『新・人間革命』第13巻 北斗の章 P115~
怒鳴られもした、追い返されたこともあった。塩も撒かれた。水をかけられることもあった。しかし、皆、意気揚々としていた。
皆、さまざまな苦悩をかかえていたが、その苦悩に押しつぶされてはいなかった。地涌の菩薩として、仏の使いとして、弘教に励む、歓喜と誇りに満ちあふれていた。同志は、むしろ、自分の生活苦や病苦よりも、友の悩みに胸を痛めた。社会の、日本の将来を憂え、世界の平和に思いをめぐらせた。
既に、その一念においては、自身の苦悩に煩わされることのない、大いなる境涯を会得していたのである。境涯の革命は現実生活の転換をもたらし、功徳の花々を咲かせ、幸福の果実を実らせていった。
師と共に広布の誓願に生きるーーそこにこそ、絶対的幸福へと至る自身の人間革命と宿命転換の直道がある。この広宣流布の聖業に参加できることは、われら創価学会員に与えられた栄誉であり、特権といえようか。
旭川総合本部の副総合本部長で、旭川の初代地区部長を務めた中山一郎は、製紙会社の社宅であったが、長年、自宅を活動の拠点として提供してきた。いつも多くの学会員が出入りし、遠方から旭川にやってきた同志が彼の家に宿泊し、5人いる子どもたちが、朝、目を覚ますと、見知らぬ人が自分の布団に、一緒に寝ていることもたびたびあった。
広宣流布のためのわが人生であるーーそれが中山の決意であり、信念であった。妻の二三恵は、必死でやりくりしながら家計を支え、訪れる青年たちには、いつも食事を振る舞い、生活苦と戦っている同志には、そっと米などを持たせることもあった。
伸一は、彼らの献身を耳にし、申し訳なさに胸が痛んだ。"こうした見えざる苦労が、広宣流布を、学会を支えているのだ。この家からも、いかに多くの人材が育っていったことか 我が家を活動の拠点に提供し、広宣流布に貢献してきた功徳は、無量であり、無辺である。それは、大福運、大功徳となって、子々孫々までも照らしゆくにちがいない"伸一は万感の思いで感謝を語った。
中山はもともと法華講であり、旭川の日蓮正宗寺院宝竜寺の信徒であった。中山は、『大白蓮華』に掲載されていた戸田城聖の「生命論」に、何気なく目を通した時、「生命とは何か」という問題を明快に解き明かしていることに感激し、戸田城聖の言う、究極の法であるこの仏法を布教しようと思った。
初めて折伏に挑戦するが、満足に仏法の法理を説明できず、学会から『折伏経典』『聖教新聞』を購読し、一人、仏法の研鑽をしていた。
その頃、愛別の法宣寺で檀家総代をしていた野末徳一は、大石寺で知り合った学会と話し、大聖人の御精神は、広宣流布のため、折伏することだと聞かされる。寺では、そんなことを聞いたこともなく、学会の座談会に出てみると全員が上手に読経しているのが不思議だった。寺では、朝晩の勤行をしている人などいなかったからだ。
座談会では、参加者が 活気に満ち、功徳の体験にあふれ、歓喜があり、確信があった。寺での行事は、いつも暗く、重たい雰囲気に包まれていたが、全く正反対といってよかった。"これが同じ宗派なのだろうか。しかし、御本尊は同じである。いったい何が、これほど明暗を際立たせているのか"そう考えながら、野末は、冷静に座談会を観察していた。
幹部は御書を拝して指導し、参加者の話にも随所に御書の御文が引かれていた。"学会では、御書を根本にし、皆が真剣に研鑽に励み、大聖人の仰せの通りに実践しようとしているのか!"寺では、住職が御書の研鑽を呼びかけるのを聞いたことは、ほとんどなかった。
野末は学会員が広宣流布の使命に燃えて、人びとを幸福にするのだと、勇んで弘教に励んでいることに驚嘆した。住職でさえもしなかった折伏を、信徒である学会員が懸命に実践しているのだ。彼は感動した。
また、『大白蓮華』のなかに書かれていた、創価学会の歴史を読み、宗門が、軍部政府の弾圧を受け、神札を祭り、学会にも神札を受けるよう迫ったのを知り、愕然とした。
そして、"大聖人の御精神を受け継いでいるのは創価学会なのだ。学会にしか、正しい信心はないのかもしれない!"と考え、"自分は、檀家総代として、皆にそれを伝える責任と義務があるのではないか。これまでの、寺の信心では、せっかく正しい御本尊を持っていても、一生成仏など、できようはずがない。すぐにでも、寺をあげて、創価学会に入れていただくべきではないか。"
愛別に戻った野末は、中山一郎のところに、相談に訪れた。中山は、野末の話を聞くと、意気投合し、創価学会に入って、信心を学んでいこうということになった。
太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋
