎない。懸命な努力、真剣な祈りーーそこに困難の壁を打ち破る要諦がある。


太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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東洋広布の人材

『新・人間革命』第9巻 光彩の章 P223~

高井夫妻は、交代で、屋久島や奄美大島にも、弘教の足を延ばした。夫婦の胸には、いよいよ仏法への大確信が燃えていた。しばらくは借金の返済に苦しむ生活が続いていたが、いつしか、それも克服していた。

平治には、以前からいだいていた、一つの夢があった。東洋の民衆の幸福と平和のために、力いっぱい働きたいーーというのが、彼の強い願望であった。彼は、日本に引き揚げる時に、今度は平和のために働いてくれと言われた、タイの兵士の言葉が、頭から離れなかったのである。

二人は、東洋広布に生きることを念願としながら、時の到来を待ち続けていたのである。山本会長が熊本を訪問した折、伸一に、“アジアの民衆の幸福のために、生涯をかけたい”という自分たちの決意を打ち開けた。

伸一は、「そうか、やっぱり、そういう人が出てきたか。嬉しいね。行きなさい。私が応援します。」と言って、具体的に話をすすめ、香港なら、いつでも行けるという夫婦に東南アジア本部長、総支部婦人部長の人事を発表した。

香港に出発する直前、二人に伸一は、「香港に行ったら、絶対に威張ってはいけない。みんなと仲良くなり、友達になることです。信心の面では、あなたたちの方が大先輩だが、香港では、一番後輩になる。だから、1年目は、何があっても、『そうですか、そうですか』と、みんなの言うことを聞くことです。そして、二年目には、『仏法での生き方では、こうです』『日本では、このようにやっていますよ』とだけ話しなさい。三年目になったら、今までの香港のやり方と、日本のやり方と、どちらがよいか、決めてもらうんです。」

「もし、皆が信心に反するような方向に進んでいきそうな場合には、なぜ、それが間違いなのかを、忍耐強く、丁寧に、噛んで含めるように、教えてあげることです。」

どこまでも、公平に、みんなのために奉仕していってもらいたい。それが本当の学会の幹部の姿です。香港を、アジアを頼みますよ」と言った。

梶山久雄という日本の亜細亜大学からの交換留学生で、香港中文大学で経済を学ぶ、学生もきていた。
梶山は、“いよいよ、東洋広布の幕が開いたのだ。ぼくも香港に行きたい”と交換留学生の試験を受け、見事パスし、学費、寮費は無料、食費も支給されるという好条件で留学できたのだ。

この梶山や高井夫妻のように、広宣流布のために、自ら海外に渡ろうという人たちが、次々と誕生しつつあることが、伸一は嬉しかった。

香港を発って2時間余りで、最初の訪問地である、タイのバンコクに着いた。1962年に訪問し支部が結成された時地区部長だった、潘錦鐘は、支部長になり、妻の和代が支部婦人部長に就任していた。

和代は、夫の活動を冷ややかに見ていたが、タイ語に不慣れな、初代支部婦人部長のアン・ミヤコ・ライズの通訳として、一緒にメンバーの家を回るうちに、次第に信心を学んでいった。

伸一に、「今度は、日本でお会いしましょう。お待ちしています」と言われ、初めて、日本に帰ろうと思い、その当時、地区担当員となった彼女は20世帯前後の地区であったが、100世帯に拡大して、日本へ行こうと決意を固めたのだった。

出発直前、地区100世帯を 達成し、5月3日の総会にタイからも 10数人の代表が参加できることになった。しかし、彼女のパスポートは いつまでたっても、発行されなかった。



太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

東洋広布の石碑

『新・人間革命』第3巻 月氏の章 P150~


1961年(昭和36年)2月4日
東洋広布の歴史に、永遠の光を放つ、「埋納の日」の朝が訪れた。
釈尊成道の地、ブッダガヤで、「東洋広布」の石碑などを埋納する儀式を行った。


埋納場所は、日達法主と山本会長(池田先生)を中心に日本で検討し、
大菩提寺の丑寅(北東)の方向と決めていた。
その方向には、霊鷲山、さらに日本があるからである。


準備に入り、埋納場所の穴掘りが始まった。穴は五~六十センチメートル四方で、
一メートルほどの深さに掘られた。


掘られた穴の前にイスを並べ、テーブルの上に線香とロウソクが用意された。
そして、穴の傍らには、「東洋広布」の石碑と、「三大秘法抄」などを入れた
ステンレスケースが置かれた。


伸一は、そびえ立つ大塔を仰いだ。青い空に、白い雲がまばゆく映えていた。
この空の上から、師の戸田城聖が、じっと見守ってくれているように思えた。


午後3時30分。日達法主の道師で、唱題が始まった。埋納の儀の開始である。
日蓮大聖人の立教開宗から七百余年、その太陽の仏法が、今まさに月氏を照らし、
東洋広布の未来への道標が打ち立てられる瞬間であった。


初めに、山本伸一が「東洋広布」の石碑を手にした。彼は、石碑の表を、北東の霊鷲山、
日本の方角に向けて、地中に収めた。
続いて、「三大秘法抄」などを収めたステンレスケースが埋納された。
埋納の儀式は、やがて、滞りなく終わった。


今ここに、仏法西還の先駆けの金字塔が打ち立てられた。


彼は、師・戸田城聖への東洋広布の誓願を果たす、第一歩を踏み出したのである。
アジアに広宣流布という真実の幸福と平和が訪れ、
埋納した品々を掘り出す日がいつになるのかは、
伸一にも測りかねた。しかし、それはひとえに彼の双肩にかかっていた。


“私はやる。断じてやる。私が道半ばに倒れるならば、わが分身たる青年に託す。
 出でよ!幾万、幾十万の山本伸一よ!”

月氏の太陽を仰ぎながら、彼は心で叫んだ。


 
太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋
月氏の章 終了

東洋広布

『新・人間革命』第3巻 仏法西環の章 P29~


1961年 1月28日 山本伸一は アジア初訪問の旅に出発する。
アジア訪問の目的は、日蓮大聖人の御予言である、“仏法西還”の第一歩を印し、
東洋広布と恒久平和への道を開くことにあった。


日蓮大聖人は「諫暁八幡抄」に、次のように仰せである。
「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、
 日は東より出づ日本の仏法の月氏へかえるべき瑞相なり」



この「諫暁八幡抄」のほか「顕仏未来記」などにも、同様の趣旨の御文がある。
いずれも、日蓮大聖人の仏法の西還を予言され、
東洋、世界への広宣流布を示されたものである。


戸田城聖は、その御聖訓の実現を、創価学会の使命として、
伸一をはじめとする青年たちに託した。


もしも、創価学会がなければ、この仏法西還の御本仏の御予言も、
虚妄となってしまったにちがいない。


その先駆けの歩みを、伸一は会長に就任して迎えた新しき年の初めに、
踏み出そうとしていたのである。それは仏法の歴史を画し、
東洋に生命の世紀の旭日を告げるものであった。





太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

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