小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

東京文化祭

不可能への挑戦 五段円搭

『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 20p

9月5日、山本伸一は、東京・八王子市にある創価大学の中央体育館にいた。’76東京文化祭に出席していたのである。「創価桜」と題した第一景で、伸一が作った詩「母」に曲をつけた、「母」の歌が流れた。ピアノとマリンバを演奏しているのは、「母」の作曲者の植村真澄美と松山真喜子である。

彼は、胸に込み上げる熱いものを感じながら、日本中、そして、世界中の尊き母たちへ感謝の祈りを捧げた。とともに、彼の母である幸を思い、心で題目を唱えた。実は、この日、老衰のために床に就いていた母の容体があまり思わしくないとの連絡があったのである。

2か月余り前、母は、一度、危篤状態に陥った。しかし、奇跡的に一命を取り留めた。母は、伸一にきっぱりと、「私は、大丈夫。皆さんが待っておられるんだろう。私のことはいいから、心配しないで行きなさい」

東京文化祭は、男子部による組体操「青年の譜」が始まった。組体操の圧巻ともいうべき、5段円搭への挑戦が始まった。5段目の一人が立ち上がりかけた。その時、円筒は、崩れ落ちた。
5段円搭の演技指導責任者石上雅雄は、頭が真っ白になった。

学会の文化祭で、5段円搭は何度かつくられていたが、準備に約1か月は要してきた。しかし、今回は、わずか5日しかない。まさに、不可能への挑戦であった。

石上は、在日二世として、東京で生まれ育った。物心ついたころから、何度となく、理不尽な差別を受けてきた。小学生時代に入った少年野球チームの監督が学会の男子部員であった。監督だけは差別したりすることはなく、石上は監督の後について学会の会合にもついていった。彼は学会が好きになり、家族全員が学会員となった。

高校時代親善試合で韓国を訪れた時、在日である自分は、日本人でも韓国人でもないと、自分の存在への疑問が芽生えた。大学3年の時、伸一に会って、その悩みを打ち明けると「君は地球人として生きなさい。広々とした心で生きるんだ。」と言われ、自分の小さな境涯が打ち破られる思いがした。

その時、"先生と共に、世界の平和と人類の幸福のために生きよう"と誓った。山本伸一が出席した文化祭の舞台で、5段円搭は完成直前に崩れたのだ。次の瞬間、"このまま、終わらせてなるものか!"皆がそう思った。石上雅雄を中心軸に、下段の20人が、スクラムを組み、再挑戦への体制がつくられていった。

4段目の3人が立ち始めた時、一人が片足を肩から滑らせた。それを手で受けとめ3段目で懸命に支えたのが森川武志であった。"立ってくれ!"と、心で叫び、唱題しながら、自分の限界に挑み続けた。"自分に挑み、自分に勝つ"それが、彼の信条であった。

彼は、何事にも自信がなかった。母親がいない。中学しか行けなかった。家が貧しかったことなどが、劣等感を募らせ、"どうせ、俺なんかだめなんだ"という思いが、いつも心のどこかにあった。

男子部の先輩が「どうして君は、人と比べて、自分はだめだとか、不幸だとか、考えるんだ!結局、それは、見栄があるからだよ。君は、なんのために信心しているんだ。誰も、君の代わりはできない。この世の中に、たった一人しかいない、かけがえのない存在なんだ!