怒鳴られもした、追い返されたこともあった。塩も撒かれた。水をかけられることもあった。しかし、皆、意気揚々としていた。
皆、さまざまな苦悩をかかえていたが、その苦悩に押しつぶされてはいなかった。地涌の菩薩として、仏の使いとして、弘教に励む、歓喜と誇りに満ちあふれていた。同志は、むしろ、自分の生活苦や病苦よりも、友の悩みに胸を痛めた。社会の、日本の将来を憂え、世界の平和に思いをめぐらせた。
既に、その一念においては、自身の苦悩に煩わされることのない、大いなる境涯を会得していたのである。境涯の革命は現実生活の転換をもたらし、功徳の花々を咲かせ、幸福の果実を実らせていった。
師と共に広布の誓願に生きるーーそこにこそ、絶対的幸福へと至る自身の人間革命と宿命転換の直道がある。この広宣流布の聖業に参加できることは、われら創価学会員に与えられた栄誉であり、特権といえようか。
旭川総合本部の副総合本部長で、旭川の初代地区部長を務めた中山一郎は、製紙会社の社宅であったが、長年、自宅を活動の拠点として提供してきた。いつも多くの学会員が出入りし、遠方から旭川にやってきた同志が彼の家に宿泊し、5人いる子どもたちが、朝、目を覚ますと、見知らぬ人が自分の布団に、一緒に寝ていることもたびたびあった。
広宣流布のためのわが人生であるーーそれが中山の決意であり、信念であった。妻の二三恵は、必死でやりくりしながら家計を支え、訪れる青年たちには、いつも食事を振る舞い、生活苦と戦っている同志には、そっと米などを持たせることもあった。
伸一は、彼らの献身を耳にし、申し訳なさに胸が痛んだ。"こうした見えざる苦労が、広宣流布を、学会を支えているのだ。この家からも、いかに多くの人材が育っていったことか 我が家を活動の拠点に提供し、広宣流布に貢献してきた功徳は、無量であり、無辺である。それは、大福運、大功徳となって、子々孫々までも照らしゆくにちがいない"伸一は万感の思いで感謝を語った。
中山はもともと法華講であり、旭川の日蓮正宗寺院宝竜寺の信徒であった。中山は、『大白蓮華』に掲載されていた戸田城聖の「生命論」に、何気なく目を通した時、「生命とは何か」という問題を明快に解き明かしていることに感激し、戸田城聖の言う、究極の法であるこの仏法を布教しようと思った。
初めて折伏に挑戦するが、満足に仏法の法理を説明できず、学会から『折伏経典』『聖教新聞』を購読し、一人、仏法の研鑽をしていた。
その頃、愛別の法宣寺で檀家総代をしていた野末徳一は、大石寺で知り合った学会と話し、大聖人の御精神は、広宣流布のため、折伏することだと聞かされる。寺では、そんなことを聞いたこともなく、学会の座談会に出てみると全員が上手に読経しているのが不思議だった。寺では、朝晩の勤行をしている人などいなかったからだ。
座談会では、参加者が 活気に満ち、功徳の体験にあふれ、歓喜があり、確信があった。寺での行事は、いつも暗く、重たい雰囲気に包まれていたが、全く正反対といってよかった。"これが同じ宗派なのだろうか。しかし、御本尊は同じである。いったい何が、これほど明暗を際立たせているのか"そう考えながら、野末は、冷静に座談会を観察していた。
幹部は御書を拝して指導し、参加者の話にも随所に御書の御文が引かれていた。"学会では、御書を根本にし、皆が真剣に研鑽に励み、大聖人の仰せの通りに実践しようとしているのか!"寺では、住職が御書の研鑽を呼びかけるのを聞いたことは、ほとんどなかった。
野末は学会員が広宣流布の使命に燃えて、人びとを幸福にするのだと、勇んで弘教に励んでいることに驚嘆した。住職でさえもしなかった折伏を、信徒である学会員が懸命に実践しているのだ。彼は感動した。
また、『大白蓮華』のなかに書かれていた、創価学会の歴史を読み、宗門が、軍部政府の弾圧を受け、神札を祭り、学会にも神札を受けるよう迫ったのを知り、愕然とした。
そして、"大聖人の御精神を受け継いでいるのは創価学会なのだ。学会にしか、正しい信心はないのかもしれない!"と考え、"自分は、檀家総代として、皆にそれを伝える責任と義務があるのではないか。これまでの、寺の信心では、せっかく正しい御本尊を持っていても、一生成仏など、できようはずがない。すぐにでも、寺をあげて、創価学会に入れていただくべきではないか。"
愛別に戻った野末は、中山一郎のところに、相談に訪れた。中山は、野末の話を聞くと、意気投合し、創価学会に入って、信心を学んでいこうということになった。
太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