小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

昭和47年7月豪雨

正本堂完成奉告大法要

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P270~ 

9月、記念撮影会には、7月の豪雨で被災した多くの人たちがいた。会場の待機場所には、被災したメンバーと、救援隊として駆けつけてくれた同士が再開を果たすシーンが、随所に見られた。

伸一は、「皆さんは、大きな苦難に遭いながら、広宣流布の使命を胸に、"負けるものか!"と、決然と立ち上がられた。そして、自分も大変ななか、被災したあの人を励まそう、この人を救おうと、懸命に奔走されてきた。それこそが、仏の振る舞いであり、地涌の菩薩です。そこにこそ、自他共の幸福と繁栄の根本要因がある。」

「長い目で見れば、今回の災害も、広宣流布の使命を果たすための重大な転機であることが、よくわかるはずです。どうか、一人ももれなく、幸せになってください。すでに正本堂も、その威容を現し、新しい時代の到来を待っています。さあ、未来に羽ばたこうではありませんか!」と語った。参加者は、目頭を潤ませながら、再起への決意を新たにしたのである。

世界中の同志が待ちに待ったその日は、天高く見事な快晴であった。総本山大石寺に建立寄進される正本堂の、完成奉告大法要が行われたのである。富士を背景に、堂々とそびえ立つ白亜の正本堂は、今まさに羽ばたかんと翼を広げた、鶴の英姿を思わせた。

正面には大理石の巨大な円柱が立ち並び、妙壇に入ると、美しい羽根模様の天井が広がっていた。荘厳であった。雄大であった。誰もが、その威容に目を見張った。参加者のなかには、飛行機をチャーターするなどして来日した、海外50ヵ国・地域のメンバーの姿もあった。

伸一は、感慨無量であった。彼の胸には、恩師である戸田城聖の遺言を、実現することができた喜びが満ちあふれていた。「慶讃の辞」を読む伸一の脳裏に、正本堂完成までの幾星霜の来し方が、次々と去来していった。

「正本堂」という名称は、65世の日淳法主が用いている。戸田は、正本堂の建立に思いを馳せ、どこに建てるべきかなど、登座前の日達法主と、構想を語り合っていた。そして、大客殿に次いで、大本堂ともいうべき正本堂建設の大事業を、最も信頼する弟子に託したのである。

第一回の正本堂建設委員会に出席した日達法主は、冒頭のあいさつで、一番大事な、正本堂の意義に言及した。「百六箇抄」の付文に相伝されているように大聖人が遺言された「本門寺の戒壇」建立とは、特別な戒壇堂を建立することではなく、日興上人が相承された大御本尊を御安置した本堂が、そのまま、戒壇になるというのである。

日達は、さらに言葉をついだ。「したがって、今日では、会談の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。」

日達は、正本堂こそが会談の大御本尊を安置するところであり、広宣流布の暁には、この正本堂が、大聖人仰せの『本門寺の戒壇』の意義をもつ建物であることを明らかにしたのである。

そして、彼は、あいさつをこう締めくくった。「この正本堂建立をめざして全力をそそぎ、僧俗一致して偉大な世界的建築となる正本堂を造っていただきたいと思うのでございます。もし、この建立にあたって、少しでも傷がつくようなことがあれば、それは宗門あげての恥にもなりますので、全力を挙げて建設にあたっていただきたいと念願いたします。」

山本伸一は、日達法主の示した正本堂の深い意義為感動を覚えた。「本門の戒壇」の建立は、日蓮大聖人の御遺命である。


当時は、国家の指導者の帰依がなければ、一国の広宣流布は考えられないことから、「勅宣・御教書」を得るように書き残されたが、現在は、「主権在民」である。今日では民衆の意思が、それに代わるものとなろう。

