小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

東南アジア仏教者文化会議

東南アジア仏教者文化会議の使命

『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 382P~
 
なんのために宗教があるのかーー。人類の平和のために、人間の幸福のためにこそ宗教はあるのだ。人間こそ「原点」であり、「目的」なのだ。ゆえに、宗教も、国家も、イデオロギーも、人間を手段化することがあっては絶対にならない。

人間の生命と平和を守るためには、宗教や国家、民族等々、あらゆる壁を超えて、同じ人間として結び合うべきである。それこそが人類の黄金律でなければならないーーというのが、伸一の確信であり、信念であったのである。

いや、それこそが、一切衆生に「仏」を発見し、万人の幸福をめざす仏法の結論であろう。

会議では4人の代表が表彰された。出版部門の代表に選ばれたのは、陳鮑美蘭という香港の婦人部員であった。

彼女は横浜の中華街で生まれた。両親は日本生まれの中国人であった。日中戦争が始まると、香港マカオに向かいその後、広東省に移る。そこで、台湾の台北師範学校に留学。台湾では皇民化政策が進められ、日本語を学ばされた。自分たちの言語を奪われることは、魂を奪われる等しい屈辱である。

戦後、広東省に帰りたくても帰れない時、日本人の友人が家に誘ってくれ、国を超えた人間の温かさ、友情の麗しさに泣いた。戦後台湾で結婚するが、暴動が起きる。「2・28事件」は、大陸から来た「外省人」である行政長官が、「本省人」つまり台湾人を排除。本省人の胸には、日本人に変わって外省人の統治が始まったにすぎないという怒りが爆発し、暴動となったのだ。

台湾も美蘭にとっては、安住の地ではなかった。広東省に戻っても、スパイの疑いがかけられた。彼女は自らの運命を呪った。そんな時、夫の陳済民が、周志剛のすすめで入会した。周の人柄と、彼が胃潰瘍を克服した体験を目の当たりにしたからである。美蘭も信心を始めると、心臓が弱く、めまい、動悸、息切れなどで苦しんでいたことが、1週間ほどで治ってしまった。正法の力は厳然としていた。

信心を始めて1か月後、初めて山本伸一と会う。伸一の話を聞き、美蘭はハッとした。"幸福は、私自身のなかにあるのだ!どんな逆境にも負けない強い心を、価値を創造していける豊かな心をつくる以外にない。"彼女は、広宣流布に生きることを、深く心に誓った。 

そして、夫と共に、懸命に香港広布に走った。 彼女はしみじみと思うのであった。"激動の歴史に弄ばれてきたように思える自分の人生も、決して無駄ではなかった。日本語を学び、戦争の恐ろしさを体験してきた私には、香港の人びとの平和と幸福のために、大聖人の仏法を伝える使命がある。私の半生は、そのためにあったのだ" 

伸一のあいさつとなった。「連帯するということは、それぞれの力を何倍にも引き出すものであります。連帯があれば、互いに長所を学び合い、応援し合うことができる。ゆえに、連帯は希望となり、勇気となるのであります。」

「私どものスクラムは、国家やイデオロギー、民族によって分断された人間の心と心を結ぶためのものであります。この会議には、アジア、さらに人類の、連帯と結合の要となる使命があるのであります。」

伸一は、言葉をついだ。「仏法西還、東洋広布は御本仏たる日蓮大聖人の御予言であり、御確信であります。しかし、それは、決して自然にそうなっていくものではない。断じて『そうするのだ』という、弟子の決意と敢闘があってこそ、大願の成就がある。私どもが立たなければ大聖人の御予言も、虚妄になってしまうのであります。」

「そのために大事なのが文化の交流です。文化を通して、民衆と民衆が相互理解を深め合っていくことこそ、反目を友情に変え、平和を創造していく土壌となっていきます。そこに『東南アジア仏教者文化会議』の大きな使命があることを知っていただきたい。」

「私も仏法者として、アジアの、そして、世界の平和のために、命の限り走り抜きます」この時、メンバーのなかには、世界の平和のために生命をなげうつことも辞さぬ伸一の覚悟を、本当に知る人はいなかったといってよい。

