小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

日顕

大客殿落成

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P7~

<新・人間革命 第9巻 「新時代の章」始まる>

生命は永遠である。
それゆえに、人間革命が必要である。
それは、何故か。
今世の修行が、因果の厳しき理法により、来世への、永遠の自己それ自体の生命となるからである。

1964年4月1日。戸田の七回忌法要に先立ち、大客殿落成慶讃大法要が執り行われた。
建物の高さは、30・87メートル、延べ床面積は1万455㎡の鉄筋コンクリート5階建てである。

各階には、蓮華の花弁をかたどった回廊が設けられていた。また、屋根は、シェル構造という、二枚の貝を重ね合わせたような形をしており、その大屋根と柱の接点は、480個の鋼球で支えられていた。

これは、地震などの揺れに備えた耐震設計で、安全性の確保に、この大客殿の一つの特徴があった。イタリア産の大理石の手すりが光る正面の中央階段を上ると、鮮やかな赤と白と黒の陶板を張った鳳凰の壁画が、偉観を呈していた。雄々しく翼を広げた鳳雛の姿は、世界の大空に飛翔する日蓮仏法を象徴しているかのようであった。

下絵は、後に日本芸術大賞を受賞し、現代日本画の巨匠といわれる加山又造が制作し、陶板は、陶芸界の名匠の誉れ高い加藤唐九郎が焼いたものであった。まさに、現代日本を代表する芸術家による、世界に誇る最高の壁画である。

三階がこの建物の中心となる大広間で、吹き抜けになった天井には、台湾産の檜の梁が、美しい幾何学模様をつくり出していた。この大広間は、内陣外陣、広縁を合わせると、最高5千人まで収容することができた。

須弥壇の床には、スウェーデン産の黒御影石が使われ、その真下にあるコンクリートの礎石には、伸一が世界を回って集めた石など、46ヵ国の石が打ちこまれていた。

そして、大広間の天井には、ヨーロッパ製のシャンデリアが燦然と輝きを放っている。また、広縁の天井に使われているのは、カナダの杉の柾目板である。

戸田城聖が、大講堂を建立した直後 山本伸一に遺言し、世界の名材を集めて、大客殿を建立するように、指示したのである。その言葉通りに、伸一が世界各地を回り、入手した貴重な名材をもって、大客殿が荘厳されたのである。

設計は、寺院建築の近代化を開いた旗手として注目されていた建築家であった。彼は、この建物は後世永遠に残る大建築にしなければならないとの思いで、研究、工夫、実験を重ねてきたのである。

基礎工事では間口約60m、奥行き約50mにわたって、7mの深さまで掘り下げられ、コンクリートが打たれた。建物がいつまでも崩れることのないよう、土台づくりには、ことのほか力が注がれたのである。

大客殿の設計者も、施工者も、千年、二千年と残る、日本を代表する宗教建築をつくり上げようとの、決意に燃えていた。また、建築の槌音とともに、同志の広宣流布への意気は高まっていった。

慶讃法要では、日達法主が「これよりは修理を加え、勤行を致し、謗法の魔縁を退けて広宣流布を迎えんことを誓ふ」と述べた。

しかし、この落慶からわずか30余年、総本山大石寺は、「謗法の魔山」そのものとなった。そして、67世の法主となった日顕によって、この華麗な大客殿は、なんら修理もされぬまま、無残に取り壊されてしまうことになる。

日顕にとって、日達法主は先師である。師匠である。だが、嫉妬に狂った彼は、師の業績の証となる建物を ことごとく破壊していったのである。

それは、大客殿という建物にとどまらず、浄財を供養した 140万世帯の会員の赤誠の破壊であった。いや、甚深なる日蓮仏法の大法理そのものを、日顕は破壊したといってよい。