伸一は、広宣流布の暁に、その戒壇となるのが正本堂であるとの日達法主の話に、身の引き締まる思いがした。



太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

災害救援派遣活動

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P256~ 

伸一は、できることなら、米代川の堤防が決壊し、特に被害が大きかった県北の二ツ井町に行き、一人ひとりと会って励ましたいと思った。しかし、その時間を確保することはできなかった。そこで、東京から男子部の幹部を急行させ、救援作業にあたるように指示していたのだ。

学会の救援隊の青年たちは、励ましの声をかけ、オニギリを配りながら、被災者に、何が必要なのかなど、要望を聞いていった。トラックを借り、路上にあふれたゴミの回収に駆けまわったり、清掃作業に汗を流す救援隊のメンバーもいた。

仏法者として、学会員として、困っている人のために何ができるかを、真剣に考えての行動であった。その振る舞いのなかにこそ、信仰の輝きがある。学会の救援隊を見て、感嘆する住民も少なくなかった。しみじみ語った。「こういう時に、信仰している人のすごさが、よくわかるなぁ」それを聞くと、被災した学会員は、奮起せざるをえなかった。苦悩を使命に変えて、同志は次々と立ち上がっていったのである。

西日本では、再び、がけ崩れによる家屋倒壊や浸水など、大きな被害が広がっていたのである。伸一の対応は素早かった。それぞれの地域に救援本部を設置し、学会本部が全面的にバックアップしていくよう詳細に支持していた。

伸一の電報が届くと、島根の幹部たちは、勇気が沸くのを覚えた。皆、意気揚々と救援活動に飛び出していった。希望を配ろう。勇気を贈ろうーーそれが皆の心意気であった。

被災地のメンバーと語らい、励まし続けている伸一は、今、いかなる救援物資が必要緒であり、いかなる激励が大事であるかを、肌で感じることができたのである。リーダーは最前線を走れ、現場に立てーーそれを忘れれば、人の苦悩も、心もわからなくなる。そして、そこから、組織を蝕む官僚主義の悪弊が始まるのだ。動かぬ水は腐る。

中国地方では、広島の三島市の被害が大きかった。そのなかでも、自らも被災者でありながら、率先して救援に動く、一人の男子部員の姿が感動を広げていた。

21歳の渡瀬健也は、病院から退院してきたばかりの母と、高校生の弟と家にいた。父は病で入院中であった。深夜、堤防が決壊し、家が水没し始めた。母を弟力を合わせ、屋根の上に避難させた。濁流に押し流され、ゴムホースの外れたプロパンガスのボンベからガスが漏れていた。

"こんなことで死んでたまるか!わしは生き延びて、広宣流布をするんじゃ。信心の力をみんなにみせちゃる!"救助され、家の後片付けに戻ると、家の壁はなくなり、家財も流されていた。だが、渡瀬は命が助かったこと自体が功徳だと、心の底から感じていた。それが、絶対に再起できるとの、大きな確信となっていた。

地域の男子部員がオニギリを持ってきてくれた。同志の真心の温かさが胸に染みた。壮年の総ブロック長が、学会からの救援物資を配る派遣隊の人たちの道案内をしてほしいと頼まれる。渡瀬は、御本尊に命を救てもらったと思って、感謝の思いでなんでもやらせてもらいますと答えた。

被災者の多くは、戸惑い、途方に暮れ、意気消沈していた。渡瀬は、はつらつと励ましの声をかけた。そして、渡瀬も水害ですべてを失ってしまった被災者であることを知ると、皆が、自分のことばかり考えていてはいけないと、困難に負けぬ、意気軒高な渡瀬の姿に、被災者は勇気を奮い起こしていった。

渡瀬に限らず、自身も被災しながら、災害に負けず、友のために親身になって奔走する学会員の姿が各地にみられた。

嬉しいニュースが届いた。山本会長が、被災地のメンバーとの記念撮影会を行うことが決まったのだ。被災した同志たちの喜びは大きかった。"水害なんかに負けるものか!"皆の胸に闘魂の火がついた。被災地のメンバーは、一日千秋の思いで、記念撮影の日を待った。