メンバーは、一年を経た時、伸一の、平和への偉大なる軌跡に、感嘆することになるのである。
伸一の本格的な平和の闘争が、いよいよ始まろうとしていた。

<飛躍の章終了>
<新・人間革命 第18巻 終了>

太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

香港大学・香港中文大学との交流

『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 366P~ 

孫文は清朝打倒を計画し、失敗。イギリスに渡り、恩師のカントリーを尋ねている。孫文は清国公使館に監禁され、本国に送り返されれば処刑されてしまうことに。カントリーは弟子のためにありとあらゆる手を打ち、孫文の監禁は解かれたのである。

伸一は言った「民族を超えた、こうした師弟の心が脈打っていたからこそ香港大学の発展があったと、私は見ている」伸一の訪問によって、この日、香港大学と創価大学の友好の第一歩が踏み出されたのである。

1991年(平成3年)には、学術交流協定が結ばれる。また、96年には、教育をはじめ、文化、世界平和への伸一の貢献に対して、同大学から、名誉文学博士の称号が贈られている。

翌30日、山本伸一は香港のもう一つの名門大学として知られる、香港中文大学を訪問する。同行していた香港男子部長の梶山久雄は、香港の広宣流布に生き抜いていく決意の表明として、中国名をつけたいと思っていると話す。伸一は梶山の相談に、香港広布に生きようとする彼の真剣さを感じた。

大学に到着した伸一は、李卓敏学長と会談した。伸一は、あいさつが終わると、単刀直入に自分の信念を披歴した。彼は、日本と香港の、そして、アジアの未来のために、実りある対話をしようと懸命であった。

李学長は香港とアジアの未来に思いを馳せ、教育事業に全精魂を傾けてきた偉大な教育者であった。伸一は、「相互理解の推進のために、創価大学と香港中文大学で、教員・学生の交換をし合ってはいかがでしょうか」と提案する。

学長は頷いた。「全面的に賛成です。断じてやりましょう」伸一と李学長のこの合意は創価大学と香港中文大学の交流の起点となった。この年の秋には、創価大学として香港中文大学の教授を招聘。翌年には、両大学の間で、学術交流協定が調印されるのである。これが、44ヵ国・地域104大学に広がったっ創価大学の学術交流協定の第一号となったのだ。創立者自らが切り開いた、世界交流の道であった。
歴史的な日の意義を込め、この年の9月、日本関係の書籍を千冊寄贈されている。

伸一の平和、文化、教育への貢献に対して、1992年には香港中文大学として初の最高客員教授の称号を、2000年には、名誉社会科学博士の称号を贈っている。

30日の夜には、「東南アジア仏教者文化会議」の第一回代表者会議が開催された。各国・各地域の組織が連帯し、協力し合いながら、真実の仏法を根底にアジアの平和と民衆の幸福を築いていくため、香港のメンバーが呼びかけたのである。

その趣旨に賛同して、シンガポール、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ラオス、タイ、インド、スリランカ、オーストラリア、マカオなどのメンバーが参加を表明したのだ。そして、設立準備委員会が設けられ、議長に香港の周志剛が選ばれた。

アジアでは、いまだ戦火が絶えなかった。ベトナム戦争は、アメリカの直接介入はなくなったものの、依然として戦闘状態は続いていた。また、カンボジアでもロン・ノル政権と解放勢力の争いは激化していたのである。さらに中ソの対立は、ますます深刻化しつつあった。

メンバーは、そのなかで、生命の尊厳と慈悲を説く仏法哲理を根本に、平和と人道のスクラムを組み、アジアを"幸福の園"に、変えようとの決意を胸に、喜々として集ってきたのである。

周は日本人であったが、中国人の妻と共に香港に来て、中国人として生きてきた。日中の戦争は、中国人の心に半日感情を刻み、周も日本人とわかれば、どんな危険が待ち受けているかわからず、子どもたちにも日本人であることを告げなかった。

周はその自分が、アジアに平和の光を注ぐために議長として声明文を発表していることを思うと、自らの不思議な使命に胸が熱くなるのであった。

太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

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