小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

旭川指導

師と共に広宣流布の誓願に生きる

『新・人間革命』第13巻 北斗の章 P115~

怒鳴られもした、追い返されたこともあった。塩も撒かれた。水をかけられることもあった。しかし、皆、意気揚々としていた。

皆、さまざまな苦悩をかかえていたが、その苦悩に押しつぶされてはいなかった。地涌の菩薩として、仏の使いとして、弘教に励む、歓喜と誇りに満ちあふれていた。同志は、むしろ、自分の生活苦や病苦よりも、友の悩みに胸を痛めた。社会の、日本の将来を憂え、世界の平和に思いをめぐらせた。 

既に、その一念においては、自身の苦悩に煩わされることのない、大いなる境涯を会得していたのである。境涯の革命は現実生活の転換をもたらし、功徳の花々を咲かせ、幸福の果実を実らせていった。

師と共に広布の誓願に生きるーーそこにこそ、絶対的幸福へと至る自身の人間革命と宿命転換の直道がある。この広宣流布の聖業に参加できることは、われら創価学会員に与えられた栄誉であり、特権といえようか。

旭川総合本部の副総合本部長で、旭川の初代地区部長を務めた中山一郎は、製紙会社の社宅であったが、長年、自宅を活動の拠点として提供してきた。いつも多くの学会員が出入りし、遠方から旭川にやってきた同志が彼の家に宿泊し、5人いる子どもたちが、朝、目を覚ますと、見知らぬ人が自分の布団に、一緒に寝ていることもたびたびあった。

広宣流布のためのわが人生であるーーそれが中山の決意であり、信念であった。妻の二三恵は、必死でやりくりしながら家計を支え、訪れる青年たちには、いつも食事を振る舞い、生活苦と戦っている同志には、そっと米などを持たせることもあった。

伸一は、彼らの献身を耳にし、申し訳なさに胸が痛んだ。"こうした見えざる苦労が、広宣流布を、学会を支えているのだ。この家からも、いかに多くの人材が育っていったことか 我が家を活動の拠点に提供し、広宣流布に貢献してきた功徳は、無量であり、無辺である。それは、大福運、大功徳となって、子々孫々までも照らしゆくにちがいない"伸一は万感の思いで感謝を語った。

中山はもともと法華講であり、旭川の日蓮正宗寺院宝竜寺の信徒であった。中山は、『大白蓮華』に掲載されていた戸田城聖の「生命論」に、何気なく目を通した時、「生命とは何か」という問題を明快に解き明かしていることに感激し、戸田城聖の言う、究極の法であるこの仏法を布教しようと思った。

初めて折伏に挑戦するが、満足に仏法の法理を説明できず、学会から『折伏経典』『聖教新聞』を購読し、一人、仏法の研鑽をしていた。

その頃、愛別の法宣寺で檀家総代をしていた野末徳一は、大石寺で知り合った学会と話し、大聖人の御精神は、広宣流布のため、折伏することだと聞かされる。寺では、そんなことを聞いたこともなく、学会の座談会に出てみると全員が上手に読経しているのが不思議だった。寺では、朝晩の勤行をしている人などいなかったからだ。

座談会では、参加者が 活気に満ち、功徳の体験にあふれ、歓喜があり、確信があった。寺での行事は、いつも暗く、重たい雰囲気に包まれていたが、全く正反対といってよかった。"これが同じ宗派なのだろうか。しかし、御本尊は同じである。いったい何が、これほど明暗を際立たせているのか"そう考えながら、野末は、冷静に座談会を観察していた。

幹部は御書を拝して指導し、参加者の話にも随所に御書の御文が引かれていた。"学会では、御書を根本にし、皆が真剣に研鑽に励み、大聖人の仰せの通りに実践しようとしているのか!"寺では、住職が御書の研鑽を呼びかけるのを聞いたことは、ほとんどなかった。

野末は学会員が広宣流布の使命に燃えて、人びとを幸福にするのだと、勇んで弘教に励んでいることに驚嘆した。住職でさえもしなかった折伏を、信徒である学会員が懸命に実践しているのだ。彼は感動した。

また、『大白蓮華』のなかに書かれていた、創価学会の歴史を読み、宗門が、軍部政府の弾圧を受け、神札を祭り、学会にも神札を受けるよう迫ったのを知り、愕然とした。

そして、"大聖人の御精神を受け継いでいるのは創価学会なのだ。学会にしか、正しい信心はないのかもしれない!"と考え、"自分は、檀家総代として、皆にそれを伝える責任と義務があるのではないか。これまでの、寺の信心では、せっかく正しい御本尊を持っていても、一生成仏など、できようはずがない。すぐにでも、寺をあげて、創価学会に入れていただくべきではないか。"