太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

秋田を変毒為薬と 渾身の指導

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P242~ 

伸一は、彼女が総ブロック委員をしていることを聞き、「同じ学会活動をしていても、自由なな立場で、気ままに動いている人もいるでし ょう。そうした人を見て"いいな"と思うこともあるかもしれないが、苦労した分だけ、すべて自らの功徳、福運になる。それが仏法の因果の理法であり、その事を確信できるかどうかです。」と語った。

一生成仏への道は、わが生命を磨くことであり、自行化他の題目、つまり広宣流布の活動のなかにこそ、自身の生命を磨き、絶対益幸福境涯を築く道がある。これが、日蓮仏法の教えなのである。

ゆえに、学会員は、そのご指導のままに、皆が「冥の照覧」を、そして、「陰徳あれば陽報あり」の御門を確信し、わが信念としてきたのだ。だから、世間的な利害や損得をかなぐり捨て、広宣流布のため、仏法のために、勇んで苦労を買ってでた。

そこにこそ、創価学会の強さがあり、清らかさがあり正義がある。しかし、この生命の因果の法則を見失い、「己心の外」に絶対的幸福の方法があるように錯覚し、権勢を求めたり、名聞名利や保身に走るならば、それは、仏法からの逸脱であり、浅ましき外道の姿である。

そうなれば、学会も、広宣流布も蝕まれ、崩壊していくことになる。それだけに、雪深い町で、総ブロック委員として、皆の幸福のために献身する大鳥スギに、彼は心から称賛を惜しまなかったのだ。

伸一が、去ると、今度は妻の峯子が大鳥に声をかけた。十分な時間がとれない伸一に代わって、話を聞くためである。峯子は多忙な伸一を、自分がどうすれば、支え、補うことができるか、常に心を砕いてきたのである。

伸一にとって、峯子は、共に広宣流布の大願に生きる、かけがえのない同志であり、会長の重責を担っていくうえで、必要不可欠な「戦友」でもあった。

7月11日、山本伸一は秋田に移動した。会館は、救援対策本部の観を呈した。記念撮影の対象で会ったメンバーへの激励大会がもたれていた。伸一は、会場の前方にくるとにこやかに語りかけた。

「大事なことは、ここから、どうしていくかです。長い人生には、災害だけでなく、倒産、失業、事故、愛する人との死など、さまざまな窮地に立つことがある。順調なだけの人生などありえません。むしろ、試練と苦難の明け暮れこそが人生であり、それが生きるということであると言っても、決して過言ではない。」

「では、どうすれば、苦難に負けずに、人生の真の勝利を飾れるか。仏法には『変毒為薬』つまり『毒を変じて薬と為す』と説かれているんです。信心によって、どんな最悪な事態も、功徳、幸福へと転じていけることを示した原理です。これを大確信することです。

「この原理は、見方を変えれば、成仏、幸福という『薬』を得るには、苦悩という『毒』を克服しなければならないことを示しています。いわば、苦悩は幸福の花を咲かせゆく種子なんです。だから、苦難を恐れてはなりません。敢然と立ち向かっていくことです。」

「もう一つ大事なことは、自分が今、窮地に陥り、苦悩しているのはなんのためかという、深い意味を知ることです。もし、災害に遭った同志の皆さんが、堂々と再起していくことができれば、変毒為薬の原理を明らかにし、仏法の偉大さを社会に示すことができる。実はそのための苦難なんです。」

記念撮影会が中止になったのは、信心に問題があるからなのかと質問した青年には、自然現象だから、どんなに信心強盛な人でも、台風や大雪にも遭う。しかし、それをいちいち信心に結び付けくよくよ悩む必要はない。結果にとらわれ、力が出ないのでは、信心の意味はない。次は、大成功させるぞと新たな気持ちでスタートすればよいと指導。

