小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

村八分

奄美の創価学会員迫害の構図

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P232~

派遣幹部は、村八分によって生活が脅かされたり、暴力をふるわれた会員がいることから、鹿児島地方法務局の名瀬支局へ、人権侵害の実態の調査を依頼するとともに、集落の首脳らを名瀬警察署に告訴した。もはや、法的手段に出なければ、同志の人権は守りきれないところまできていたのである。

告訴された有力者のなかには、自分たちの行き過ぎを後悔する人、村八分に加担した人が、警察に引っ張られたくないと集落の首脳に詰め寄る場面もあった。

一方、学会員は心を一つにし、村八分に対しても、可能な限り、学会員同士で、協力し、守り合った。不買運動に泣く会員の店に遠くから買いに行ったり、紬工場の織子がやめて困っているところには、婦人部や女子部が 織子になって応援した。

「絶対に負けない」「最後は、必ず勝つ」その確信は、現証となって現れていった。塩を販売する塩野の店は、不買運動で、暮らしは困窮していたが、ある日、トビウオの大群が来て、大量のトビウオを保存するには、塩が必要であったが、塩を売っているのは、塩野の店だけで、人びとはやむなく彼女の店で、頭を下げて、塩を売ってくれと頼んだ。店の売り上げは倍以上になり、これを境に、この集落では 不買運動がなくなっていった。

だが、村の各集落では、依然として村八分が続いていて、しかも二回目のデモを計画し、その運動を全国に広げると放言していた。

山本伸一は、アメリカ・ヨーロッパ訪問から帰り、現状を詳しく尋ねると、奄美総支部長の野川に励ましのハガキを送った。また、事態の解決とメンバーの激励のために、再び最高幹部らを派遣することにした。

伸一は、奄美の問題についてあらゆる角度から分析を重ねていった。発端は、学会が支援した公明党候補者が当選し、村の出身である候補者が落選したことにある。村議らは、次の選挙で自分が落選することを恐れ、学会の排斥を画策した。これが、この事件の構図である。

問題は、なぜ、多くの村民が理不尽な扇動に乗ってしまったのかということである。

山本伸一は、奄美の人びとの目に、創価学会がどう映っていたのかを考えると、学会の情報は、偏見と悪意に歪められ、「香典を持っていく」「暴力宗教」「政治支配が目的だ」などといった、根も葉もない中傷誹謗ばかりであった。


村の人びとは、学会を誤解し、不気味な脅威を感じていたのであろう。村の人たちは、己の心の影ともいうべき妄想に怯え、冷静な判断力を失い、過激な学会の人権蹂躙へと走ってしまったのである。

島には、強い共同体意識があった。同胞は守り、庇う。しかし、外敵と見なせば、容赦なく排除する。その激しい気質を巧みに利用し、煽り立て、学会の弾圧に悪用したのだ。

知らざるゆえの誤解に基づく弾圧ーーそれがこの奄美の事件であるというのが、山本伸一の結論であった。この問題の根本的な解決は、地域の一人ひとりに対して、学会の真実を教え、誤解を解きほぐしていく以外にない。

郷土愛の強い奄美の人びとが、島を愛する学会員の心を知り、学会の目的と、その本当の姿を直視していくならば、誰よりも学会を理解し、共感するにちがいない。戦いとは、分断ではない。地域の発展のために結び合うことだ。

奄美に向かう幹部に伸一は「皆と仲良くすることが大切です」と伝えるよう言った。「皆さんの怒りも、苦しみも、悲しみも、私はよくわかっています。大多数の人たちは、仏法のことも、学会のこともわからずに、一部の有力者の言葉に乗って、学会を攻撃しているにすぎない。」

「私たちの目的は、自分が幸せになるとともに、すべての人を幸福にすることであり、地域を繁栄させることです。そのためには、柔和忍辱の衣を着て、大きな境涯で相手を包みながら、粘り強く対話を重ね、友情と信頼の絆を結び、広げていくことが大切になります。
」と言った。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

