小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

最高の技術の結集

正本堂落成慶祝行事

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P308~

1972年(昭和47年)4月28日宗旨建立の日に、日達法主は訓諭を発表し、再度、正本堂の意義を確認している。「正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。」

つまり、正本堂は大聖人御遺命の戒壇を事前に建立したものであり、広宣流布の暁には、そのまま、本門寺の戒壇となることを、後世の証明として重ねて明言し、周知徹底したのである。

10月1日には、遂に正本堂の完工式が営まれるに至った。式典には、学会をはじめ、宗門、法華講、設計・工事関係者の代表のほか、国内外の来賓千数百人、報道関係者55社90人など、合わせて6千人が参列した。

伸一から日達法主に御供養目録が差し出され、正本堂は、建設委員会から大石寺に正式に供養されたのである。

海外各地から寄せられた祝賀のメッセージは、国連事務総長やアメリカの副大統領、カナダの首相など、百通を超えていた。アメリカのサンタモニカ市長から、伸一に名誉市民の称号が授与された。このほか、正本堂落慶に際して、伸一の社会と平和への功績を讃え、世界の31の州・都市からも、名市民などの称号が贈られている。
 
山本伸一があいさつに立った。そして、民衆の真心によって建立された正本堂は、民衆のための施設であり、宗教的権威を象徴する建物ではないことを訴えていった。「正本堂は人類の恒久平和と世界文化の健全なる進歩、発展を祈願する殿堂でありますが、その祈願者は、総じてはここへ参拝する一人ひとり、全部であります。すなわち人種や老若男女を問わず、民衆全体が祈願者でありまして、ここが最大の特徴をなしているのであります。」

「ここ正本堂は『民衆が猊下とともに』『祈願をして帰る』のであります。この点において正本堂は解放された未来の世界宗教にふさわしい殿堂であると、私は信じるのであります。」

大聖人は、「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべき事尤も大切なり」と仰せである。そこには、聖職者によって祈願してもらうなどといった発想はない。民衆一人ひとりが、御本尊と相対して自ら祈願することこそ、日蓮仏法の本義なのである。

そして、今、正本堂の完成をもって、広宣流布は第二章の開幕を迎えたことを宣言したのである。

建設が始まって以来、日々、彼は、全員の無事を祈って題目を送り続けてきた。側近の幹部に、今日は何人の人が作業にあたっているかを調べてもらい、靴下やシャツなどを手配し、贈ることもあった。

完工式で、多くの作業従事者のことを考え、合掌する思いで、各社の代表に感謝状と記念品を手渡していった。人は、建物の荘厳さに感嘆する。しかし、供養や労作業など、陰で精魂を尽くし、それをつくり出した人に、目を向けようとはしない。だが、その人こそが尊いのだ。そして、その労苦に眼を凝らし、心を砕くことから、人間主義の行動が始まるのだ。

正本堂の建立寄進の発表から8年5か月、ここに、本門の戒壇となる大殿堂が、晴れて完成したのである。

10月5日には、開闡会館、輸送センター、浣衣堂が完成。
開闡会館は報道関係者のセンターとして、輸送センターは登山会の運営拠点として使用される。また、浣衣堂は登山会参加者の大浴場である。

7日には、海外メンバーら三千人が唱題するなか、大御本尊を奉安殿から正本堂に遷座したのである。
11日、大御本尊御遷座大法要が行われ、正本堂での初の御開扉となった。須弥壇の円形扉が左右に開くと、さらに美しい朝焼けを思わせる、朱金の綴れ織りをあしらった垂直扉がある。その扉が上がると、金色燦然たる厨子が現れる。皆、厳粛な思いで、合掌した。

太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

最高峰の技術の集約正本堂

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P292~ 

待望の正本堂建立発願式が挙行されたのは、この1967年の10月12日のことであった。特設された祭壇の脇には、供養に参加した800万人の名簿と、後に基礎部分に埋められる世界135ヵ国・地域の石が桐箱に収められ、供えられた。 


日達法主は、伸一の手で、広宣流布は一気に進んだことを、「願文」のなかで明言した。それは伸一と学会員の功績を称賛する永遠の証である。そして、さらに、伸一が正本堂の建立寄進を発願したことを、賛嘆するのであった。

伸一は、「発誓願文」で正本堂の意義を述べていった。正本堂は、民衆の信心の赤誠で建立され、老若男女の違いや、職業、階級、民族等、いっさいの差別を超え、全世界の民衆が等しく平和と幸福とを祈願する「根本戒壇」であることを、伸一は読み上げていった。

戒壇となる正本堂建立の伸一の誓願は、まさに広宣流布の大誓願にほかならなかった。根本の目的は、どこまでも広宣流布であり、その証、帰結としての戒壇の建立である。

現実に正法が流布されて、人びとの幸福と平和が実現されるからこそ、戒壇は、尊く、偉大なのである。そして、その実践のなかにのみ、仏法の正法正義は流れ通うのである。

山本伸一が最も心を砕いていたのは、参詣者の安全と至便であった。参詣に来た方々が、安全に疲れず、快適に過ごせることを、彼は重要なテーマとしていたのである。

地盤の載荷試験では、当初の設計で要求された1㎡に60tという強度の、3倍以上の荷重強度があることがわかった。長期にわたって十分に建造物を支えうる、強い地盤であることも立証されたのである。

正本堂の建設にあたっては、使用するコンクリートは、最も品質の優れたものにすることが基本方針として定められていた。検討を重ねた結果、コンクリートは、建設現場で製造することにし、砂なども厳選された。厳しい品質試験が行われた。皆が妥協を排して万全を期したのだ。

風洞実験や振動実験等々の各種構造実験は、東京大学宇宙航空研究所などで、日本を代表する専門家の指導を受け、丹念に行われた。

使用する鉄骨に対しても、加工や溶接後の引っ張り試験や衝撃などが厳密に行われたのである。妙壇の15分の1の幅9m高さ4mの大型模型がつくられ、起震機を使って、横揺れ、縦揺れで受ける影響や、風、雪に対する強度試験、妙壇屋根面の梁の強度試験などが繰り返された。

1969年10月12日定礎式が行われた。世界135ヵ国・地域の石を埋める儀式である。日達法主は、この式典の「表白文」のなかで、「正本堂は、本門戒壇の大本尊安置の霊堂にして、梵天帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇也」と、「三大秘法抄」の御文に即して、正本堂の意義を再確認した。

定礎式から、工事は第二期に入った。その工事の大きな山場となるのが、「妙壇」大屋根の支えを解除する「ジャッキダウン」であった。「妙壇」の屋根は東西110m、南北82・5mもあり、完成時の屋根の重量は、約2万トンと想定されていた。

その大屋根を吊り上げるのが、自転車の車輪のように、中央リングから楕円形の縁梁に、放射線状に延びた36本の鉄骨である。この鉄骨の要となる中央リングを、地上約30メートルの高さで支えてきた仮設構台から、ジャッキを使って外す作業が「ジャッキダウン」である。もし、これまでの構造計算に間違いがあれば、どんな事態が生じるかわからなかった。

午前10時5分作業が開始された。そして、午後4時52分最後の11回目のジャッキダウンが行われ終了した。コンピューターの予測数値よりも少ない数値が測定され、柱の傾きもほとんどない。すばらしい技術であった。

正本堂よ永遠なれーーとの関係者の強き一念が、大規模で複雑な難工事を可能にしたのである。
1971年の10月12日には躯体完成式が行われ、工事は、いよいよ最終段階に入った。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

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