要は、自分の大生命を開けばいいんだ。挑戦すべきは、人に対してではない。自分自身に対してだ。自分に勝っていくんだよ。君自身の使命に生き抜いていくんだ!」森川は"その通りだ"と思った。以来、彼は、自分に挑み、自分に勝つことを目標に、すべてに挑戦してきた。そして、自分をさらに、磨き、鍛えようと、東京文化祭に勇んで出演したのである。

円搭の頂で、青年は、体を伸ばした。胸を張った。そして、大きく両手を広げた。立った!奇跡は起こった!二度目の挑戦という、著しく体力を消耗し、疲弊しきった体で、見事に、5段円搭を組み上げたのだ。

皆が、自分に挑んだ。あきらめの心に、無理だという心の弱さに、懸命に挑戦した。そして、それぞれが、自身の心の壁を破って、五段円搭は打ち立てられたのだ。



太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

東京文化祭準備始まる

『新・人間革命』第12巻 天舞の章 P206~

東京文化祭の準備が本格的に始まったのは、6月下旬からであった。演技・演出の責任者は、副男子部長の久保田直広であった。文化祭を一つの舞台ととらえ、全体を貫くテーマを設けようと考え、「七つの鐘」をイメージし、全体を貫くテーマを「世界平和」にしようと思った。

舞台の進行は、間断なく流れる音楽に合わせて、流麗に場面を展開させたいと考えた。成功すれば、すばらしいが、危険度も、あまりにも高かった。しかし、これまでの壁を破って、新しいものを生み出すには、新しい挑戦が必要である。

各演目ごとに練習が開催されたのは、7月中旬のことであった。東京文化祭まで、約3か月。この日から、晴れの大舞台をめざして、自身に挑み抜く、それぞれの人生ドラマが織りなされていったのである。

国立競技場は、スタンドを埋めた、人文字メンバーも含め、7万余の人びとは、期待に胸を躍らせながら、刻一刻と迫る、午後1時の開会を待っていた。

来賓も、財界人、言論人、学者、各国の駐日大使など5千人が出席。また、外務大臣や文部大臣などの閣僚や、都知事をはじめ東京近県の知事、野党のリーダーなど政治家の顔もあった。

人文字が荘厳な鐘の音に合わせて、富士山を描き、富士を背景に、一斉に5千羽の鳩が放たれた。鳩は天高く舞い上がり、競技場の上空を旋回し、青空に吸いこまれていった。鳩たちの見事なリハーサルなしの名演技であった。この5千羽の鳩を集めることは、容易ではなかった。

男子部員は、東京、関東一帯を、くまなく歩き、鳩小屋のある家を見つけては、鳩を貸してもらえるように、交渉にあたった。

富士が消えると、人文字は、中央に一輪の牡丹を描き出した。次々色んな花が咲き、花園のなかを小鹿が駆ける。まさに、スタンドという大画面に展開された、大アニメである。

東京文化祭の人文字の関係者は"未だかつてない、最高の団結美を、新しい芸術をつくりあげよう!"そして、関西文化祭の人文字が52種類の絵であったのに対して、東京文化祭では、279種類の絵が、大スタンドに描き出されることになったのである。

この絵柄を作成したのが、洋画家や日本画家、グラフィックデザイナー、イラストレーターなど、30人ほどの芸術部員であった。

演技の内容に即して、人文字の下絵をつくり上げていくのである。芸術部員のなかには、世間に名の通った画家もいた。その著名な画家たちがつくった下絵も、容赦なくボツになった。

だが、何度、ボツになろうが、そのことで文句を言ったり、やめると言いだす芸術部員は一人もいなかった。皆、自分の画壇での立場も権威もかなぐり捨てていた。だから、絵がボツになると、自分の絵のどこに問題があったのかを真摯に思索し、挑戦の意欲をますます燃え上がらせるのであった。

「画家である前に学会員として、広宣流布の新時代を開く文化祭のために何ができるかを考え、応援させていただいている。この作業が、仏法のすばらしさを証明していくことにもなる。こうした偉業にかかわれるというのは、まさに千載一遇ですよ。この機会は、私にとっては、新しい刺激と発想が得られるチャンスだと思っています。今回の作業を通して、狭量な自分の殻を破り、境涯を開きたいと考えているんですよ」と高名が画家が語った

8月からは、下絵を人文字の座席図に、1マス1マス、色を塗り、書き写していく作業が加わる。座席図のマス数は、4万2千マス。1マスを塗るのに 3秒かかるとすると、1枚を仕上げるのに、35時間もかかることになる。