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学会撲滅のデモ

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P213~

3年後、1967年(昭和42年)鹿児島県議会議員選挙が行われ、奄美の大島郡地区では、公明党の候補が3位で初当選した。一方、この村の出身で、村の大多数が推した現職議員が、落選した。

村会議員や地域の有力者たちに動揺が広がった。翌年の村議選を控え、強い危機感を抱いた。また、地元出身の県会議員と繋がり、何かと便宜を図ってもらっていた有力者たちは、その後ろ盾を失ったことに、不安をいだいた。

そして、公明党を支援した創価学会に攻撃の矛先を向けた。村会議員や地域の有力者は、学会員野信心をやめさせ、学会の動きを封じようということで、もくろみが一致した。そして、各集落に呼びかけ、村をあげて学会員を圧迫し、締め出そうと謀ったのである。

もともと奄美は、選挙熱の高い地域であった。選挙となれば、現金も乱れ飛び、村や集落が真っ二つに分かれ、親戚同士で激しい争いとなったり、暴力沙汰になることも珍しくなかった。そんな風土のなかで、公明政治連盟の候補が当選を果たし、県議選でも、公明党の候補が議席を獲得したのである。

これまでの島の選挙や政治の旧弊に慣れてきた人たちの目には、学会の支援活動が、村や集落の団結を壊し、島を混乱させる危険が動きであるかのように、歪めて映ったのである。

学会員を締め出すという有力者たちの謀議は、直ちに行動に移された。会員から御本尊を没収したり、集落で学会員を締め出し、学会を辞めろと迫り、断れば、職場の解雇や、雇用の拒否、不買運動など、圧力をかけていった。

学会側が激励に回った後、深夜に脱会を迫るなど、一瞬として気を抜くことができない攻防戦が繰り広げられた。村の若者に取り囲まれ、「殺してやろうか」と脅迫された婦人もいた。しかし、同志は、"熱原の三烈士"を信心の鏡として、「いぬちんかぎり、きばらんば(命の限り頑張らなければ)との合言葉で、絶対負けまいと誓い合った。

5月に入ると3つの集落が合同して「学会撲滅」を掲げたデモを行った。約300人がバイクや大型バス、トラックや乗用車に分乗し、スピーカーを使って、学会への誹謗中傷を繰り返しながら村内を回っていった。

地元組織は、幹部と連絡をとり、このデモに対し、静観することにし、挑発にのって、暴力事件などを絶対に起こすことのないよう徹底されたのである。

"学会排斥デモ"は、地元の新聞で大きく取り上げられた。
山本伸一にこの出来事が伝えられたのは、デモのあった日の夜であった。

伸一は、厳しい口調で言った。「報告が遅すぎます。こうした大変な状況になるまでには、幾つもの段階があったはずです。最初の段階で手を打っていれば、問題をこじらせず、こんな事態になるのは防げたはずです。」

鹿児島や九州の幹部は知っていたが、大きな問題になるとは思わず、報告しなかったことを聞くと「本部の対処が遅れた分だけ、対立の溝が深まっていったように思う。幹部は、報告を受けたら、本部とよく連携をとり、直ちに反応することです。それが、同志の信頼につながる。」

「学会が、これまで、なぜ大発展してきたのか。それは、たとえ、北海道の原野の村で起きたことも、九州の山里で起きたことも、その日のうちに本部に報告され、即座に適切な手を打ってきたからです。つまり、緻密な連絡・報告そして、迅速な反応と対処があった。」

「連絡・報告が速やかに行われず、幹部がすぐに反応しない組織というのは、病んでいる状態といえる。いや、死んでいるようなものです。幹部が、惰性、マンネリに陥っている証拠といえます。そこに、油断が生じ、魔の付け入る隙ができてしまう。そして、結果的に、同志を苦しめることになる。怖いことです。」


早速、理事長の泉田と中心に検討し、学会本部から副理事長を派遣し、九州からも幹部を送り、この問題解決にあたることになった。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