太字は 『新・人間革命』第9巻より

日顕 阿部信雄

『新・人間革命』第7巻 操舵の章 P367~

3月16日 海外初の“出張御授戒”に二人の僧侶が出発する日は、雨であった。山本会長の海外への出発の時には、雨が降ることなどなかっただけに、意義ある日に、小雨が降り始めたことが 気がかりなメンバー達だった。

会員たちは、ありがたさと喜びで胸がいっぱいだったが、阿部信雄のこの海外派遣は、未聞の大汚点を永遠にとどめることになる。

この3月16日の夜、東京日比谷公会堂では、会長山本伸一が出席して、青年部の弁論大会が盛大に開催された。

そこには、無責任極まりないマスコミや評論家、また、腐りきった政治家への怒りが燃えていた。


あいさつに立った彼は、最後に、声を大にして、後継の青年たちに呼びかけた。「御書を徹して学び、仏法の哲理を究明し抜いていただきたい。また、御本尊を抱きしめる思いで、題目を唱えに唱え、偉大なる功力を、わが身で体験し抜いていただきたい。そして、大聖人の仏法こそ絶対であるとの、大確信をつかんでいただきたいのであります。」

確信は信仰の「芯」である。彼は、その大切さを若き魂に打ち込もうとしたのである。

戸田の祥月命日である4月2日、伸一は、毎年この日に、戸田に“勝利”の報告をすることを、自らの義務としていた。いかに苦戦を強いられようとも、必ず何らかの勝利の実証をもって、法要の席に馳せ参じることが、弟子の道であると、彼は決めていたのである。

たとえ、草の根を噛み、岩盤に爪を立てても、前へ進み、勝って誓いを果たしてこそ、“獅子”であるというのが、戸田の指導であった。

山本伸一は、4月5日には、創価学会が建立寄進した、京都市右京区の平安寺の落慶入仏式に参列した。
京都の会員の喜びは大きかった。しかも、住職が 宗門の教学部長で 前の猊下の息子の阿部信雄と聞いてやがて京都中の寺が、大聖人の仏法に帰依するような日がくると大きな期待を寄せていた。

平安寺の阿部信雄によって、京都の広宣流布は進むと信じて、会員たちは苦しい生活のなかでも、寺への供養を続けた。だが、何年たっても、日蓮正宗に改宗する寺など、ただの一ヵ寺もなかった。そもそも阿部は、折伏を行じようとさえしなかったのであろう。

では、彼がしたことはなんであったか。ーーやがて、高級料亭に出入りし、時には、芸妓を呼んで宴席をもつ阿倍の姿が、目撃されたのである。

学会は、日蓮正宗の僧侶に限って、そんなことは絶対にないと確信し、周囲の人びとにも、そう断言してきた。日興上人の門流として、少欲知足の聖僧の伝統を守り抜いていると、固く信じていたからである。

学会員のなかには、料亭の従業員もいたし、さまざまな職業の人がいた。その人たちが、阿部の放蕩の現場に出くわすことになるのである。皆の衝撃は大きかった。

“私たち学会員が、生活を切り詰めに切り詰めて、供養した浄財を、こうしたことに湯水のごとく使う・・・。まさに、「法師の皮を着たる畜生」さながらではないか!”

失望のあまり、呆然と立ちすくむ人もいれば、体を震わせながら、悔し涙を必死でこらえる人もいた。
しかし、会員たちは、それを自分の心に秘め続けてきた。”僧俗和合して広宣流布に進もうとしているのだから事を荒立ててはいけない。自分が目をつぶっていればよいのだ”と考えてきたのである。

その後、阿部がしてきたことを思えば、彼は、法師の皮を着た「畜生」どころではなかった。後年、法主の座に就いた彼は、仏子の団体である創価学会を壊滅させ、宗門が直接、学会員を操り、支配しようと、学会を日蓮正宗から破門し、さらに、宗門興隆の最大の功労者である山本伸一を、信徒除名処分にするのである。まさに、広宣流布の破壊であり、「第六天の魔王」の姿を露呈していくことになるのである。



太字は 『新・人間革命』第7巻より

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