『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P28~

池田隼人首相が病気療養のため、辞意を表明。佐藤栄作が後継首相に指名された。佐藤首相は、安保条約に同調し、アメリカの反共包囲網に同調し、台湾重視政策をとり、輸出入銀行の資金を日中貿易には使わせないとする、いわゆる「吉田書簡」を政府の方針として正式に採用したのである。

「吉田書簡」は、元首相の吉田茂が、台湾との関係修復のために、蒋介石の秘書にあて、出した私信にすぎなかったが、それを、政府が方針としたことで、輸銀の資金の使用が前提となっていた中国との大型取引がすべて無効となり、日中貿易の発展に大きな障害が生じてしまったのである。

1966年5月のある日、山本伸一は学会本部で、婦人月刊誌が企画した、作家の有吉佐和子との対談に臨んだ。対談が一段落すると有吉が、真剣な面持ちで伸一に言った。「周総理から、伝言を預かってまいりました。『将来、山本会長に、ぜひ、中国においでいただきたい。ご招待申し上げます』と伝えてください、とのことでした。」重大な”メッセージ”である。

伸一は、いよいよ本格的に、日中友好に動きはじめる「時」が来たことを実感した。有吉佐和子との対談からしばらくして、彼女から学会本部に連絡が入った。中国人の友人が、創価学会の幹部との語らいを強く希望しているというのだ。

結局、当時、青年部参与であった秋月ら三人の青年部の幹部が会うことになった。中国側は、孫平化のほか、記者二人である。秋月らは中国側の出席者が、想像した以上に若いのに驚いた。中国でも、若い力が台頭していることに、この国の未来を感じた。

報告を聞いた伸一は、「初対面の時は、互いに緊張するだけに、その硬さを解きほぐしていくことが大事なんだ。それは、笑顔だよ。そして、最初に何を言うかだ。包み込むような温かさがあり、相手をほっとさせるようなユーモアや、ウイットに富んだ言葉をかけることだよ。」

「それから、人と会う時は、相手がどういう経歴をもち、どういう家族構成かなども、知っておく努力をしなければならない。それは礼儀でもあるし、渉外の基本といってよいだろう。」

「この人は、自分のことを"ここまで知ってくれているのか"と感心もするだろうし、心もとけ合うだろう。それが、胸襟を開いた対話をするための第一歩となるんだ。」伸一は、後々のために、青年たちに、外交の在り方を語っておきたかった。

「まずは、歴史を正しく認識し、アジアの人びとが受けた、痛み、苦しみを知ることです。その思いを、人びとの心を、理解することです。そうすれば、日本人として反省の念も起こるでしょう。当然のこととして、謝罪の言葉も出るでしょう。それが大事なんです。相手が、こちらの人間としての良心、誠実さを知ってこそ、信頼が生まれていくからです。」

「国と国との外交といっても、すべては人間同士の信頼から始まる。だから、私たちは、日本の国がどういう政策をとろうが、中国の人たちとの、人間性と人間性の触れ合いを常に大切にし、人間としての誠意ある外交をしていかなければならない。」 佐藤政権は、その後も中国を敵視する政策を強化していった。

中国の国内も、揺れに揺れていた。あの「プロレタリア文化大革命」が猛威を振るっていたからである。"文革"は、革命精神を永続化する意図で、文芸や歴史学の批判から始まり、修正主義、資本主義へと傾斜していく傾向を改めようとするものであった。

66年、急進的な学生、生徒によって「紅衛兵」が組織されると、その動きは、一挙に過激化していった。"兵"といっても、年少者は13歳ほどの少年少女までいた。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