座席図を間に合わせるため、芸術部員の俳優や音楽家など、絵とは関係ないメンバーも、仕事の合間に駆けつけ、作業会場は、24時間フル回転であった。

太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

創価文化会館完成

『新・人間革命』第12巻 天舞の章 P196~

<天舞の章 開始>

1967年(昭和42年)9月1日 東京・信濃町の学会本部に隣接して、創価文化会館が完成し、この日、待望の落成入仏式が行われたのである。

建物は荘厳であり、設備は時代の先端をゆくものであった。将来、世界の一流の舞台に躍り出ていく青年たちのために、一流のものを呼吸させておきたいというのが、山本伸一の願いであったのである。

「文化会館」という新鮮な響きの名称も、伸一の提案であった。文化は、人間性の発露である。ゆえに、優れた文化を創造するには、まず、人間の精神、生命を耕し、豊かな人間性の土壌を培うことである。そして、それこそが宗教の使命といえる。その土壌のうえに、芸術、文学はもとより、教育、政治など、広い意味での優れた文化が、絢爛と花開くことを、伸一は確信していたのである。


この創価文化会館に引き続いて、関西文化会館が大阪・天王寺区に完成。9月10日には、山本伸一が出席して、盛大に落成入仏式が挙行された。その後、文化会館は、全国各地に、そして、世界各地に建設されていくことになる。それは、仏法を基調に平和と文化を推進する創価学会を、象徴するものとなったのである。

伸一は、関西文化会館の落成入仏式を終えると、四国・九州指導に向かった。そして、11日に高松で行われた四国の幹部大会の席上、四国のモットーとして、「楽土建設の革命児たれ」を発表したのである。彼は、この年を、全国を回りながら、広布の第二ラウンドの出発にあたり、活動の旗印として、各方面のモットーを示してきたのであった。


関西に対しては、再度、「常勝関西たれ」をモットーとして確認した。次いで、7月に入ると、9日の九州の幹部大会で「つねに先駆の九州たれ」を、10日の中部の幹部大会で「広布の堅塁・中部たれ」を、15日の東北の幹部大会では、「人材の牙城・東北たれ」を発表した。

さらに、8月には、21日の北海道の幹部大会で「新しき時代の開拓者たれ」を、26日の中国の幹部大会で「広布の新しき潮流たれ」を示してきた。伸一は、9月11日の四国に続いて、10月18日には、「全国の模範・東京たれ」とのモットーを、東京周辺の各県も含めた首都圏のメンバーに贈った。

これで日本国内の各方面のモットーが、すべて決まったのである。

前進には、具体的な目標とともに、使命、決意を端的に表現した合言葉が必要である。そのモットーを、常に確認し合うことで、原点に立ち返り、新しい心で出発することができる。また、使命と誇りを呼び起こしていくこともできる。彼が、各方面に示したこのモットーは、その後、各地の伝統精神となっていくのである。


1967年10月15日 東京・国立競技場で、世紀の大祭典・東京文化祭が、晴れやかに開催されたのである。出演者は人文字の4万2千人を含め6万2千人で、学会の文化祭史上、最も大規模なものとなった。

伸一は、聖教新聞紙上で訴えた「文化祭は、創価学会がいかに文化の向上に真剣であり、平和文化を愛好しているかということを示す縮図です。その姿を多数の来賓を招いて、見ていただこうではありませんか。これまでの文化祭を見た人たちは、学会に対する認識をあらためている人が多い。」

記事を見た首都圏のメンバーは、文化祭を楽しみにし、希望としながら活動を進めてきた。また、男女青年部の首脳幹部たちは「あらゆる面で、史上最高の文化祭にしていこう」と、決意し合ったのである。

さらに、文化祭の直前の10月12日に、正本堂建立発願式が行われることから、この文化祭は、世界平和の根本道場たる正本堂建立の、前夜祭と意義づけられたのだ。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

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