奄美大島の村八分事件

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P199~

1968年11月、山本伸一は、奄美空港に降り立った。5年ぶり2度目の訪問であった。奄美大島会館へ向かう車中、前年に起きた、学会員への大々的な弾圧事件のことを訪ねた。一応の解決はみたが、学会への偏見は、根強いものがあるとの報告に、伸一は「誤解が晴れ、偏見が払しょくされるには、長い年月が必要です。何があっても、粘り強く、がんばりぬいていくしかない。」

「こうした難が起こったということは、奄美の同志の信心も、いよいよ本物になったということです。あの事件は、奄美広布の飛躍台なんです。」
と話し、車中、静かに題目を唱え、深く祈りを捧げた。

弘教の波が広がったのは、村の出身者である富岡トキノが福岡から帰って来てからであった。彼女は、父が決めた相手と結婚し、男の子を設けるがその夫に妻子がいることが発覚し、子どもを連れ、家を飛び出し、神戸で再婚した。奄美に帰っていた父親から、家の跡取りが必要と息子を取り上げられたが、新しい夫の間に娘が誕生し、幸せを手に入れたと思った矢先夫が結核で他界。店も火事になり、従業員に店の鐘を持ち逃げされるなど、失意のどん底に叩き落された。

そんななかで、学会員に出会い「宿命転換」の仏法の話を聞き、入会する。トキノは、結核に侵されていたが、折伏に励み、相手に池に突き落とされたこともあったが、微動だにせず学会活動に励むなか、幾つもの体験をつかみ、病も克服した。

そして、故郷の村に帰り、離れて暮らしていた息子とも一緒に信心に励むようになる。集落二百数十軒の家を、くまなく折伏してあるくが、土俗信仰の根強い地域であり、人びとの反発は強かった。さらに、学会員が神社の修復の寄付を拒んだことから大騒ぎになり、集落の人たちは、彼女たち一家を村八分にする取り決めを行った。

店では、何も売ってくれなくなり、祭りの日には神輿を家にぶつけられ、仕事も断られ、収入源も断たれてしまった。娘は学校でいじめられたが、母子は、明るさを失わなかった。トキノは、大聖人の御書の通りだと話し、何があっても『スットゴレ!』(なにくその意味)で頑張ろうと負けなかった。

息子は、ハブを買い取る制度ができたので、ハブを追って山の中を駆け回った。母子への圧迫は続いていたが、集落にあった神社が台風で吹き飛んだり、迫害の中心人物が、病にかかるなどの事態が生じ、村人たちは、学会の信心を悪く言うと、悪いことが起こると噂し、村八分は次第に解消されていった。

しかし、富岡母子に対する、この村八分は、その後に起こる迫害事件のほんの序章にすぎなかった。

初夏のある日、トキノが20人ほどのメンバーに御書講義をしているところに、村会議員で、学会を誹謗していた男が、酒に酔って入ってきた。男は、御書の文に難癖をつけ、トキノの手をつかみねじり上げ、顔面を殴打した。

男は、今度の選挙に公明政治連盟から候補者が出ることを知り、「俺にも票を回せ!」と叫んだ。男が暴れ出すことを心配し、皆が題目を唱え始めると、男は逃げるように帰っていった。
トキノは、「これで宿命転換ができると思う」とますます元気になっていた。

島では、選挙のたびに、そうめんや焼酎などを配り、投票依頼をするといった買収行為が後をたたなかった。8月30日に投票が行われると公政連の候補者は 1位で当選した。この選挙で、苦戦した現職議員や落選した候補者は、学会に見当ちがいな恨みをいだいた。そして、村の一、二の集落で、学会員が村八分にされるなどの事件が起こっている。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

日本人の民主主義と人権感覚

『新・人間革命』第4巻 春嵐の章 P62~


村八分事件は、社会的に見れば、日本という国の、未成熟な民主主義と
人権感覚を物語るものであったといってよい。


古来、日本には土俗的な氏神信仰があり、地域の共同体と宗教とが、
密接に結びついてきた。

江戸時代になると、幕府の宗教政策によって寺檀制度がつくられ、
寺院によって民衆が管理されるようになった。
そのなかで、寺院の言うがままに従うことが、本来の人間の道であるかのような意識が、
人びとに植えつけられていった。

