『新・人間革命』第6巻 若鷲の章 P333~

8月31日 学生部の代表に対する山本伸一の第一回「御義口伝」の講義が行われた。
「一人も残らず、学会の、そして全社会の大指導者に育っていただきたい。」

「私は、君たちの将来を、生涯見守ってまいります。このうち、何人が本物の大鷲となり、獅子となるのか、また、誰が堕落し、誰が違背して学会を裏切っていくのか、最後まで見届けていきます。」

「仏法は厳しい。中途半端はありません。信心を全うして成仏するか、退転して苦しむかです。20年、30年と、最高幹部として活躍しても、最後まで信心を貫き通さなければ、人生は敗北であり、無残です。私は、皆さんをそうさせたくはないのです。」伸一の声には、厳とした決意の響きがあった。

「御義口伝」の大意と背景について語った。「宗教論、生命論、幸福論、宇宙論、また、社会原理を、信心、生活に約し、縦横に説かれたその"御義"は、あらゆる哲学や、思想の最高峰といえよう」と概要を説明。

拝読した学生部員に 厳しい口調で言った。「あまりにも、安直な読み方です。」
「御書を拝読する場合は、まず"真実、真実、全くその通りでございます"との深い思いで、すなわち、信心で求め、信心で受けとめていこうとすることが大事です。」

「仏法を学ぶには、"信"をもって入らなければならない。」

「御書は経文です。一字一句も、ないがしろにしてはならない。ましてや「御義口伝」を心肝に染めていこうとするなら、まず、何度も、朗々と力強く、暗記するぐらい拝読していくことです。」

「御書は、身口意の三業で拝していかなければならない。御書に仰せの通りに生き抜こうと決意し、人にも語り、実践し抜いていくことです。理念と実践とは、一体でなければならない。それが仏法を学ぶ姿勢であり、東洋哲学の在り方ともいえる。」

メンバーは伸一の指摘に目の覚める思いがした。ただ、講義を聴けばよいという、受け身の姿勢で臨んだことを、深く反省せざるをえなかった。

『御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり』

「まず、南無妙法蓮華経についての御義口伝が冒頭にきているのは、南無妙法蓮華経こそ、一切の根本であり、法華経の肝要であるからです。」

「南無というのは、梵語である。・・・これを意訳すれば、『帰命』となる。帰命とは、身命を捧げつくすことです。」

「人間は、皆、何かに帰命しているといえる。・・・現代では仕事や会社に帰命する人もいれば、愛する人のために命を投げ出す人もいます。大事なことは、何に帰命するか、何に自分をかけていくかによって、その人の人生の幸・不幸が決定してしまうということです。」

「妙法への帰命は、小さな自分の欲望に翻弄されている"小我"を打ち破り、宇宙即我という、宇宙大の自分である"大我"に立ち返ることである。その時に、自分自身が人間として最も輝くことができる。それが人間革命です」


伸一は、受講メンバーの多くが、御文の難解さに些事を投げ出してしまった箇所の講義に移った。


太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