愛別に戻った野末は、中山一郎のところに、相談に訪れた。中山は、野末の話を聞くと、意気投合し、創価学会に入って、信心を学んでいこうということになった。

太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

北海道 旭川指導へ

『新・人間革命』第13巻 北斗の章 P104~

1967年(昭和43年)9月13日、山本伸一は、北海道の旭川へ飛んだ。日本最北端の街、稚内へ向かうためであった。当時は、稚内への定期便はまだなかった。伸一は、空路、札幌を経由して、旭川まで行き、翌日列車で、稚内に行くことにしていた。

旭川の同志たちは、今回、旭川での会合等の出席はないと伝えられていたが、"一目でもお会いしたい"と、学会が寄進した大法寺に集まり、唱題会を行っていた。伸一は、「皆が、私が来るのを待っているのだろう」と激励に行くと言い出した。

同行の幹部は、伸一が体調を崩して、発熱していることに加え、原稿執筆などの時間がなくなるとその分睡眠を削ることになると心配していたが、伸一は、「次に旭川に来るのは、いつになるかわからない」と勇んで会場に向かった。

彼は、常に「臨終只今にあり」と、自らに言い聞かせ、人との出会いの場では、いつも「一期一会」の思いで、命を振り絞るようにして励ました。

大法寺には、忘れえぬ思い出があった。戸田城聖が亡くなった翌年、1月、旭川を初訪問した伸一。有名大学出身の要領のいい幹部が「もっと暖かい時に行かれたらいいのに」とあきれたように言った時、伸一は、厳しい口調で「厳寒の季節だからこそ、最も寒い所に行くんです。そうでなければ、そこで戦う同志の苦労はわからない。幹部が率先して、一番困難なところにぶつかっていくんです。法華経は"冬の信心"ではないですか!」

信心は要領ではない。最も厳しい所に身を置き、泣くような思いで戦い抜いてこそ、本当の成長があり、初めて自身の宿命の転換も可能となる。さらに、その姿に触発され、同志も立ち上がるのである。

旭川の大法寺では、御書講義が行われた。会場は満員であり、外にも200人ほどの青年があふれていた。途中から雪が降り始めたが、青年たちは、外で立ったまま、開け放たれた窓に向かって、耳を澄まし、講義を聴いた。

会場の屋根の上に積もっていた雪が崩れ落ち、何人かの男子部員の頭上を直撃し、頭から雪をかぶり、まるで雪だるまのようになったが、彼らは、まったくたじろがず、御書の上の雪を払うと、何事もなかったかのように講義に聴き入っていた。そこには、"剣豪の修行"のごとき、峻厳さがあった。

伸一は、4たび旭川の大地を踏んで、大法寺で勤行した。唱題が終わると、伸一は、「"学会の同志の皆さんを幸せにしたい。また、皆さんの子どもさんに幸福になってもらいたい"との一念で今日まで来ました。」「これからも一生涯、最後の死の瞬間まで、私は皆さんの幸せを願い、何千万遍と、題目を送り続けていきます」と語った。

「世間の繁栄は相対的なものであり、諸行無常です。では、永遠の繁栄と幸福は、どうすれば得られるのか。それは、わが生命の宮殿を開き、自身の境涯を高めていく以外にありません。それには、広宣流布という大誓願に生き抜いていくことです」

日蓮仏法の最たる特徴は、世界の広宣流布を指標に掲げ、その実践をといていることにある。「広宣流布の宗教」ゆえに日蓮大聖人は、自行化他にわたる仏道修行、すなわち、唱題とともに修行の柱として折伏・弘教を打ち立てているのだ。

では、なぜ大聖人は弘教を叫ばれたのか。衆生自身が大聖人と同じく広宣流布を誓願し、弘教に励みゆくなかにこそ、一生成仏の大道があるからだ。


草創期のメンバーは、入会し、勤行を習うと同時に、先輩について弘教に歩いた。皆、借金をかかえ、家族の誰かが病苦に悩み、家では諍いが絶えないような状態のなかでの活動である。弘教といっても、最初は、何を、どう話していけばよいのか、全くわからなかった。ただ、相槌を打つのが精いっぱいであった。

それでも、活動に励むと、全身に新しい力がみなぎり、希望が感じられた。広宣流布の尊き使命に目覚めた同志は、貧しき友の家にも、社会的に立派な地位や肩書をもつ人の豪邸にも、勇んで足を運び、喜々として、仏法を語った。



太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

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