『新・人間革命』第8巻 宝剣の章 P141~

伸一は、質問を受けた後、皆と握手を交わした。
「百六箇抄」は、伸一にとっても、思いで深い御書であった。それは、彼が戸田城聖から、教学部教授の研究課題として与えられた御書であったからである。

それは、深遠にして広大無辺な仏法の世界に、伸一を導くかのような講義であり、それ自体が、師から弟子への相伝であった。戸田は言った。「この一箇条を徹底して学び深く理解していくならば、後の百五箇条もわかってくる。この『百六箇抄』がわかれば、ほかの御書もわかってくる。」

その時の伸一の御書は、戸田から受けた講義の書き込みで、真っ黒になるほどであった。

伸一は、京大生への講義では、まだ、教学の基本も身についていないメンバーに、できるかぎり噛み砕いて語っていった。

そして、「百六箇抄」が日蓮大聖人の仏法と釈尊の仏法の「本迹」「勝劣」が厳しく判別されている御書であることから、「本」と「迹」の立て分けを、あらゆる角度から論じ、人間の生き方に即して展開していったのである。

人生の根本は何か - ここに、彼の講義の最大のポイントがあった。

「百六箇抄」の最後の付文である「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の個所では、伸一はこう語った。「立つ波、吹く風、いっさいの現象について、本迹、勝劣を立て分けていきなさいという御文です。つまり、私たちの人生にも、生活にも、全部『本迹』がある。それを、きちっと見極め、立て分けていかねばならない。

「根本的にいえば、私たちの本地は、広宣流布のために出現した地涌の菩薩であり、ゆえに、広宣流布に生き抜く人生こそが『本』となる。一方、諸君が将来、社会的な地位や立場がどんなに立派になったとしても、それは『迹』です。この一点を見誤ってはならない。」

「どんな状況になっても、広布の使命を果たし抜こうとの決意があれば『本』です。環境に負け、信心を失って、使命を忘れてしまうならば『迹』になる。『本』と『迹』は、ある意味で、ほんのわずかな差といえるし、一念の問題だけに、外からはわからないこともある。しかし、仏法の眼で見れば、すべては明らかであるし、天地雲泥の差となる。」

「『本迹』を個人の一念に要約していえば、『本』とは原点であり、広宣流布の一念です。また、前進、挑戦の心です。『迹』とは惰性であり、妥協、後退です。」

「自分は今、広布のために、人間革命のために生きているのか、一念は定まっているのか - それを見極めていくことが、私たちにとって、 『本迹』を立て分けていくということになるし、その人が最後の勝利者になっていく。ゆえに、『本迹』といっても、この瞬間瞬間が勝負であり、自分のいる現実が仏道修行の道場となる」

この本迹についての伸一の講義は、受講生の心に深く刻まれ、その後の生き方の大きな支えとなっていったようだ。伸一は、講義を通して、単に仏法の法理を教えるだけでなく、一人ひとりの人生をいかに開いていくかに最も力を注いできた。
そのために、講義のあとには、必ず質問や懇談の時間をもった。

入院して病気を治そうと思うという中野には、「本当の信心を学ぶ時がきた。チャンスだよ」と話し、妻が子宮癌で危ないという滝川には、「使命があるから大丈夫だよ。仮に、信心をしていて若くして亡くなることがあったとしても、深い意味を持った死であり、後に残った人たちに何かを教えている。大事なことは、何があっても、驚き、慌てるのではなく、ますます信心を奮い立たせていくことです。私も祈るよ」と指導する。

滝川の妻はその指導を聞き、唱題を重ね、病を克服した。この体験は 夫の滝川にも信心の確信をもたらし、飛躍のバネになっていった。


太字は 『新・人間革命』第8巻より