「どんな時も、未来へ未来へと、希望を燃やし、力強く前進していくならば、それ自体が、人生の勝利なんです。信心の証明なんです」と話した。

太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

47年7月豪雨のなかの山形指導

『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P227~ 

<羽ばたきの章 開始>

1972年(昭和47年)の5月28日、欧米訪問から帰国した山本伸一は、休む間もなく6月には、関西・四国訪問を敢行し、さらに、北海道へ飛んだ。7月の9日からは、宮城での大学会結成式や、山形、秋田、岩手の記念撮影会などに出席するため、東北訪問が予定されていた。

この7月には、大雨が続き「昭和47年7月豪雨」と呼ばれ、全国各地で大きな被害を出したのである。9日には、秋田県などで、河川の氾濫による浸水害が多発したのである。

このうち、大雨による被害が最も大きかったのが、秋田県であった。この洪水によって国道も普通になり、国鉄の奥羽線も運転が打ち切られ、五能線も不通となったのである。秋田県の幹部たちは、記念撮影会の開催をめぐって協議を重ね、「今回の記念撮影会は、涙をのんで中止とさせていただこう」ということになった。

山本伸一は、直ちに幹部たちに伝言した。「賢明な判断です。こういう時に、皆に無理をさせ、負担をかけてはならない。今は、全員が心を一つにして、復興に全力を尽くす時です。幹部の皆さんは一刻も早く、被災した方々の激励にあたってください」


「記念撮影はなくなったが、私は、秋田へ行きます!」「そういう時こそ、最も大変な人たちのところへ、万難を排して足を運ぶんです。それが真のリーダーです。一番、苦しんでいる時に励まさずして、いつ励ますんですか。」

「何ごとにも、時がある。今こそ、命を削る思いで、秋田の同志を激励すべき時なんです。私は行きます。」苦しんでいる同志のために、幹部が率先して、迅速に励ましの手を差し伸べるーーそこに学会の強さがあり、創価の人間主義の輝きがある。

参加者のなかには、畑が流された婦人もいた。
「大きな被害を受けた方もおられるでしょう。しかし、大聖人は『災来るとも変じて幸と為らん』とお約束です。その実証を示すための試練です。断じて勝たねばならない。私たちは獅子だからです!」

この叫びが、電撃のごとく彼女の胸を打った。”そうだ。私は負けるわけにはいかない!”彼女の目に決意が光った。強さを引き出す力が、まさに真心と確信の励ましなのだ。

伸一は、青年時代に勤めていた大東商工のすぐ近くの食堂で働いていた、大鳥スギという婦人と約20年ぶりに再会する。若き日の伸一は、常に、さわやかなあいさつを交わすよう心がけていた。市谷食堂でも、従業員の誰にでも、気さくに声をかけた。あいさつには、その人の人柄、性格、生き方が端的に現れるものだ。

伸一が来ると、いつも明るい笑い声が広がった。”山本さん”は、皆から親しまれていた。大島は、毎日のように伸一を目にしていたが、創価学会については何も知らなかった。彼女は結婚し、夫の勤めていた会社が倒産し、故郷の新潟に住んでいたが、親しくなった人に、山形の小国町で、時計の修理店を出したらどうかと言われ、引っ越してきた。

ここで、本当に商売していけるか不安だった時、どんな願いも叶うと聞かされ、入会した。紹介者から見せられた大白蓮華に”あの山本さん”の写真を見つけ、山本さんがやっている信仰なら間違いないだろうと、真剣に信心に励むようになる。

2か月後夫も信心を始め、夫妻で毎日のように弘教に歩いた。東京23区よりも広い小国町を二人は歩きに歩き、着実に弘教を実らせていった。

彼女の願いは、いつか、直接、伸一と会って、学会員になれた喜びを伝えたいということであった。強き一念は必ず実を結ぶものだ。彼女は報告したいことはたくさんあったが、伸一を目の前にすると、言葉が出なかった。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

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