明治以降、神社神道が、事実上、国教化されたことで、神社はもとより、
宗教への従属意識は、ますます強まっていった。

地域の寺院や神社に従わなければ、罪悪とするような日本人の意識の傾向は、
いわば、政治と宗教が一体となり、民衆を支配してきた、日本の歴史のなかで、
培われてきたものといえよう。



戦後、日本国憲法で信教の自由が 法的にも認められても国民の意識は変わらなかった。

そして、昔からの地域の寺院神社への寄付や宗教行事への参加が、
すべての地域住民の義務であるかのように考えられてきた。


なぜ、人びとは民主主義を口にしながらも 旧習から脱することができなかったのか。


それは、民主主義の基本となる「個」の確立がなされていなかったからにほかならない。
一人ひとりの「個」の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、
集団への隷属を免れない。



さらに、日本人には、「個」の自立の基盤となる哲学がなかったことである。
本来、その役割を担うのが宗教であるが、日本の宗教は、村という共同体や
家の宗教として存在してきたために、個人に根差した宗教とは なりえなかった。


日本人は、寺院や神社の宗教行事には参加しても、教義などへの関心はいたって低い。
これも、宗教を自分の生き方と切り離して、村や家のものと、
とらえていることの表れといえる。



もし、個人の主体的な意思で、宗教を信じようとすれば、教えの正邪などの
内実を探求し、検証していかざるをえないはずである。



こうした、宗教への無関心、無知ゆえに、
日本人は、自分宗教につい尋ねられると、どこか恥じらいながら、家の宗教を答えるか、
あるいは、無宗教であると答える場合が多い。


それに対して、欧米などの諸外国では、誇らかに胸を張って、
自分がいかなる宗教を信じているかを語るのが常である。


宗教は自己の人格、価値観、生き方の根本であり、新年の骨髄といえる。
その宗教に対する、日本人のこうした姿は、世界の常識からすれば、
はなはだ異様なものといわざるをえない。


そのなかで、日蓮仏法は個人の精神に深く内在化していった。
そして、同志は「個」の尊厳に目覚め、自己の宗教的信念を表明し、主張してきた。


いわば、一連の学会員への村八分事件は、民衆の大地に兆した「民主」の萌芽への、
「個」を埋没させてきた旧習の抑圧であったのである。



これらの「村八分事件」をうけ、信教の自由、人権を守るため、
国会の 参院予算委員会で 取り上げることにした参議院議員。

自治大臣は 個人の自由だからとやかく言う問題ではないと答弁。
しかし、水道を止められたり、共有林の財産権剥奪など深刻な問題が起きていることを 指摘。
警察も 地元有力者と 結託し、取り調べをしないなどの点を 警察庁保安局の見解も尋ねる。

調査する姿勢を示すも、学会員への有形無形の圧力や差別はなくならなかった。


それらの報告を受ける山本伸一は、常にこう話した。
「長い人生から見れば、そんなことは一瞬です。むしろ、信心の最高の思い出になります。
 仏法は勝負です。最後は必ず勝ちます。決して、悲観的になってはならない。
 何があっても、堂々と、明るく、朗らかに生きていくことです。」



伸一は、同情は その場しのぎの慰めでしかないことを、よく知っていた。
同志にとって大切なことは、何があっても、決して退くことのない、
不屈の信心に立つことである。そこにこそ、永遠に栄光の道があるからだ。



