『新・人間革命』第8巻 激流の章 P323~
そして、その日は遂に訪れた。1945年(昭和20年)の8月15日。日本の敗戦が決まり、韓・朝鮮半島の民衆に、解放の光が降り注いだ。全土に「万歳」の声が轟いた。この日は、日本の軍国主義の闇に決別した"光復の日"となったのである。
しかし、悲劇は、まだ続いた。
戦争が終わると、日本に代わって、南と北から、それぞれアメリカ軍とソ連軍が進駐し、北緯38度線を境に、南北で別個の占領政策が進められた。やがて、米ソの"冷戦"が表面化し、南北統一を求める民衆の願いとは逆に、民族の分断は固定されていった。
1948年の5月、国連の監視下に、独立政府をつくるための総選挙が南だけで行われた。そして、初代大統領には、李承晩が就任し、8月15日大韓民国が誕生する。一方、北にも、同年9月9日、金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立する。韓・朝鮮半島は、二つの国家に分断されてしまったのである。
それから、2年後1950年6月25日、同じ民族が相争う、"朝鮮戦争"(韓国戦争)が勃発した。
日本の支配から解放されても、祖国の平和の春は、いまだ遠かった。休戦協定が結ばれたのは3年後の7月であった。
日本と韓国の国交正常化をめざして、日韓会談が始まったのは、朝鮮戦争の悲劇がまだ、打ち続く1952年2月であった。以後、数次にわたって、両国の基本関係、在日韓国人の法的地位などをめぐって話し合いが行われたが、交渉は難航した。
日本側は、1910年の韓国併合条約は有効であり、それが無効になるのは終戦後だと主張していた。一方、韓国側は、併合自体を無効であるとし、36年に及ぶ日本の支配の間の賠償を求めていた。
その第3次日韓会談の席上、日本側首席代表が、"日本は朝鮮の鉄道・港を造ったり、農地の造成をした""(植民地時代の朝鮮人は)奴隷状態にあったとは考えない"等と発言した。それは、日本の統治は、韓国に恩恵も与えたというものであった。また、講和条約前の韓国の独立などについても、国際違反だとの見解を述べた。
韓国側は、「妄言」として猛反発した。一片の謝罪もなく、植民地支配を正当化する日本の姿勢に対する怒りである。その後も、日本の政治家が繰り返してきた"問題発言"の原型といってよい。これによって、日韓会談は4年半にわたって途絶したのである。
過去の過ちを忘れることは恥である。そして、過去の過ちを歪曲し、正当化することは、さらに恥ずべき行為である。日本の指導者層の、こうした傲慢な言動が、どれほど日韓の真の友好を妨げているか計り知れない。
会談が再開し、日韓両国の新しい国交を開く日韓基本条約や関係協定が結ばれたのは、1965年(昭和40年)であった。以後、日本は「賠償」としてではなく、「経済協力」というかたちで、韓国を支援することになるのである。
韓国国内では、1948年の独立以来、李承晩が大統領を務めていたが、次第に独裁を強めたため、国民の支持を失っていった。1960年の4月には、大統領選挙の不正をきっかけに、大規模な大衆デモが拡大した。その先頭にたったのが、学生たちであった。
正義と自由を叫ぶ、学生の呼びかけに応え、4月19日、万余の大衆が、大統領官邸に向かった。デモを阻止しようとした警察の実弾射撃により、多数の死者、負傷者が出た。この結果、李承晩はアメリカの支持も失い、退陣を余儀なくされた。歴史的な「4・19学生革命」である。
第2次共和制がスタートしたが、それも束の間、翌61年の5月、朴正熙を中心とした軍部がクーデターを起こして、権力を奪取するのである。
韓・朝鮮半島の人びとは、この激動の歴史のなかで、あたかも、激流に翻弄される木の葉のように生きねばならなかった。
そして、その日は遂に訪れた。1945年(昭和20年)の8月15日。日本の敗戦が決まり、韓・朝鮮半島の民衆に、解放の光が降り注いだ。全土に「万歳」の声が轟いた。この日は、日本の軍国主義の闇に決別した"光復の日"となったのである。
しかし、悲劇は、まだ続いた。
戦争が終わると、日本に代わって、南と北から、それぞれアメリカ軍とソ連軍が進駐し、北緯38度線を境に、南北で別個の占領政策が進められた。やがて、米ソの"冷戦"が表面化し、南北統一を求める民衆の願いとは逆に、民族の分断は固定されていった。
1948年の5月、国連の監視下に、独立政府をつくるための総選挙が南だけで行われた。そして、初代大統領には、李承晩が就任し、8月15日大韓民国が誕生する。一方、北にも、同年9月9日、金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立する。韓・朝鮮半島は、二つの国家に分断されてしまったのである。
それから、2年後1950年6月25日、同じ民族が相争う、"朝鮮戦争"(韓国戦争)が勃発した。
日本の支配から解放されても、祖国の平和の春は、いまだ遠かった。休戦協定が結ばれたのは3年後の7月であった。
日本と韓国の国交正常化をめざして、日韓会談が始まったのは、朝鮮戦争の悲劇がまだ、打ち続く1952年2月であった。以後、数次にわたって、両国の基本関係、在日韓国人の法的地位などをめぐって話し合いが行われたが、交渉は難航した。
日本側は、1910年の韓国併合条約は有効であり、それが無効になるのは終戦後だと主張していた。一方、韓国側は、併合自体を無効であるとし、36年に及ぶ日本の支配の間の賠償を求めていた。
その第3次日韓会談の席上、日本側首席代表が、"日本は朝鮮の鉄道・港を造ったり、農地の造成をした""(植民地時代の朝鮮人は)奴隷状態にあったとは考えない"等と発言した。それは、日本の統治は、韓国に恩恵も与えたというものであった。また、講和条約前の韓国の独立などについても、国際違反だとの見解を述べた。
韓国側は、「妄言」として猛反発した。一片の謝罪もなく、植民地支配を正当化する日本の姿勢に対する怒りである。その後も、日本の政治家が繰り返してきた"問題発言"の原型といってよい。これによって、日韓会談は4年半にわたって途絶したのである。
過去の過ちを忘れることは恥である。そして、過去の過ちを歪曲し、正当化することは、さらに恥ずべき行為である。日本の指導者層の、こうした傲慢な言動が、どれほど日韓の真の友好を妨げているか計り知れない。
会談が再開し、日韓両国の新しい国交を開く日韓基本条約や関係協定が結ばれたのは、1965年(昭和40年)であった。以後、日本は「賠償」としてではなく、「経済協力」というかたちで、韓国を支援することになるのである。
韓国国内では、1948年の独立以来、李承晩が大統領を務めていたが、次第に独裁を強めたため、国民の支持を失っていった。1960年の4月には、大統領選挙の不正をきっかけに、大規模な大衆デモが拡大した。その先頭にたったのが、学生たちであった。
正義と自由を叫ぶ、学生の呼びかけに応え、4月19日、万余の大衆が、大統領官邸に向かった。デモを阻止しようとした警察の実弾射撃により、多数の死者、負傷者が出た。この結果、李承晩はアメリカの支持も失い、退陣を余儀なくされた。歴史的な「4・19学生革命」である。
第2次共和制がスタートしたが、それも束の間、翌61年の5月、朴正熙を中心とした軍部がクーデターを起こして、権力を奪取するのである。
韓・朝鮮半島の人びとは、この激動の歴史のなかで、あたかも、激流に翻弄される木の葉のように生きねばならなかった。
太字は 『新・人間革命』第8巻より