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

村八分事件

『新・人間革命』第4巻 春嵐の章 P47~


このころ、創価学会への不当な村八分が、各地で深刻さを増していた。


兵庫県のある山間の地域では、神社の守り番を、
毎年、住民が順番で行うことが慣習になっていた。


学会員の組長は 神社への奉仕や 参拝をしなければならないことが、
自分の宗教的な信条から納得できなかった。


そこで、地域の総会で、宗教は自由なので、他の行事には 喜んで協力させてもらうが、
守り番のような宗教的な行事には しないと発言。


すると、地域の臨時総会を 学会員抜きで開催し、地区規約の改正を行い、
神社行事の係りをすることを規約に 盛り込ませた。


そして、その義務を果たさない者は、地区民としての一切の権利を失うことを
明記したのだ。

地域の責任者は その規約をたてに、学会をやめるよう迫った。
学会員たちが「絶対やめない」と答えると、地域の水道委員が
学会員の家の簡易水道の元栓を止めた。


地域の義務を果たさない者は水道も使えないというのだ。
さらに、地域の行事の連絡に使われていた有線放送の設備も取り外され
共有の 山林の権利も剥奪。


学会員は 川まで水を汲みに行ってそれを飲んで暮らさなければならなかった。
近所の人たちは、挨拶もしなくなり、子どもへのいじめも始まった。


一地域で起こった学会員への 村八分事件は、憲法に保障された、信教の自由、
基本的人権を脅かすものであることは明白である。


他の地域でも 同様の村八分が 行われていた。
地元の警察署に 人権侵害、名誉棄損で告訴し、法務局にも、
規約には 憲法違反の疑いがあることを告げ、調査を要請した。


法務局は、すぐに調査を開始し、区長に対し地区規約を破棄するよう勧告。
しかし、地元の警察は、地区の役員らと密接な繋がりがあるせいか、
いくら窮状を訴えても、なかなか動きだそうとはしなかった。


地区の役員は、考えを改めようとはせず、
「憲法違反であろうが、なかろうが、地区のことは地区の規約によって
運営するものだ」といってはばからず、さらに 学会員に圧力をかけた。


そんな中、3月16日に 開催された 青年部第1回音楽総会で、山本伸一は
戸田城聖が 広宣流布の模擬試験としてしめした、式典が終了した時、
「我々は戦おうじゃないか!」と言われた意味を話す。


この日のあいさつは、聖教新聞に掲載され、全国の会員は、
決然と奮い立った。
「我々は戦おうじゃないか!」との言葉は、同志の合言葉ともなった。


村八分にあっていた学会員たちは、この指導に勇気を得て、
「村八分は 大きな魔が競い起こって 信心を試しているのだ」と、
とらえ、負けなかった。


こうした事件は 宗教色の強い行事に、半ば強制的に参加させられることへの
同志の拒否に始まっている。
それは、彼らが学会員となることによって信教の自由に目覚めたからにほかならない。



村八分は 共有林などの財産権の剥奪や 農業に必要な共同機材などを使用させない、
祭りの神輿を 店に乱入させるなど 悪質な暴力をふるわれるケースもあった。


伸一は、なんの罪もない同志が、理不尽な圧迫を受けていることが、
かわいそうでならなかった。
しかし、それは仏法の法理に照らして考えれば、当然のことでもあった。


村八分の理由は いずれも、寺院や神社への行事の不参加や、寄付の拒否であったが、
それらは、むしろ、口実にすぎなかったようだ。



本当の理由は、それぞれの地域で、本格的な折伏が始まったことへの
“恐れ”にあったといってよい。


学会の布教によって、まず、既成宗派の寺院や神社が、檀家や氏子が奪われてしまうという
危機感をいだいた。さらに、寺院や神社にかかわりのある地域の有力者たちが、
学会員が増えていけば、地域の秩序が乱され、自分たちの立場も危うくなるかのような
錯覚を持ち、学会員を締め出しにかかったのである。


そこには、他宗派や一部のマスコミの喧伝による、学会への歪められた認識もあった。



大聖人は、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」と仰せである。
難がなければ、まことの信心ではない。広宣流布が進めば、
必ず嵐が競い起こるはずだ。

確かに嵐は吹き始めたが、それは、まだまだ本格的な嵐というには、
ほど遠いことを伸一は感じていた。

全同志を、どんな大難にも、喜び勇んで立ち向かっていける、強き信仰の人に
育て上げなくてはならないと思った。


伸一は、この村八分事件を、そのためのステップととらえていたのである。



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

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